- ナノ -

#7
バスケ部員のドリブル音と声かけの音が響くアリーナで、間根山は周囲を見回す。
しかし体育館の隅を見ても、天井を見ても目当ての人物はおらず、パス練を終えて息を切らせていた木暮に声をかけた。

「ねぇ、桜木くんは?」
「ああ……。桜木は、部室で赤木に追い返されてたよ」
「ふぅん」
「ふぅ……部室を綺麗にしてくれたみたいなんだけど、赤木が素直に認めなかったらしくてね」
「赤木、頑固だもんなぁ」

手に持ったボードの練習メニューを眺めながら会話をする。次はシュート練だ。
しかしその号令の代わりに、赤木の怒声が飛ぶ。よく響く声を聞いていると、どうやらボール磨きとフロア掃除がしっかりできていないことに対しての叱咤のようだった。言われてみれば、とバッシュで床を軽く擦ってみると、汗なのか埃なのか、少し滑る。
よく見ているなぁ、と眺めながら、今日にでも掃除をするか、と間根山はぼんやりと考えた。


ボール磨きとフロア掃除について叱られていたのは、本来その役目を担っている二年生たちであった。
だが二年生は四人しかおらず、しかも一人は入院中で部活に参加できていないので実質三人しかいない。そこに桜木が茶々を入れているので、掃除の時間などないのだろう。だから、間根山が体育館の戸締まりをした後に学校へやってきて、マネージャーとして所持を許可されている鍵を使って部室に入り、掃除をするのは悪いことではないのだ。
静かな校内を歩いて、部室の前へやってくる。誰もいない校内は静寂に包まれていて、まるで現実の世界ではないように間根山には思えた。
そもそも、前世ではこの世界自体が空想であったのだから、その感覚は間違っていないのかもしれないが。
だが、やはり時折忘れてしまう。普通に生きているのだと、この世界は以前の世界の延長線上で、人々は登場人物ではなくただの人間で、その中に生きている自分も平凡な学生なのではないかと。しかし事実は異なる。
いくら普通の人間に見えていようとも、ただの学生に見えていようとも、彼らは空想の世界に生きる生き物たちであって、自分はそうではない。
鍵を差し入れ、錠を外す。開いた錠をポケットに入れて、部室の扉を開けた。
木暮が言っていた通り、部室は綺麗になっていた。男世帯なので、それなりに雑多に使われていたから床にゴミが落ちていることは日常茶飯事だったのに、しっかり清掃されていて密かに感心する。
今日、間根山は事前に着替えてから体育館に直行していたので、部室を見るのは暗くなってからが初めてだった。
雲も少ない空で、月が輝いて電気をつけなくとも部室が明るく照らされている。夜目を効かせて、置かれていた椅子を持ち、ボールカゴの近くへ置いた。ポケットに忍ばせておいた布とワックスを取り出す。
近くの机の上にそれらをおいて、ボールを一つ手に取った。確かに間根山が触れたボールは埃で凹凸が滑らかになってしまっているようで、ツルツルと手から滑っていくような感覚がある。プレーにも支障が出るだろうし、怪我の原因になる可能性があった。しかし、カゴに入っているボールは優に二十個は超えている。明日まで終わるだろうか、と漠然と考えた後に、やってから考えればいいだろうとボールに布をあてがった。

「ぬ? 鍵が空いているぞ……。クク、ラッキー」

そこに、誰かの声が聞こえた。ふと顔を上げると、部室のドアノブが勢いよく回った。
そのまま開かれた扉の奥から、学生服を着た赤髪のリーゼントの青年が現れる。

「――!? ま、まま、マネさん……!?」
「……こんばんは。桜木くん」

間根山は、そういえばそんなこともあったなぁ、と内心で呟いた。


いくら見知った世界でも、覚えていることと覚えていないことがある。今回は覚えていないことであった。
夜の部室に先輩がいたことに驚いたのか、桜木はあわあわと手足を動かした後に「もしかしてゴリラに命令されたんですか!?」と斜め上の方向へ勘違いし、赤木の家へ喧嘩をふっかけに行こうとしていたので、間根山が事情を説明して誤解を解いた。

「掃除をしたかったから、ですか! いやぁ、奇遇ですね! 俺も掃除がしたくてですね!!」
「ふふ、綺麗好きなのはいいことだね。せっかくだし、一緒にやる?」
「も、もも、もちろんです!!」

だらしのない笑みを浮かべる桜木に部室に置いてあった布とオイルを渡して、軽く説明をする。
単純作業のため、すぐに理解した桜木は間根山に習ってボールを一つとり、床にドスンと座った。

「俺がきたからには、すぐに終わらせてやりますよ!」
「そっか。頼りになるね、桜木くん」

根拠のない言葉を誉めて返せば、桜木は嬉しげに眉を下げた。

最初はソワソワとしていた桜木だが、間根山が何も言わずに集中してボールを磨いているのに触発されたのか、徐々に落ち着きを取り戻していき、ボール磨きに専念するようになっていった。
その様子を横目で盗み見て、それからボールへと視線を移す。
桜木は初めてのボール磨きなので作業の速度は遅い。しかしそれに負けず劣らず、間根山の作業も遅かった。
丹念に磨いているといえば聞こえはいいが、執拗なほどに磨いているようにも見える。しかしボール磨きの経験もない桜木はそんなことは分からないし、そもそも初めての作業に間根山の方まで意識を移す余裕がなかった。

そうして一時間が経過し――両者含め、未だ六個のボールしか磨けていなかった。
桜木が三個、間根山が三個である。磨きおわったボールはどれも新品のように美しかったが、未だボールは大量に残っていた。
その現状を慣れない作業で疲れ切った桜木がボールカゴを見て認識し、タラリと冷や汗をかく。

「ま、マネさん! ちょぉっと待っててくださいね! 援軍を呼んでくるんで!」
「うん。いってらっしゃい」
「はい!」

ぴょんと立ち上がり部室を出ていく桜木を、手を振り見送る。
間根山は手に持っていた磨き途中のボールをそっと机に置いて、椅子から立ち上がった。ずっと同じ姿勢をしていたから、体からポキポキと音が鳴る。
軽く体をほぐしてから、運動がてら綺麗になった部室を歩くことにした。
きた時より夜も更けたが、むしろ部室内は月光が強くなったのか、それとも夜目が効くようになったのかよく見える。奥まで進んだところで、閉められたロッカーからわずかに飛び出した紙を見つけた。
珍しいことにそれは赤木のロッカーからはみ出していて、間根山は入れ直してやろうとロッカーを開く。
ガチャ、と軽い音がして挟まっていた紙の正体が現れた。それは雑誌の一部で、表紙が挟まってしまっていたらしい。月光に照らされたそれが、赤木の大事にしている週刊バスケットボールだと気付き、間根山はそっと手に取った。

「最強、山王……」

角がわずかに折れてしまった雑誌の表紙には、そんな文字が踊っていた。
最近のものではない、何年も前に発刊されたものだ。
折れた角を丁寧に戻して、そっと雑誌を捲る。週刊バスケットボールの名の通り、内容はバスケットボールのことしか掲載されていない。試合中の写真や、選手インタビュー。そして何度もインターハイを優勝してきた『最強』と誉れ高い山王工業高校に関する特集。
古い雑誌ではあったが、大事に扱われてきたのだろう。ページが破れたり、読めなくなっている箇所はなかった。間根山も、赤木にこの雑誌を見せられたことがある。これが原点なのだと目を眇めながら口にしていた赤木に、間根山はなんと返しただろうか。
雑誌を閉じ、しかしロッカーに戻すわけでもなく表紙を見つめる。表紙を飾るのは一人の選手。白いユニホームに山王工高と印字されている。番号は四番だった。

「ヤマオー?」
「……桜木くん。援軍はどうだった?」
「いや、それが……電話をしたんですが、ハクジョーな奴らですよ! 忙しいやらバナナがないやらと!」
「あはは、じゃあ二人で頑張ろっか」

いつの間にか戻ってきていた桜木の声が後ろからかかり、それに目を向ける。
どうやら手助けは望めなかったらしく、憤慨している桜木に笑って雑誌を戻そうとした。
しかしその前に、桜木が疑問の声を上げる。

「ヤマオーってなんですか?」
「……秋田にある高校だよ。バスケットがすごく強くて、インターハイ優勝常連なんだ」
「ジョーレン……」
「そう。赤木の夢は全国制覇だから、ヤマオーとも戦うことになる」
「ほほう。ダイジョーブです! 俺が入ったからには、ヤマオーなど敵ではありませんよ!」

胸を張って堂々と宣言する桜木に、間根山は雑誌をロッカーに戻した。

「……そうかもね、でも、彼らもきっとたくさん努力をしているだろうから」

そこまで言って言葉を区切り、後ろへ振り向いた間根山に、桜木はポロリと頭に浮かんだことを口にしていた。

「友達でもいるんですか」
「えっ」
「あ、いや……なんか、そんな感じだったんで……」

本当にただ、なんとなく浮かんだことだった。間根山の声がなんだか柔らかかったような気がして、同時に哀愁のようなものを感じたからかもしれない。
確証もない内容に桜木が頭をかいていれば、間根山が驚いた顔を収めてわずかに唇を舐めた。

「……友達じゃないんだけど……中学の時の知り合いが一人、入学してたと思う。これ、赤木にも言ってないから、秘密にしてね」
「ひ、秘密……! ハイッ、もちろんです!」
「ふふ……。うまい子だったから、スタメンになってるかもね……」
「すためん……」
「いつも試合に出る選手、その学校で強い五人の中に入ってるってことだね」
「ほぉ……」

腕を組んで唇を尖らせている桜木を眺めながら、間根山はその知人を思い出していた。
元気にしているだろうか。いいや、しているに決まっている。評判はバスケをしていれば勝手に聞こえてくるのだから。
桜木は少しすると、ハッと目を瞠目させた後に、ピャッと姿勢を正した。何事だろうと間根山が見上げていると、桜木が硬い声で尋ねてくる。

「も、もしかして、そ、そいつと付き合っていたり――」
「しないよ」
「な、なら、もしかして片想い――」
「もしてないよ」
「そッ! そうですか!! そうですよね、あっはっは!」

友達じゃない、を斜め上方向に想像を膨らませてしまったいたらしい。安堵したように頭に手を当てて笑う桜木に、どうしてそんなに嬉しげにしているのだろうと疑問に思いつつも、間根山の思考は過去へ引っ張られていった。

「私はもっと前に、失恋してるからね」

知人に出会うよりももっと昔。まだこの世界が空想だとも知らなかった遠い日に、共に隣を駆けていた。
青草の匂いが鼻腔に香り、二人に降り注いだ陽の光の暖かさが肌に感じられる。
何も知らなかったあの頃。何も知らなくてよかったあの日々。

あの子の背中が見える。走り出して、小さくなっていく。彼が追う先には、白と黒のボールがあった。

その姿を見つめていた間根山には、雷撃を喰らったように動けなくなっていた桜木は目に入っていなかった。

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