- ナノ -

グレイグが見習い騎士として学び始めて、数ヶ月が経過した。
最初は戸惑っていた彼も、しっかりと教えて共に行って、月日を重ねていけば慣れていった。
以前と変わったことといえば、ずっとグレイグといられるようになったところだろうか。基本的に彼は私の後ろを着いてきてくれたし、逆にグレイグが行きたいといえば私も彼の後を追った。見た目は全く違っていたが、あまりにも一緒にいるので私たちは見習いの中でも二人で一つ、兄弟のような扱いを受けるようになり、私としては有難いことだった。グレイグも嫌がってはいなかったと思う。
そして季節は巡り、冬がやってきた。十二月の寒い気候。しかし人々の顔は晴れやかだ。
年越しを控え、城での業務もひと段落し、残る兵士やメイドは少数いるが、多くの人々が家に戻り休養をとるのだ。
見習い騎士の訓練を見てくれている部隊長に、節度ある行動を心がけろよとお言葉をもらいながら、少ない人数の大部屋を見回した。
私とグレイグ、そして退屈そうな子供たちが二、三人。どうやら彼らも実家には帰れないようだった。何か事情があるのか、それとも数日経ったら帰れるのか。どちらにしろ、今の私には関係がない。ただあるのは――。

(母上に、会いに行かなくては)

母上のことだった。
あれから月日が経ち、私は七歳となっていた。私がこの城にやってきたのがおおよそ一年前。私の記憶が確かなら、私が城に預けられた時点で母上は流行り病にかかっており、一人寂しい最期を迎える。父は私が小さい頃にすでに姿を消していた。メイドたちはいたものの、屋敷の大きさに反してあまり多くはなかった。すでに資金は枯渇していたのだろう。金もなく、病にかかり――母は私を城へ預けることとした。
王はそれを承諾し、同時に母からの願いも聞き届けた。
私が成人するまで、母のことは伝えない。母の病も、そして母が亡くなったとしても。
覚えている限りでは、城に預けられて数年後に母は亡くなり、屋敷までなくなっていた。
ならば、おそらく――会える希望があるのは、今年だけだ。

「ホメロス、どうかしたのか?」
「……ああ。なんでもないよ」
「そうか? ねぇ、訓練もないんだってさ。何して遊ぼっか」

嬉しげに笑うグレイグは随分城に馴染んだと思う。
どんな出自の相手に対しても厳しい訓練は、彼を着実に成長させている。今は私の後ろをついてきているが、一人で駆け回る日も遠くないだろう。いやがおうにも自立性を育てる軍の教育は、幼い彼に大人への階段を指し示している。
それに思わず頬が緩むような心地を覚えるが、なんだか静かな湖に石を投げ入れたような感覚もする。なんとも形容し難い。

「ごめんグレイグ。僕、ちょっと用事があるんだ」
「用事?」
「うん。だから今日は遊べないんだ」

グレイグはポカン、と口を開いてまじまじとこちらを見つめていた。その反応も妥当だろう。私がこうしてグレイグの誘いを断るのは、騎士見習いとなってからは初めてなのだ。それぐらいなんだかんだと理由をつけてグレイグと行動を共にしていた。
駄々をこねられるだろうか。どう対処しようか、と思案していると、グレイグは電池の切れた人形のようにコクリと頷いた。

「分かった。本を読んでようかな、ホメロスが前にとちゅうまで読んでくれたやつ」
「デルカダールの国史書か。一人で読めるか?」
「わからないところは後で教えてよ」
「いいよ」

そう言って頷くと、グレイグは私が使用している小さな棚から本を取り出して、自分のベッドに腰掛けてそれを開いた。
視線はこちらには向かずに、本の文字へと向かっていた。前に読み聞かせをした時はすぐに眠ってしまったが、一人で読み進められるのだろうか。
いや、にしても――正直、もう少し、何かあると思ったんだけど……。
グレイグはこちらに興味を失ったかのように、私をシャットアウトしてしまった気がする。な、なんだろうこれ……。こちらの事情を加味して気を遣ってくれた、と思う。なのに、なんか……。い、いや、グレイグはいい子だ。なんていい子なんだ。だから寂しいとか、そういうことは思わなくていい。
私は棚の引き出し部分から一つの封筒を取り出して、一度だけグレイグを確認してからその場を離れる。グレイグは本に顔を近づけて、文字を追っていた。目が悪くなってしまいそうな距離だったが、何も言わずに廊下へと繋がる扉へ足をすすめた。

王からお使いを頼まれたんです。と門番に嘘をついて城下へと出てきた。
なかなかどうして、本当に警備が甘い。しかしありがたいことだ。しばらくは甘いままでいてほしい。
城下は年越し前の賑やかな雰囲気に包まれていた。行き交う人々、大きな噴水。荘厳な教会に、酒場や露天。吟遊詩人や踊りを披露する人々もいて、少なくともこの国は平和なのだとわかる。
十六世紀ごろのヨーロッパの街並みを彷彿とさせる、レンガや石で作られた建築物。だがそこに行き交う人々の中で、髪色や服装が少々特徴的な人物もいる。色が派手であったり、特徴的な甲冑を身につけていたり。覆面をつけて、上半身がほぼ裸の男性がいたり。
そんな人々を掻い潜って、自身が過ごしていた生家へと早足で進んでいく。
それほど遠くはない。子供の足でも三十分もあれば着くだろう。周辺を眺めながら、ゆっくりと進んでいく。思えば、記憶を思い出してからこうして城下に来たのは初めてからもしれない。後でグレイグも連れて、外へ出たいなと思う。
城で暮らしていると、外へ出る機会がとことんない。城の中だけで生活が完結してしまう。少し、街のことも見た方が彼のいい経験になるだろう。
ポケットに入れていた封筒を手に取る。その中身は手紙だった。
母は、流行病にかかっている。そう考えると、会えるかどうかはわからなかった。会えるのが一番だが、それができないのならば、手紙だけでもと思った。しかしそれも、母が生きていなければ意味がない。
手紙には、しっかりと騎士見習いとして励んでいることや、友達ができたことを書いた。それから、母を愛しているとも。
愛している。唯一血の繋がっている家族だ。だが、そんな彼女に私ができることは少ない。
こんな手紙とか、城を抜け出して会いに行こうとするとか、それぐらいだ。私の知識では流行病は治せないし、彼女の苦しみを緩和させることもできないだろう。非力だ。未熟な、ただの子供。

「……家は、あるな」

歩き通しでやってきた生家は、未だそこに存在していた。
記憶では数年後には更地になっていたので、まだあってよかった。
しかし、花々が咲いていた美しい庭の手入れはあまり行き届いていないようで、屋敷へ繋がる門は少し錆びていた。
なんとなく、その空間だけが暗く見える。
屋敷はあった。だが、もしかしたら、母はもう――。
よぎる思考を振り払う。諦めるな、そんなことを考えるために来たんじゃない。
私は意を決して、門へと手を伸ばした。


私は一人、雪の降り始めた道を歩いていた。
柔らかい雪は大粒で、降り止む気配はない。少ししたら徐々に積もっていくだろう。
それをぼうと見つめる。――母には、逢えなかった。
だが、母は亡くなってはいなかった。
門から入り、玄関にたどり着き、扉を叩いて昔さんざんお世話になったばあやに扉を開けてもらった。
驚いた後に、どうしてここへ。と叱られそうなのを、母に逢いにきた。と押し通した。
ばあやは戸惑った様子で対応に困っていたようだったが、母が流行病であることも知っていると言って、どうしても母に逢いたくてきたのだと説き伏せた。
ばあやは難しい顔でそれを聞いていたが、ついに折れた。母は、自室で休んでいる、と。
だが私のいう通り流行病で、病状は良くない。医者も呼んではいるものの、よくなっている気配はないということだった。ばあや以外のメイドたちは流行病に罹るのを恐れて逃げ出し、今はばあやしかいないのだそうだ。
それを聞いて、想像通りではあったものの胸が痛んだ。優しい母は、メイドたちがいなくなるのを咎めたりもしなかったのだろう。ばあやも、辞めたくなったら辞めていいと言われていると言っていた。
事細かく事情を聞こうとし、あまりにもしっかりしていた私をばあやは城で大きく成長したのですね、と目を眇めていた。そう思ってくれるなら好都合だったから何も言わなかった。
そして手紙を持って、いざ母の部屋へ足を運んだ。
広い屋敷は所々に埃が積もっていて、廃墟の面持ちを醸し出し始めていた。
部屋について、固唾を飲んで、慎重にノックをした。

「僕です。ホメロスです、母上!」


――母は、苦しそうだった。そして決して扉は開けてはいけないと言って、涙をこぼしていたような気がする。
手紙を持ってきたのですと言えば、手紙だけ置いて帰りなさい。あなたは騎士になるという勤めがあるはずです。と告げられた。

私は、それ以上何も言わずに、手紙だけをばあやに託してその場を去った。
母は決死の覚悟を持って、私を城へ預けることを決めたはずだ。彼女も、子供と離れたくはなかったはずだ。けれど、病のこと、家のこと、全てを鑑みて王へと子供を頼んだ。その覚悟に、私は泥を塗ってしまっただろうか。

わからない。でも、あの手紙だけは、届けたかった。

曇天のせいで薄暗くはあったが、まだ周囲は明るかった。重い足取りできた道を戻っていく。
来年は、どうしよう。まだ、彼女は生きているだろうか。それとも、もう家までも更地になっているだろうか。
迷惑だったろうか。逆に未練を感じて、彼女は辛くなってしまっただろうか。
ふわふわと思考が浮かんで、そして霧散する。
そんな状態で城へいつの間にか戻ってきていて、門番の兵士に声をかけた。

「戻りました……」
「ホメロスか。おや、グレイグはどうしたんだ?」
「グレイグ……?」
「ああ。お前と一緒の用があるって出て行ったが」
「……グ、レイグが!?」

門番の言葉に目を見張る。
私と同じ用事、なんだ、どういうことだ!? 私はただ私用で城を抜けただけだ、王のお使いも、そんなものは存在しない。
なら、どういうことだ。なんでグレイグが城の外に出ているんだ? グレイグは一度も城から出たことはないはずだ。なのに、一人で、こんな寒い中!
私の様子に、異変を感じ取ったらしい門番が、どうした? と少しうわずった声で訪ねてくる。

「あ、あの、僕が夜までに戻って来なかったら、王にこのことを伝えてください」
「王に?」
「ぼ、ぼく、グレイグを探してきますっ!」
「あ、ホメロス!?」

その場から飛び出すように走り出し、城下へ駆け戻っていく。
後ろで声が聞こえたが、そんなのは耳に入って来なかった。
再びざわつく城下へ戻り、手当たり次第に声をかけた。

「紫色の髪をした男の子を見ませんでしたか」
「僕と同じぐらいの年齢で、瞳は緑色なんです」
「ここにくるのは初めてで、迷子になってしまったんです」
「その子はどっちに行きましたか!」

知らぬと言われ、あっちに行ったと聞き、無礼な小僧だと怒鳴られながら、必死でグレイグを探した。
気にしていないと思っていた。本を読んで、大人しく待っていてくれているものかと。
けれど違った。グレイグは私についてこようとしていた。どうして、なら最初から駄々をこねてくれればよかったのだ。そうしたら、そうしたら――……でも、それでも、連れてはいなかった。あらゆる言い訳を持って、グレイグを城へと止まらせただろう。
城下は危ないし、何より私の私用だった。一人で行きたかったというのもある。
どうすればよかったのだろう。どうしよう、グレイグがこのまま戻らなかったら。治安は悪くないとはいえ、犯罪は当然ある。人攫いだって、存在しているのは知っている。見習いとは言ってもただの子供だ。捕まってしまえばろくに抵抗もできないだろう。
必死で荒い息をしながら走っていく、寒さで鼻の奥がツンと痛む。道に積もり始めた雪に足を取られて、転びそうになった。
聞き込みをしながら、どうにか情報をかき集め、走って走って、たどり着いた先。
そこは、庭の荒れた屋敷の前――私の生家だった。
そこに、菫色の髪をした幼子が、足を抱えてうずくまっていた。

「グレイグ!!」

すぐさま駆け寄って、膝をついた。
――よかった、見つけた、座り込んでいる、どうしたんだ、何があった、どうしてここに。
頭がズキズキと痛んだ。早く、こちらに顔を向けて。

「ッ、ほめ、ろす……?」

伏せていた顔が、上向く。私を見つめたその目元は赤らんでいて、瞳は潤んでいた。
疲れ切ったようなその姿、しかしそれよりも目を引くものがあった。

「け、怪我、したのか」

グレイグの鼻から、血が流れていた。拭い取ったあとはあるが、鼻血が出ていたのだろう。
そして頬には擦れた傷跡があって、頬の薄皮が剥けて血が少し滲んでいた。痛々しい。
グレイグはキュ、と眉を下げて、それから耐えるように言った。

「して、ない……っ」
「し、してるだろ。どうしたんだ」

なぜか否定するグレイグに、どうしようもなく胸が荒れる。つけていたグローブを外して、その頬に手を添えた。冷たい。
血は出ていなくとも、赤くなっている部分に指を触れれば、痛みが走ったのかぎゅっと瞼を閉じる。
ほら、そんなに痛そうなのに。どうしてそんな嘘をつくんだ。
見習いとして訓練をしている中で、傷ぐらい日常茶飯事だ。だけど、少しの傷でも私がすぐに手当てをしていたから、グレイグにはまだ傷跡は一つもなかった。それに、頬に傷なんてものは今までできたこともない。

「グレイグ……」

どうしていいか分からない。この子が何を考えているかも、理解できない。
大事にしたい、真綿に包んで優しく抱きしめたい、そうしなければならないのに、どうしたらいいかわからずに、ただ名が口からこぼれた。
柔らかでふっくらとした頬にでこぼこと刻まれた傷を、指でなぞった。
閉じられた瞼が、さらにきつく力がこもる。寄せられた眉に、先ほどよりも強い痛みを覚えているのだとわかった。
じわり、と閉じられた目の淵から涙が溜まり、まつ毛を伝い、頬へ流れる。
私の指へと伝って、その熱さに息が止まった。パッと手を離して、外したグローブを強く握る。

「グレイグ、ごめん。痛かったよね」
「ッ、い、たく、ない……」
「痛いだろう……。グレイグ……、ごめん。ごめん、一人で置いて行って……」
「え……」
「僕のこと、追いかけてきたんだろう」

そう言えば、グレイグの大きな翡翠の瞳が私を見つめた。
痛みを忘れたかのように一心に見つめてくるグレイグに、間違っていないと言葉を続ける。

「でも、どうして僕を追いかけてきたんだ」
「……」
「……寂しく、なってしまったのか?」

恐る恐る、正解かと思われる答えを口に出す。そうすると、グレイグはぎゅっと目を細めて、眉をこれ以上ないぐらいに下げた。

「ま、窓から、ホメロスがみえて……」
「……うん」
「お、お城に、いると思ってた、からっ」
「うん」
「お、置いて、いかれたと、思って……っ!」

目頭と目尻から、溢れた大粒の涙が頬を耐えきれずに頬を伝う。
置いていくわけがないのに。グレイグを置いていくわけなんかない。ただ少し、自分のエゴを通しに進んだだけだった。けれどそれは彼に大きな不安を与えてしまった。寒さか、涙のせいか鼻水まで垂れてきたその顔に、泣きそうなぐらい愛おしくなって口をぎゅっと噤んだ。
冷えた体を温めるようにそっと抱きしめる。今度こそ真綿で包むように、間違えないように。愛しさに潰すほど抱きしめたい気持ちを必死でおさえて、両手で抱きしめ、ゆっくりとさすった。

「不安にさせてごめん。置いて行ったわけじゃない。ちゃんと帰るつもりだったんだ」
「うぅッ、ひぅっ」
「グレイグを置いて行ったりなんかしない」

ひっ、ひっ、と喉が引き攣る音が鳴り、そしてわぁあん、と周囲に響く大声が腕の中から聞こえてくる。
ああ、彼がこんなに泣くのも、大声を張り上げるのも、数ヶ月前のあの時以来だ。
涙が出るほどの悪夢も、不安も抱かなかったのだろうか。それとも、ただ我慢していただけだろうか。
ふと、城を出る前にグレイグに用事があると言った時のことを思い出す。興味を失ったように本に向かったこの子は、本当に興味を失っただけだったのだろうか。本当は不安なのを胸に仕舞い込んで、なんでもないふりをしようとしただけなのではないか。
ああ、子供は何て聡明で、健気で、それでいて単純で、無垢なのだろう。

「ずっと一緒だよ、グレイグ」

日毎に積もる愛しさは、胸の中にいる幼子のようにとても暖かいのに火傷をするほど熱くて、身が焦げそうだった。

グレイグが落ち着くまで待って、泣き声が聞こえなくなってようやく体を離した。
そこには目を真っ赤に腫らした子供がいて、思わず眉が下がる。

「大丈夫か、グレイグ」
「う、ん」

掠れた声で頷く彼に、ああ、水をあげなければと思うが、ここはただの道端で住宅の立ち並ぶ場所だ。井戸だって近くにはない。
それにグレイグは怪我もしている。見える外傷は頬だけだが、他にも怪我をしていたら処置をしなければならない。何より彼はとても冷えていて、鼻も耳も頬も真っ赤だ。雪は依然降っていて、しばらく動いていなかったから、私たちを囲むように雪が積もっている。
視線が道の向こう側へと向いた。手入れのされていない庭、雪が積もり廃墟の面持ちを見せ始めた屋敷。
――行こう。
あそこは、私の家だ。ばあやがいて、母がいる。私の、確かに帰るべき場所。いずれなくなるとしても、今は、今だけは。

「グレイグ、背中に乗れる?」
「せなか?」
「うん、背負っていく。僕の家まで」

家。と聞いて目を丸くするグレイグに小さく笑う。私が外出した理由もわかっていなかったらしい。
それもそうだ。ゆっくりと話をしよう、話を聞こう。目の前にある、私の家で。


再び門を開け、扉の前で叫んで、どうにかばあやに開けてもらった。追い出そうとしていた風だった顔は、私の背に乗った子供を見て喉の奥に引っ込んだらしく、中に入れてもらえた。
暖炉のある部屋で、暖をとりながら応急手当てを行った。幸い、グレイグの怪我は頬だけで、鼻血はとうの昔に止まっていた。どうして怪我をしたのかと聞いてみれば、雪に足を取られて顔から転んでしまったらしい。なんとも子供らしい怪我の理由にひどく安堵した。
消毒をして、頬にガーゼを貼る。鼻血も拭き取れば、なかなかに元気そうな姿になって思わず笑みがこぼれた。頬も擦り傷で、少しすれば跡も残らず治るだろう。

「ここが、ホメロスの家?」
「そうだよ。一年前まで、ここに住んでた」
「ホメロス、家に帰ってたのか」
「ああ……母上に会いに行ってたんだ」
「母上……」

沸かした湯を飲んで枯れた喉を潤したグレイグに、ここまでやってきた理由を語る。
グレイグは母と聞いて、少しだけ遠くを見る目をした。しかし、すぐに視線が私に戻る。

「じゃあ、母上に会えたんだ」
「……会えはしなかったけど、手紙は渡せた」
「え……。なんで会えなかったの?」
「母上は病を患っていてね。だから、直接は会えなかったんだ。城を出る時も、王からのお使いだと嘘をついて外に出た。本当は、会っちゃいけないことになっていたんだ」
「な、なんで」
「王から止められていたんだ。……母上は、騎士になるのに集中して欲しいと思ってくれていたから、そう王へお願いしたんだ」
「王、が……」

そう呟いて、苦しそうに俯いてしまったグレイグに、苦い笑みが浮かぶ。私もなんと言っていいかわからずに、何も口にできなかった。
王の命令は絶対だ。それを破ってここまできた。けど、今思えばそれでよかったと、思う。そうしなければ私はきっとずっと後悔していただろうから。手紙しか届けられず、扉越しに話をしただけだったけれど、それでも母との時間を少しでも持てた。
私の人生で母のために時間を費やすことができた。その事実に、どれほど私が救われるか。
小さく目を閉じる。優しい母の笑みが瞼に浮かび、消える。あの人の声も、いつまで覚えていられるだろうか。
ふと、手に暖かな熱が触れた。瞼を開けると、小さな手に、やはり小さな手が乗っている。グレイグだった。

「グレイグ?」
「だめ、だ」

顔を見れば、そこには真っ直ぐにこちらを見つめる翡翠の瞳があった。
強い意志が浮かび、私を射抜いていた。

「会わないと、ダメだよ」
「……グレイグ」
「病気で辛いなら、会わなきゃ、だって、じゃないと」

そこで、彼の口が閉じる。
――どうしてだろう。どこで、わかったのか。
彼には言っていない、知っているわけがない。なのに――その悲痛な色合いは、私の母に死が近いことを理解しているようだった。
なぜなのかと疑問を口に出す前に、ただ納得した。その通りだと。
そうだ。だから私は今日、ここまで足を運んだのだ。私の行動が母の気遣いを裏切るものだとしても、自分のエゴでしかないとしても。それでもやってきた。手紙を携えて。でも――それだけじゃ、きっとだめだ。

「……グレイグ」
「ホメロス……行って……お願い……」

手を握って、そう祈るように告げる子供に、救いを見る。

「……もう一度、行ってみる。……ありがとう、グレイグ」

免罪符はもう手の中にある。
もう一度、行こう。それがただのエゴだったとしても、突き通すためにそれはあるのだから。

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