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パンドラの箱・14
深津たちがまだ一年生のときのことだ。
合宿中、松本は自分が吐いても、キツかった、と苦笑いするだけで文句は言わなかった。
だが深津が一年生の中で唯一スタメンメニューを行って、もう無理だ、逃げるしかないと吐きながら思っていた時は酷く険しい顔をしていたのを覚えている。当時は彼を潔癖症っぽいなと勝手に思っていたから、自分のものはさておき他人の嘔吐シーンを見るのが嫌なのだと思った。
そして河田や野辺と共に合宿を逃亡し、あっさりと連れ戻された後。
他の部員や先輩たちに慰められ、特に叱られることも無く部屋に返された。合宿逃亡はある意味恒例で、ほぼ逃亡経験者か逃亡したいと願ったことがあるもの達なので皆優しいのだ。
だが結局逃げられなかったのは事実だ。鬱屈とした気持ちで夜の廊下を歩いていた時、部屋の明かりがついているのを見た。

「監督、お忙しいところすみません」
「いや、いい。それで、相談というのはなんだ?」

そこには真面目な顔をした松本と、椅子に座って部誌だろうか。冊子を広げている監督がいた。
なんとなく気になり、部屋に大人しく帰る気にもなれなかったのでそれを息を殺して見守る。

「……合宿も後半になって、逃げ出す部員も多くなってきました」
「そうだな。毎年恒例ではあるが」

松本の口調が固く、少しばかり憤りのようなものを感じて身が固くなる。生真面目だと思っていたが、合宿の脱走者に怒っているのだろうか。逃げ出した手前、気まずくなる。大人しく部屋に戻るべきだった。だが同時に怒りのようなものを覚える。誰もが一之倉や松本のようにはなれないのだ。
松本は、そうですか、と口にした後、噛み締めるように続けた。

「夏になり、気温も上がってきています。ニュースで三十度を連日超えていると報道していました」
「そうだな。それがどうしたんだ」
「今のような外周を多く行い、通気の悪い体育館で行う練習は、少し危険かと思います」

監督の予想外だ、という顔とおなじ表情を深津もしていた。松本は目をそらさず、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「春よりも嘔吐する部員が多く感じます。もとより運動で多くの汗もかいていますし、嘔吐することで水分と体力が失われて熱中症のリスクも高くなると思います」
「……そうかもしれないな」
「……監督が考えた根拠ある練習だとは分かっています。ただ、体調を崩すまで行うのは、本末転倒かと思います」
「ふむ……」
「提案をさせてください」
「提案?」
「はい。外周や体育館での練習は必要不可欠だと思います。ですから、外周は日が一番高いときではなく落ちかけた夕方に行い、水分補給用の飲み物を持参させるのはいかがでしょうか。そうすれば荷重にもなりますし、暑さでバテることも少なくなります。体育館の方は、窓を開けてしまうとカーテンが閉められないので、出来れば……大きな扇風機を導入していただければ……日光で体温が上がることも減らせますし、風で体感温度も下がっていいと思ったのですが……すみません、こちらはこれぐらいしか思いつきませんでした」
「……いや、参考になるよ」
「……時間を取って頂き、ありがとうございます。生意気な口を聞いてすみません」

綺麗な直角に頭を下げて、そのまままんじりともしない姿に、胸の奥から熱いものが吹き出してくるような気がして、手が震えた。
松本は、自分たちと同じ一年生の彼は、他の部員たちを見て――自分たちを見て、監督に練習方法を見直して欲しいと直談判をしていたのだ。
これ以上ないほどに礼儀正しく生真面目に、しかし有無を言わせぬような姿勢で、頭を深深と下げて。
自分のためじゃない、逃げ出すほどに辛い部員たちのために。

「松本、もう頭をあげなさい。話はわかった。メニューについて、考えさせてもらおう」
「はい……。では、遅い時間にすみませんでした。失礼します」

頭を上げて、もう一度浅く頭を下げてから松本は監督に背を向けた。
そのまま部屋の扉に近づいて――同時に深津に近づいてきていた。
逃げなければならないのに、物音を立てる懸念や受けた衝撃から体が動かなかった。
そしてついに松本が扉を開けて、その視線が深津を捉える。
ぱっと見開いた目。止まった足。しまったと思ってももう遅い。
深津はなんと口を開こうか逡巡して、その間にそっと松本に腕を取られたことに気づいた。
松本は静かに扉を閉めて、何事も無かったかのように歩き出した。深津の腕を引いて。
2人で足音を消すように廊下を歩いた。
そして角を曲がったところで、はー、とどちらともなく溜め込んでいた息をついた。

「……いたのか、深津」
「……ベシ」

今さら何をどう言い訳しても意味が無い。肯定の意で返すと、松本はポリポリ、と頬をかいた。

「恥ずかしいところ見られたな」
「なんでベシ。……かっこよかった、ベシ」

そう、格好良かった。
恐怖の象徴といってもいい監督相手に一人で物申しに行く。それも仲間のために。小さな部屋での出来事であるが、そのバスケ部にいて、逃げ出したばかりの深津にとってはドラマや漫画の出来事のようだった。
松本は呆けたように目を瞬かせた後、照れたように苦く笑った。

「かっこよくなんてねぇよ……。ずっとガタブルしてたし」
「……気づかなかったベシ」
「はは、意見言いに言ってるのに、ブルブル震えてたら口も回らないしな。頑張って耐えてた」

そう言う松本は眉が垂れていて、一気に老け込んだような顔つきで、本当に気を張っていたのだと伝わってくる。

「それに、本当はもっと、早く言うべきだった」
「……早いも遅いもあるベシ?」
「合宿、始まった時から結構ヤバイよなって思ってたんだ」

少し笑みを浮かべた松本は、年相応の顔に戻ってきている。
合宿がやばいのは誰もが知っているが、松本もそう思っていたのか。吐いても、少しすれば復活して真面目に練習をしているから、堪えていないのだと思っていた。

「深津、吐いてたろ?」
「耐えられなかったベシ」
「だよな。下手すりゃ倒れるやつもいるかもしれない」

倒れる。確かに、先輩から聞いた話では倒れた部員もこれまでいたと言っていた。それも毎年恒例のことなのだと。
恐れ慄いたものではあるが、それが直談判にどう繋がるのか。

「部活のためだってのは分かる。監督も鬼じゃない。理由だってある。来年になったら笑い話になってるかも、ってさ。けど、そこで考えるのをやめてちゃダメだって、分かってたのにな」

それが、監督への話へつながったのか。
松本の目が深津を見る。黒い瞳にぼうと見つめる深津が映った。

「深津が吐いてるの見て、部活のためとか、鬼じゃないとか、理由とか、来年がどうとか。そうやって自分を納得させてるのおかしいってやっと分かった」

――自分を見て。
あの時の松本の表情が、嫌悪ではなく自責の念だったのだとようやく気づく。

「改善は、もしかしたらしないかもしれないけど、それでも行動するのとしないのとでは違う。俺がやんないといけなかったんだ」

使命感に燃える男の理由は分からなかった。脱走しないでいるからなのか、ただの責任感なのか。それでも、その瞳には確かに「深津たちを守らなければ」という強い意志が窺えた。
同い年なのに、同学年なのに、そんな意思をいつの間にか持って、吐いた深津を見て、監督へ話をしに行った。

「なぁ、深津」

松本の瞳が真っ直ぐに深津を見つめる。
その瞳には、表情には、確かに「庇護」の色合いがあった。

「戻ってきてくれてありがとうな」

唯一深津たちの慰めに参加しなかった松本は、きっと言いたくて言えなかった言葉を口にした。
しょうがない、辛いよな、俺も逃げたことがあるよ――そんな優しい言葉に、同じ優しさなのに意味合いの違うそれを持ち出すことが、きっと彼には出来なかった。

深津は、あの部屋を覗き込んで良かった、と思った。


――コンコン、と壁を叩く音が聞こえた。
壁際に布団を敷いて、額を壁につけるように寝ていた深津はその音を感じ取った。
寮の壁は、人の話し声は大きくなければ聞き取れないが、代わりに振動は容易に伝わる。それでも、間違っても聞き漏らしがないように額をつけて目を閉じていた。
深津はゆっくりと掛け布団を捲り、同室の河田を起こさぬように立ち上がる。
戸を音もなく押し開けながら、あの後に外周が行われる時間が夕方になって、体育館に大型扇風機が導入され、部員が大層喜んでいたのを深津は思い出していた。

緩い夏の廊下をヒタヒタと音を消して歩く。
行先にいる男に気づかれないように、角で立ち止まって様子を見て、行き先を確かめてから距離をとってその背を追う。
外へ向かって進んでいくらしいその背は、少し猫背で存在しない人の目を避けているように見えた。
薄暗い廊下で、窓から差し込む月明かりだけが周囲をぼんやりと照らす。
輪郭の曖昧な男は、そのまま闇に溶けていきそうな朧げさがあった。

「どこいくベシ」
「……」

今宵の月のように目を丸くしている松本が、口をキュッと閉じて背後から声をかけた深津を凝視していた。
そういえば、あの時も驚いた顔をしたものの声は上げなかったな。と一年前を懐かしく感じる。
松本は振り返ったまま少し固まった後、キョロキョロと周囲を見回してから、深津に視線を戻した。

「急に声かけんなよ。驚くだろ」
「の割に、リアクションが薄いベシ」
「夜中なんだから、でかい声出したらみんな起きちまうだろ」

そう言って玄関口で座ったままの松本は、靴の紐をチョイチョイと引っ張った。
外履きに履き替えている最中を狙ったので、松本は片方だけ外履きで、もう片方は裸足だった。
素足では足に悪いということぐらい知っているだろうに。
月明かりと、非常灯の緑の光が二人を照らしていた。
深津は、いっそのこと大騒ぎになるぐらいに松本が大声を上げてしまえばよかったのに、と思った。そうしたら、誰もが松本がおかしいと気づいて、心配をするだろう。今だって、口には出していないだけで皆がどれほど気を揉んでいるか、この男は分かっていない。
だから一之倉に告げ口をされる。
そして、
――俺が言っても聞く耳持たないからさ。
などと、酷いことを言わせるのだ。

松本は、手持ち無沙汰のように、何度も紐を掴んでは指の間に滑らせている。
夜に抜け出すのは当然、規則違反だ。しかしうっすらと見逃されている。逃げ出すにも近くの電車の終電時間は早く、夜になって抜け出しても逃げ出せないからだ。必然的に、外に出るのは気分転換や自主練になる。おそらく、松本の場合は後者だろうと思案する。
だが、この時間からの自主練など明らかにオーバーワークだ。ただでさえ部活の休憩時間中も個人練をして、部活後も自主練をしているのだから、夜は休まなければ体を壊す。
だがむしろ――壊したがっているように深津には見えた。

「脱走ベシ?」

思ってもないことを尋ねると、松本が思ってもなかったような顔で深津を見上げてきた。

「いや、ちょっと外に出て空気吸おうかと思っただけだ」

嘘をつかれた。と思ったが、自身も嘘をついたので何も言わずにスルーをする。
交差する視線の中で、あの時と立場が逆になっているような気がした。
彼を、守らなければならない。彼の庇護の目線が心地いいと思っているだけの自分ではもういられない。

「最近の練習はキツすぎベシ。ゴローは加減を知らないベシ」

インターハイへ向けて最後の調整をしているのか、近頃の監督の指示だしがかなりキツイのは事実だった。だが、一年時にしごかれた深津たちにとってはギリギリ耐えられる程度だ。
それを知っているのか、それともそれどころではなく意識していなかったのか、松本が目をゆっくりと瞬かせる。

「そうだな」

ピンときていないくせに同意する男に、深津は一つ提案した。

「一緒に脱走するベシ?」

今度は素早く瞬いた瞼に、すぐに畳み掛けた。

「お前とだったら逃げ切れそうベシ」

松本と二人、素足にシューズを履いて、足を痛めながらひび割れたコンクリートを走って薄暗い道を駅まで向かう。
時折走る車から木の影に身を隠して、駅付近で始発が来るまでじっと二人で時間が過ぎるのを待つのだ。
改札にいる駅員は学校と繋がっているから、電車が発車する間際に走り出して飛び乗る。
朝まで暇だろうが、彼となら話題は幾つでも出てきそうだ。話していないことがたくさんある。話そびれたことも、聞きたいことも。
二人でならば、逃亡もいい線までいけるのではないだろうか。
もし、電車に飛び乗った後に駅員に何か言われても、松本ならいい言い訳を考えてくれそうだ。
真面目な顔をしているから、真摯にいえばきっと学校側の駅員だって絆されてくれるだろう。
そうして学校から、バスケから離れて、二人でどこかへ行くのだ。
それで――この器用に見えて、とことん頑固な男が溜め込んだものを受け止めてやれればいい。

松本の瞳が、暗闇の中に一瞬揺れたような気がした。しかしゆるりと閉じられ、そのまま顔が前を向いてしまう。
紐をいじっていた手に力が篭ったのを、上からならば容易に見てとることができた。
ちぎれそうなほどに引っ張られたそれは、しかしすぐに力を失ったように床へと垂れる。

「……いや、俺は……いい」

体育館に響くはっきりとした声色は、今この時だけ、闇に溶ける影のようだった。
小さな光の加減で見失う。けれど確かに身近にある。
強く照らせば、いい加減口を割るだろうか。傷口を照らせば、観念して吐露するだろうか。
いいや、彼の頑固さを甘く見てはならない。何せ、恐怖の象徴に真っ向から挑むほど決意の固い男なのだから、生半可な覚悟で行けば逆に照らす隙もないぐらいに心を閉じられるかもしれない。
もちろん、覚悟をする用意はある。だが今は、少し場所が悪かった。夜は身を削り合う時ではなく、体を休める時間だ。

「そうか」

まんじりともしなくなった男の隣に、静かに座る。
松本はしばらく何も言わなかった。ただ、深津から逃げるように視線を深津へ向けることはなかった。
深津も彼が「戻ろうか」と口火を切るまで何も言わなかった。ただ、あの夜二人で話し合ったことを夢想していた。

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