- ナノ -

腕の先
注意
沢北の結合性双生児の兄の話。
ちょいグロ。怪異的。雰囲気で読もう




「お前のそれ、なんだベシ」

うっすらと沢北の右肩に見えた縦の線。
ノースリーブのユニフォームを着ると、それぞれの方から腕までが良く見える。汗が流れるその肌に、見慣れない模様があるのが目に留まり、ちょうど休憩中であることも加えて深津はその線に指を差しながら問いかけた。
給水していた沢北はごくりとスポドリを飲み込んだ後、へぇ、と意外そうな声をあげて言う。

「深津さん、これ見えるんすね!」
「どういうことベシ」
「いや、あんま言ってくる人いないんで。見えづらいんすかね」

そう言いながら、肩から二の腕にかけて伸びる線を沢北の指が辿っていく。
一度気づいてしまえば、随分と長い。鎖骨あたりまで伸びた線が肩を辿って二の腕まで。秋田の気候もあるだろうが、色が白い沢北の腕がそこだけ強く色味が出ており、薄い橙色になっていた。
気になってよく目を凝らせば、その線を覆うように短い線がいくつも作られている。

「手術痕」
「そうっす。よく分かりましたね」

そう言って沢北がその痕を慈しむかのように柔く撫でる。
その手つきが意外で、深津は思わずその様子をじっと見つめた。広範囲な縫合痕だが、色は随分と薄い。手術をしたのはきっとかなり前なのだろう。幼い頃に大怪我でもしたのか。と想像していれば、沢北が目をきらりと光らせ訪ねてきた。

「触ってみます? 深津さんにだったらいいっすよ」

はい。とスポドリでも手渡すように気軽に右肩を体ごと近づけてきた沢北に、一瞬戸惑う。
普通傷跡を誰かが見つめていたとしても、それに対して「触っていい」と返す人は少ないだろう。しかしそれは戸惑いの源ではなく、なんとなく「触ってはいけないもの」に見えた事が根源だった。
今まで沢北がユニフォームを着る機会は何度もあった。寄宿舎で風呂も一緒なのだから、目に映る機会など事欠かない。それでも、深津は今気づいた。
しかし――深津の手はその痕に伸びる。ただの縫合痕だというのに、吸い込まれるような、地表の割れ目のような魅力があった。

「どうすか?」
「……別に、ただの普通の皮膚ベシ」

痕は大きいが、薄い色合いどおり手への感触はそれほどでもなかった。
意識して触れば、少々凹凸があるかもしれない、ぐらいだ。しっかりと傷口は塞がり、あまりにも過去の傷になっている。
触らせて満足したのか、沢北はその痕を目を眇めて見つめ、嬉しげに言う。

「俺、この痕好きなんすよ」
「どうしてベシ」

アーモンドの瞳が、光を発しながら深津を見やる。
パッと弾けた笑みは良く見えるのに、なぜか周囲が暗く帳が落ちているように思えた。

「兄ちゃんから腕もらった痕なんですよ」




はじめて深津が沢北の兄を見たのは、一年のインターハイでの客席だった。
沢北が客席を見て、目を輝かせたと思えば大きく手を振り、それに大手を振る髭を生やした男性と、その横にいた青年。
すぐに彼が沢北の兄だとわかった。その顔は沢北の生写しで、髪型以外は沢北を複製したような姿だったからだ。
そうして、沢北が以前「腕をもらった」と評していた意味もすぐに理解できた。元々その情報があったからだろう、夏なのに長袖の上着を着ている青年。その左側の裾が力無く垂れていて、あれだ。と思った。あれが『沢北に譲られた腕の痕』だ、と。
沢北そのものであるアーモンド型の瞳がほんの一瞬、無遠慮に眺めていた深津を映したように思えた。偶然かもしれない、こちらがあちらを人形のように小さく認識しているように、あちらも深津のことなど見知らぬ一選手という認識で、他と顔の見分けも難しいはずだ。
その証拠に、その瞳はあっという間に深津のあたりから離れていき、楽しげに父らしき人物と顔を合わせていた。


あれから、一年ほどが経っていた。
なぜあの日を思い出したのだろう。深津はインターハイを終え、他の選手たちと共に秋田へ戻ってきていた。
結果は緒戦敗退。昨年、一昨年からは考えられない結果。だが、堂本監督もよく口にしている「勝負に『絶対』はない」。それが現実となった。
深夜、ふと目が覚めた。インターハイに負けたからといって日々のメニューが変わるわけではない。それなりの疲労を抱え、朝までぐっすりと寝るのが恒例であったはずなのに目が冴えてしまった。
消灯時間はとっくに過ぎていたが、夏のじっとりとした暑さを感じながら布団でじっとしている気にもならず、同室の同級たちを起こさないように足音を消しながら廊下へと出る。
そんな時、廊下の奥から人を呼ぶ音がした。
声などではない。電話の音だった。
ジリリリリリリ、と廊下の奥――電話が置かれている部屋から音がこだましている。
こんな夜更けに電話。しかも寮の電話番号は一部の関係者にしか知られていない。疑問を浮かべながら足をそちらへ進めた。
夜目に慣れてきた視界の中で、薄ぼんやりと電話機の輪郭が見える。近づけば、けたたましい呼び出し音のはずだが、なぜだか周囲に布が巻かれたように蟠っているようにも聞こえた。
深津は電話機の前に立ち尽くしながら、その電話が沢北宛であると知る。
理由はなかった。ただ鳴り響くそれが、沢北を呼んでいるように思えた。それだけだった。

――ガチャ。

見つめていた電話機の受話器が、そんな音を立ててポロリと落ちた。
まるで風に吹かれて葉が落ちるように、風も何もない空間で、それなりに重い受話器が落下していた。
受話器はゴロリと机に転がり、受話口が深津側へと向く。

「こんばんは」

夏にそぐわない、秋口の冷たい空気が背後から流れた。

「……」
「初めまして。栄治の兄の、裕治です」

反射に従い振り返った先で、肌の白い青年がなんの衒いもなしに微笑んでいた。
その姿は一年前に見た姿から変わっていない。沢北をそのまま複製したかのような身長、容貌。ただ坊主ではなく普通の短髪をしている。しかし服装は以前と異なっていた。一年前は長袖の上着を羽織っていたが、今は口の広い白い半袖を着ている。そうすると肩からすっかりない左腕がどうなっているかを観察することができた。鎖骨あたりから丸く抉り取られているかのように、シャツがそこへ寄り添っている。
あれが、沢北にやった腕の痕。

「眠れないんですか?」
「……ピョン」

尋ねられ、しかし動揺とも混乱とも、呆然とも捉えられない感情からただ接尾語だけを口にした。
しかし相手は会話が成立しているように「そうなんですね」と柔らかく言って、警戒する小動物に対するようにゆっくりと近づいてくる。
それに、深津は逃げの文字が一瞬浮かんだが、沢北そっくりな顔と鈍いと思えるほどの緩やかな動作が深津をその場に止まらせた。
そうして触れそうなほどに近づいた時に、裕治はそっと自分の左側の腕の継ぎ目だった場所を触る。
その動作が存外に荒いように思えて、深津の胸がざわついた。

「痛くないんですよ。これ」

裕治がシャツをゆるりと捲る。目を逸らしそうになったが、興味が先んじて目が離せなくなっていた。焦りが裡で滲む。
開けた先にあったのは抉られた肩口で、皮が内へめり込むように傷だった場所が塞がれていた。思ったよりも綺麗な傷跡で、確かに痛みはなさそうだ深津も感じる。

「……そう、なのかピョン」

初めて出た接尾語以外の言葉に、裕治は嬉しげに少し歯を見せて笑った。その表情は、沢北にそっくりだった。

「触ってみますか?」

胸の奥で脈が強く鳴る。口に出していたか、と深津は焦ったが、そんなはずはなかった。喉が乾くような感覚の中で勝手に口が動くわけがない。
裕治は目を細め、深津へ左肩を差し出した。えぐれたそこは、ねじれるように傷口の中心へ皮膚が集まっていて、肉で少し盛り上がっている。固そうにも見えるし、柔らかそうにも見える。あれは筋肉だろうか、それとも脂肪だろうか。痛みはないと言っていたが、それは触っても同じなのだろうか。

「強く触っていいですよ。栄治の時みたいに優しいと、俺くすぐったいんです」

思い出したのか、くすぐったそうに小さく笑う裕治に、年下の気配を感じた。
確かにあの時、深津は慎重に触った。それこそ花でも触るように。それが、彼にはくすぐったかったらしい。

「触って、いいのかピョン?」

彼は後輩にそっくりの顔で、しかし明らかに異なる笑みで言う。

「深津さんにだったらいいですよ」

――いつの間にその手を伸ばしていたのだろう。己の手が、彼の断面へと伸びている。
しかしそれを理解したところで、止めようとはもう思えなかった。
人差し指が、そっとその皮膚に触れる。盛り上がったそこは柔らかで、下に詰まっているのは脂肪なのだとわかった。
誘われるように、そのまま中指、薬指、小指の腹で触れていく。柔らかで、しかし少し弾力がある。ひんやりとした肌は心地よい。
手のひらを全て押し当ててしまえば、どこか皮膚の集まる中心部分が、少し温いような気がした。

「疲れてるの?」

そう伺うように問いかけられる。
親しい、昔からの知り合いのような柔らかな近しさに、胸の奥が温かな安堵を感じて瞼がゆっくりと開閉する。
その問いかけは、すぐ目の前で瞳を覗き込むように聞かれていて、隠し事はできないように感じられた。
全身で抱きしめられているような温さを感じて、じわじわと力が抜けていく。
疲れ――日々のメニューをこなしている中で、疲れは隣り合わせにある。疲れていないというのは、嘘だ。だが、彼がいう疲れはそうではないとわかった。疲れ、誰もが感じているだろう。インターハイ緒戦敗退。それに胸の痛みを感じなかった者などいない。
体だけではない、精神的な疲労が皆の背に確かな重みを持ってのしかかる。当然、深津の背にも。
三年生、キャプテン――その背には、確かに重みがあった。だが、それを口に出すことはない。深津はそれらを自らの中で対処できる成熟さも、達観性もあったからだ。誰にも口にしたことはない。それを彼は覗き込む。
彼は柔和に微笑んだ。

「いいよ。ナカに入れてあげる」

何も答えなかった――答えられなかった深津に、彼はそう家に招待するような気軽さで言った。
そこで深津は、彼との距離の近さの理由をようやく理解した。
彼はとても近くにいた。目と鼻の先、眼前、鼻が触れ合いそうなほど。深津は触れた腕を曲げてなどいない。深津の腕は、彼のナカに入っていた。断面が深津の腕を飲み込んで、肩までぴたりと寄せている。飲み込まれた腕の感覚は薄れていた。ただ、なぜか焦燥は一切なかった。ただ、温く、優しい液体の中にいるような安堵が腕から広がっていき、深津を侵食するように伸びていく。
その安堵が深津から体の自由を奪い、目の前がただ彼の優しげな表情で埋め尽くされる。広がる柔らかな優しさが脳に行き着いて、頭がぼやけ、浸されていくにつれ全ての制御が効かなくなり、その場に崩れ落ちそうになる程おぼつかなくなった。
飲み込まれた腕が、さらに吸い込まれていく。飲み込まれているのか、食われているのか、抱きしめられているのか、一つになろうとしているのか。
何もわからなかった。思考が溶け、表情の制御も効かず、口から唾液がこぼれていく。

「さぁ、お入り」

思考が消される――直前に。


「兄ちゃんッ!!」

聞き慣れた後輩の声で、深津は目を覚ました。
起床時間は過ぎていて、周囲はすでに準備を始めていた。いつもの同級だけが集まった一室の自分の寝床に横たわっている。「朝飯行くぞー」という声掛けに、深津は定かではなかった思考をゆっくりと引き戻し、ようやく上半身を起こした。

朝食を食べに食堂へ、野辺や河田、松本と共に歩いていく。
途中、電話機がある部屋を通った。そこには静かに受話器が定位置にあるだけの電話機があり、深津はそっと右腕をさする。
電話機を通り過ぎ、廊下へと出ようとした時、背後の電話機がけたたましく鳴り響いた。

「うわ、なんだ?」
「電話か?」
「朝から誰だべ」

皆足を止め、電話機の方へ視線を向ける。
ジリリリリ――一度音が途切れる。それに、誘われているような気がして、背に汗が伝った。
そして、一度、二度、と繰り返し――深津の足が一歩進もうか、というところでバタバタと騒がしい足音が響く。
その足音は真っ直ぐ電話機へと進み、正体が姿を現した。沢北だった。
乱暴なほどに受話器を急いで取り上げて、耳に押さえつける。

「栄治だけど!」

その言い方に、沢北宛に家族からの電話らしいと皆目を合わせる。

「沢北宛だったのか」
「約束してたのかもな」

そう会話して、三人がその場を離れようとする。深津は、気付かぬうちに早まっていた脈を感じながら惹きつけられる受話器から目をどうにか逸らした。
そうして歩き出そうとした時に、背後から声がした。

「深津さん」

振り返れば、受話器を手にして、送話口を塞ぎながら深津を見ている沢北がいた。
唇を尖らせて、むくれたような表情をした沢北は、はっきりと深津へ告げる。

「いくら深津さんだからって、兄ちゃんはあげませんからね!!」

瞠目する深津を笑うように、受話口から笑い声が聞こえた。

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