- ナノ -

パンドラの箱・8
「松本」

掛けられた固い声に、来たか。と思わず心の中で呟く。
あぐらを解いて立ち上がり、ドアを開ければ
そこには百九十センチ代の大柄な青年がいて、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

部活も終わり、寮へと戻って、色々と介護をされながら――主に同じ部屋の一之倉が気を使ってくれ――飯を食ったり風呂に入ったりした。別に首が動かないだけだったのだが、軽傷だと分かった周囲が逆に遊び始めてしまい、お陰で俺は一足先に介護される側の気持ちがわかってしまった。普通に恥ずかしかった。
そうして部屋に戻り、一之倉が部屋を出て――そこで何となく察した。あ、来るな、と。
それまでの間、同級で一人だけ話しかけてこない奴がいた。こっちから声をかけるべきかと思ったが、何気なく同級達に邪魔されたので、いつか来るだろうと思ったが。

「河田、どうした?」
「……今、時間えが?」
「ああ、暇してるよ」

出来るだけいつもと変わらないように接する。河田はにこりともせずに、そうか。と言って「部屋に入っていいか?」と聞いてきたので、もちろんと返して部屋に招く。
適当に座ってもらって、特にこちらから口を開くことも無く河田に視線を向けた。変に誘導するのは彼には得策では無いような気がしたのだ。
少しの沈黙の後、河田がこちらに目を向ける。

「すまねがった。それから、感謝しとる」
「……おう」
「殴ってえぞ」
「なんでだよ。そんな事しない。分かるだろ?」
「……」

謝罪と感謝、それを言われて本当にしっかりしている子だなと思わず感嘆しそうになったというのに。
ボールの件は、確かに彼が投げたものであるが彼に非があるわけではない。ボールの先に一年生がいたのは不幸な偶然であったし、それを助けた俺が怪我したのも不幸な事故だ。それに、彼のコントロールミスというよりも、ボールの劣化が原因だと監督からしっかり聞いていた。古いボールが使われて、手入れが十分にされていなかった。そこに様々な偶然が重なり起こってしまったことだ。当然、起こらないようにしなければならない類のものだが、その原因を河田に押し付けるのは絶対に違う。
が――すんなり納得も出来ないのだろう。

「……コーラ奢ってもらおうかな」
「そんなもん――」
「俺も奢って、交換するか」
「……?」

ピクリと片眉を上げる姿に、口角が上がる。
彼は悪くない。不幸な偶然の積み重ね。誰が悪いとか、そういう話では無い。だが――だが、俺だって罪悪感がないわけではないのだ。
怪我をしないで助けられたら、田中や沢北、彼にこんなことを言わせずに済んだのに。
本当、いい子たちばかりで困る。

「ごめんな」
「何さ謝ってんだ」
「ホント、もっとスマートに出来てたらな。カッコ悪ぃな、俺」
「……何言ってんだ」

河田の目元が細くなり、もう片方の眉尻も上がる。沢北相手に最近よく見る表情になってきて、笑いながら制止する。

「怒るなよ」
「おめぇ」
「怒らないで聞いたら、それで終わりだ」
「……」

ピタリと顔の動きが止まる。反論したいが出来ないので、我慢しだしたらしい。
それにやっぱりいい子なんだよな、言われた通りすることないのに。と思う。

「もっと足が早かったらな」
「……」
「それかジャンプしてボールをキャッチとか」
「……」
「検査入院中、監督が付きっきりで居てくれて、無精髭生やしててさ。申し訳なかったな」
「……」
「河田に気に悩まないようにうまく伝えられたらいいのに、俺のことがあって河田のプレイが曇る方が嫌だってのにさ」

壁の方に逸れていた視線を、ちらりと戻す。そこには珍しく下唇を突き出している子供っぽい表情をした河田がいた。

「ん、終わり。ありがとな、聞いてくれて」
「……せこいやつめ」
「それは本当にそうだな。あー、難しい」
「首痛めてなきゃ〆てたぞ」

調子を取り戻してきた河田に、沢北を手本にしたムカつく笑みを向けてやると、目頭あたりがピクピクと動く。これ以上やると本当に怒られそうなので、前に押し出していた背をすっと後ろへ引いた。
終わりの雰囲気を察したのか、格好を崩した河田の膝に置かれた手を叩く。

「コーラ、頼むぜ」
「おめぇもな」


「もう寝る?」
「そうだな。ありがとな、一之倉」
「なんだ、バレてたんだ」

河田との話が終わり、その後はいつも通りの会話に戻った。沢北が落ち込んでたとか、深津が意外と心配してたとか、そういう話を聞いて、河田は部屋に戻っていった。それからしばらくして戻ってきた一之倉は、やはり意図して部屋から抜けていたらしい。
礼だけで理解したらしい一之倉は、押し入れから畳まれた布団を出し始めた。

「松本はそこに居てね。俺が敷くから」
「……なぁ、過保護過ぎねぇか? 一週間ぐらいで治るし、布団ぐらい自分で出来るぞ」
「俺が盲腸炎で入院して戻ってきた時、母親よりも過保護だったやつに言われたくないね」
「……」

別に、母親より過保護かどうかは知らないぞ俺は。
しかし意地を張って無理やり布団を奪い取るような子供では無いので、大人しく座って様子を見守る。
一之倉は我慢の男、という異名が着くほど我慢強い男で、誰もが逃げ出す合宿も逃亡せず、なんと盲腸炎でも痛みに耐えて気絶するまで我慢したという伝説の持ち主であった。
で、無事退院し戻ってきた一之倉の世話を焼いたのが同室であった俺。
いや、そりゃあ世話焼くだろ。盲腸炎で入院してたんだぞ。治療後だったとはいえ、世話を焼きたくなるのが人情だろう。確かに今逆の立場になってみるとやりすぎだったかもってなってるけども。やはりその立場になってみないと分からないことはあるよな、うん……。

「はい、横になって。布団かけたげるから」
「それはやりすぎだろ」
「どの口が?」

はい、やってたな、うん……。反省するから勘弁してくれ……。

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