- ナノ -

時折、本当にまぐれのように見習いの中で、模擬戦での成績一位になれるようになってきた。
周囲はその感覚の通り、まぐれだズルだなどと言う。私はそんな彼らの言葉を聞き流し、成績一位は除外される掃除を彼らに押し付けて、本を持って目的の場所へ駆けていくのだ。

「グレイグ、来たよ!」
「ホメロス!」

扉の前で声をかけると、嬉しげな音が中から聞こえる。本を持ったまま肩を押し当てて扉を開け始めると、小さく開いた隙間から、翡翠の瞳が見えて思わず笑みがこぼれる。彼は扉の隙間に手を差し込もうとして、ハッとした表情をした後に手を引っ込めた。
以前、指ぐらいしか入らない隙間に彼が手を入れたのを叱ったのだ。もし挟まったらどうするのかと。子供の指なら切断だってあり得るのだ。そう事細かく説いたのが効いたのか、彼は素直に十分な隙間が開くまで待ってから開ける手伝いをしてくれた。

「今日は早かったね、ホメロス」
「うん。頑張ったからね」
「がんばる? 何を?」
「グレイグももう少ししたら分かるよ」

彼が城へやってきて二ヶ月が経った。私と同じなら、あと一ヶ月で見習いとしてあの部屋に移動することになるだろう。そうしたら、少し早く来れる日の秘密を知るだろう。だが、今はそんなことはどうだっていい。

あれから――グレイグを目撃し、記憶を思い出し、そうして滅亡した日のトラウマに泣くグレイグと出会ってから幾許かの月日が経っていた。
彼が城へやってきた時からの仲だから、二ヶ月ほど。その中で、随分彼と仲良くなれたと思う。
あの夜。部屋に入った私は何かに誘われるように泣いていた子供を抱きしめた。それは善意だったのか、戸惑いだったのか、それとも前世が女だったことからくる母性だったのか分からないが、それでも私は彼を助けたいと思った。
しかし幼い私にできるのは、抱きしめた彼の頭を撫でて、もう大丈夫だと口にすることぐらいしかなかった。
それでも、彼は私を抱きしめ返し、糸が切れたかのようにわんわん泣いた。扉越しに聞いていた泣き声が囁き声かと思われるほど大きかった。涙が枯れるのではとこちらが心配するほどに泣いて、彼はころりと寝てしまった。しっかりと私の服を掴んで。
どうしよう。と思ったが、彼の手を解く選択肢は私には出てこなかった。結局、寝入った重い体をどうにか引きずって、ベッド――は背が高くて持ち上げられなかったので、ソファに二人で横になった。
夏の初め、シーツがなくとも問題はなかった。むしろ、腕の中の子供の体温が熱いぐらいだった。
その温度を感じていると、私も心が和らいで、落ち着いて物事を考えることができた。焦るばかりだった心境から、今後のこと、自分が何をすべきか、どう動くべきか、何を学ぶべきか、など――。
そうしていると、同じく子供だった私の体力も限界になり、そのまま眠りの世界に落ちてしまった。
朝日によって目が覚めて、慌てて戻らねばと未だ服を握って離さなかったグレイグを起こした。眠る幼子を起こすのは可哀想だったが、手を解いていつの間にかいなくなる方が戸惑うかと思ったのだ。
寝ぼけ眼な彼に事情を説明して、そうして部屋を去った。不安そうにしていた彼に、またすぐに来るよ。と声をかけ、その時は別れた。そして約束通り、訓練が終わった後にすぐ足を運んだのだ。メイドからこっそりもらった甘いドライフルーツの小さな包みを手に。

あれから、私は毎日彼の部屋へと通っている。最初は隠れていたが、何度も目撃されてからもう隠さなくなった。彼らも何も言わないから、暗黙の了解となっているのだろう。
訓練終わりにやってきて、そのまま朝まで部屋にいることもある。月が雲に隠れるような暗い夜、または彼が不安そうに名を呼ぶ日。もしくは私がただ一緒にいたい日に、私は彼に本を読み聞かせながら共に寝る。時折本でない時もあるが。

パタンと扉が閉まる音がして、私は本を持ってソファへと座った。慣れた様子で、グレイグが隣によじ登るように腰を下ろす。

「今度はなんの本をもってきてくれたの?」
「英雄王物語の本だよ。好きって言ってたから」
「えいゆうおうの本! 好きなの覚えてたんだ」
「勿論だよ。グレイグのことだから」

そう言うと、グレイグは数度目を瞬かせた後に、砂糖菓子を溶かしたように甘く笑った。その頬を舐めれば本当に甘い味がしそうなほど、可愛らしい笑みだった。衝動的に抱きしめたくなる気持ちを押さえつけて、応えるように笑いかける。

「じゃあ、早速読もうか」

本を開くと、グレイグが身を乗り出して右肩に暖かな温度がピタリとくっつく。それに内心くすくすと笑い、ゆっくりと文字を音読し始めた。
子供にとっては大きいこの本は、城にある図書館から借りてきた物だ。日本語とは違い、英語のように統一された文字で書かれたそれは読みやすくはあるが、単語の意味を知らないと内容が全く入ってこない。難しい単語が出てくる度に、言い換えたり、説明したりしながら物語を読んでいく。
日に照らされて、暖かい陽気の中で二人きり本を読む。こういった時間が記憶を思い出した私には欠かせないものになっていた。
本当ならば、恐ろしい出来事が起こるであろう未来に向けて、少しでも何かをしなければならないのかもしれない。だが、憔悴して頭が回らなくなっては本末転倒だ。ある種、ここにいる時間ぐらいしか、本当の意味で心休まる時間が無い。この広い部屋で扉がしまった後、私はようやく私でいることが出来る。
将来勇者を追いかけ回す、黒甲冑の将軍になるとは到底思えないふわふわで柔らかな幼子を構いながら、広がる暖かな空気を甘受する。
そうすると、余裕の生まれた精神はようやくつらつらと今後についてある程度の予測を立てたり、有効な手段を弾き出したりし始める。
バンデルフォンは既に滅亡してしまったが、魔物が群れとなって計画的に攻撃を仕掛けてくる事例があることは軍は把握している、魔導師ウルノーガについて我が国の人物は誰も知らないだろうが本編でロウ様や姫が情報を得ていたように、その名はこの世界に悪の魔導師として存在はしている、十四年後のユグノアまで短くはあるが多くの時間がある。焦って無為に時間を過ごすのではなく、信頼のおける情報を集めていく、そしてその手段は――。

考えがまとまっていく。一人の時に考えて絡まっていた思考が解されるようだった。
ページを捲る。その手に、ポタリと雫が落ちた。落ちた元を見てみると、そこにはグレイグがおり、彼の頬には涙が伝っていた。ああ、また泣いてしまった。

「グレイグ、どうしたの?」
「っ、ほんが……」
「本?」

彼が好きだと言っていた英雄王の本。それがどうしてグレイグを悲しませたのだろうか。背を撫でて答えを待っていると、声をつまらせながら子供が言う。

「ははうえが、むかし、よんでっ、くれた話、だった……」

そう言って目元を拭うグレイグに、急いでハンカチを出して、彼の目に優しく押し当てる。
短編が章ごとに書かれている中で、かつて彼が母に読んでもらったものがあったという。もういない母を思い出して、家族を思い出して涙が溢れ出てしまったようだ。こういうことは共に過ごしていると幾度もあって、彼の心の傷の深さをその度に感じる。ふとした時に、ともすれば笑っていたら突然言葉を失う彼に、私は最初戸惑って、拙い慰めしかできなかった。
ただ涙を拭って、凍えていく体を温めるように抱きしめて、大丈夫だと口にしながら抱きしめる。扉の奥で出会った時と何ら変わらない。そうしてそれは今でも同じだった。

「とても優しい母上だったんだね」
「うっ、はは、うえっ……!」

母を想って泣く子供に、何を言ってやればいいのか。女であっても、子供はいなかった私にはてんで分からない。ただ、目の前の子供が可哀想で、愛おしいのだけは理解できる。なんとかしてやりたい、その涙を止めてやりたい。
この部屋によく訪れる。それは自身の思考が整理できるから――当然、それだけではなかった。
この本当に小さな幼子が、故郷と家族、全てを失い泣き濡れるのをどうにかしてやりたかった。知らぬところで泣いていないか心配で、見たこともないけれど、きっとバンデルフォンで咲き誇っている花のように笑うようになった笑顔が尊くて、守ってやりたいと思う。
彼を守ってやりたかった。偽善でも母性でもなんでもいい。その強い使命感があるから、諦めずにより良い未来を選び取ろうとすることができる。
本を閉じ、机の上に置いて、そっとグレイグの肩を囲った。もたれさせるように引き寄せて、その毛並みの良い髪に頬をくっつける。自身の服を指先が白くなるほどに握りしめる手を、涙を拭うことをやめた手で上から包み込んだ。

「たくさん泣いていいんだよ。母上との大事な思い出だ」
「う、うぅ、ひっ、どう、して――」

どうしておれがいきのこったの。
涙に溺れながら響く言葉は、時折聞こえる彼からの疑問。
それに応える術は持っていなかった。いいや、実際、真実ならば話せるだろう。
君は選ばれていたからだ。英雄王の生まれ変わりとして、世界を救う勇者の盾として。ゲームをすればわかる。彼は選ばれていた。
だが、それを今彼に言ってどうなると言うのか。傷口を広げて塩を塗って、涙を枯らしてやろうと言うのだろうか。だから、そんな私しか知らないような、一方から見た真実などは必要ない。だが、そうすると私が告げられる言葉は何一つなくなってしまう。
誤魔化すように、彼のつむじに触れるだけのキスをする。感触でわかったのか、彼がゆるりと顔を上げた。
以前、泣き止まない彼に困惑しきり、思わずドラマや漫画で見たようなそれをして大いに焦ったことがある。けれど、彼はどこか郷愁を匂わせる瞳で涙を止めたので、間違いではなかったのだろう。きっと家族にしてもらったことがあったのだ。だから、有用なのだと理解して口を寄せるようになった。
彼の翡翠の目にはやはりどこかを思い出すような趣があり、それに促されるように額に唇を触れさせる。

「おいで、グレイグ」

彼から少し身を離し、両手を広げた。
グレイグは赤くなった目に浮かぶ翡翠の瞳を大きく揺らした後、飛び込むように抱きついてくる。
そのまま二人でソファに身を沈めて、彼の泣き声が聞こえなくなるまで丸い頭を撫でていた。


「のど、かわいた」
「水を持ってきてあげるよ」

涙や鼻水でぐちゃぐちゃな幼子に苦笑して、ソファからひょいと降りる。
背の高い、今は透明なガラスの水差ししか置かれていない執務机からグラスに水を汲み、はい、と彼へと差し出した。
子供には大きなグラスを受け取って、彼が少しずつ口に運ぶ。再びソファに座り直しながら、彼を眺めた。

「けふ」
「はい、もらうよ」
「うん」

半分ほど飲んで止まった手からグラスを受け取る。
グレイグが泣き止んだ後のいつものやりとりだった。泣くと喉が乾くらしい。胸元に涙の跡がくっきりと残るぐらいに泣くのだから、それもそうだと思うし、脱水症状になっても困ってしまうので水を飲んでくれるのは都合がいい。
一口私も水を飲んで、机に置く。それから途中で出番を失っていたハンカチで彼の顔を擦らないように拭いていった。
ようやくまぁまぁ見れる顔になったグレイグの頬を一度だけ撫でる。
泣き疲れたのか、少し呆然としているグレイグを観察する。散々泣いた後はこうして脱力するか、そのまま寝入ってしまう。今日はどちらだろうか、と眺めるが、疲れてはいるようだがそのまま寝るようなことはなさそうだった。
しかしもう本を読むような気分ではないだろう。だからと言って、この状態のグレイグを放置して帰れるわけもない。
短いようで長い時間が過ぎ、日が陰り出したところで声を出した。

「グレイグ、今日は僕がいない時って何をしていたの?」
「ホメロスがいないとき?」
「そう。ずっと寝てた?」

グレイグが首を横に振る。思い出すように視線が左にずれ、そうしてポツポツ語り出した。

「朝は……パンを食べて……。トビラをちょっとだけ開けて、ホメロスがいないかろうかを見て……。お昼にお肉が出て……がんばって、半分ぐらい、食べたよ」
「半分! えらいじゃないか。たくさん食べれたんだな」
「……ホメロスが、ちゃんと食べたほうがいいって言ってたから」
「そうか。僕が言ったことをちゃんと覚えてたんだね。いい子だなぁ、グレイグは」

慰める意図ではなく、褒めているのだと伝えるために少し強めに頭を撫でた。
わ、と驚いた声がして、ボサボサになった髪の毛の下で、大きな瞳が嬉しげに細まる。

「あと、お昼のあとのメイドさんのおそうじ手伝ったんだ」
「そうじを? メイドさんも助かっただろうな。どんなことをしたんだ?」
「えっと、くずかごを持ち上げたり、イスを動かしたりしたよ」
「一人で全てやるのは大変だろうから、きっと助かっただろう。グレイグは気の利くな」

感嘆するように言えば、彼は雨に濡れた花が日に照らされて咲返るように笑みを浮かべた。
それに安堵と共に、深い喜びが胸に溢れる。つられるように笑って、続くグレイグの話に耳を傾けた。

可愛らしい報告を聞いていると、いつの間にか日が落ちている。楽しい時間は過ぎ去るのが早い。
そうして騎士見習いとはいえ、軍は時間に厳しい。見習いは揃って食堂で食べる決まりだ。行かねば叱りつけられる、と言うことはないが、夕飯を食いっぱぐれてしまう。
時計に目を向けた私に気づいたのか、グレイグがすっかり涙の消えた顔で不満を訴えてくる。

「ホメロス、行っちゃうの?」
「うん。夕飯を食べに行かないと」
「もう少しはなそうよ」
「そうしたいけど、夕飯が食べられなくなっちゃう」

グレイグの頬が膨れて、ぐらりと天秤が傾く。夕飯とグレイグの、もちろんグレイグの方へ。
そうはいっても、ここにいてはグレイグの夕飯を持ってくるメイドに見つかってしまう。一応、許可なく入り浸っているのだ。暗黙の了解になっているとしても、遠慮がなくなり過ぎれば目に余る。

「すぐ戻ってくるよ」

そう口にした時、ガチャリと扉が開く音がして、思わず肩が跳ねた。
いつもよりメイドが部屋に来る時間が早い。あと十分は余裕があるはずだったのに。グレイグも驚いたのか何も言わずに固まっているようだった。かく云う私もそうだ。なんと言い訳をしようか、隊長にちくられてしまったらどうしよう。そう焦りを脳裏に駆け巡らせていれば、見知ったメイドの目線がこちらを向いて、それからドアを大きく開いたと思うとワゴンを押して入ってくる。
スルーしてくれるのか? と思うが、ワゴンごと机に近づいてきてさっと本を机から取り去ってしまった。
そうして机の上に、手慣れた様子で布を敷き、カラトリーを並べ、パンやスープの入った食事を並べていく。しかし、不可思議なことにそれは一人分ではなかった。

「え、あの……」
「……今日だけ特別よ」

戸惑いに口を開きかけた私に、メイドはそっと口に人差し指を当ててそう言った。
それに、これが彼女の厚意であることを知って、何度も首を上下に振る。彼女はウインクを一つすると、ワゴンを押して部屋を出ていった。
机に並べられた二人分の料理にグレイグと目を合わせ、喜びを分かち合った。

食堂で食べるものより手の込んだ料理を食べ、大きめに切られた野菜を残そうとするグレイグに手ずから食べさせてやり、それでも残った分は私がいただいて、お腹いっぱいになった頃、彼女がワゴンを引いて食器を回収にきた。
お礼を言おうとしたら、スッと目を離されて言葉を遮られる。そのまま彼女は部屋に備え付けられたバスタブに少量の湯を張って、衝立をその前に移動させてワゴンを引いてさっさと出ていってしまった。
どういう意図だろうかと衝立を回ってバスタブを見てみると、明らかに二人分の入浴用の石鹸やタオル、衣服の準備がされている。見習いは当然、別棟にある大浴場を時間を制限されて使用することになっていたが、これをみる限り風呂も二人で入っていいと云うことなのだろう。

「グレイグ」
「なに? 何かあったの?」
「もしかしたら今日は、ずっとグレイグと一緒にいられるかも」
「え! ほんと!?」

パッとグレイグの表情が華やいで、私はちょっと眉を下げて笑った。
どうやらメイドは私たちの味方らしい。毎日欠かさず通っていたのがよかったのか、それともグレイグの健気な手伝いのおかげか。
どちらにしろ、少なくとも今日は大部屋に帰らなくてもすみそうだ。

二人でバスタブで洗いっこをして、ついでに歯も磨いておく。
磨き終わったグレイグに、口を開くようにいってよく中を観察して磨き残しがある場所を再度綺麗にする。大きく口を開けた口内にある歯はまだ乳歯のため小さくて可愛らしい。少し前歯がぐらついているだろうか。私は乳歯が抜けた下の前歯に永久歯がようやく揃ってきたところだ。

「まーはー?」
「まだだよ。もう少し」

そう返し、最後の仕上げを終える。
まだ乳歯と言っても歯磨きをおろそかにしていいわけではない。虫歯になって痛い目をみるのは彼なのだから、気を遣えるところには遣ってやりたい。前世で虫歯で痛い思いもしたから尚更だ。

「よし、じゃあ出て寝る支度をしようか」
「うん!」

嬉しげに頬を染めたグレイグは一緒にいられそうと伝えた時からずっと機嫌がいい。
好意を全く隠さぬ様子にこちらも頬が緩む。もしかしたら、いつも「すぐ戻るよ」と言って去っていくのを心淋しく想っていたのかもしれない。見習いは訓練さえしっかり出ていればそれ以外の生活への監視は緩いが、それでも一緒に寝られるのは一週間の一度ぐらいだ。楽しい時間が絶えずに続く、確かに嬉しいだろう。

寝支度を整えて、二人でベッドへ上がる。
私より体の小さな彼には広いベッド。でも二人でなら、まぁまぁ隙間は埋まる。
二人で柔らかなシーツに潜り込んで、顔を突き合わせてくすくすと笑う。いつもは私がこっそりと入って、ベッドで私を待っているグレイグに声をかけるから新鮮だ。
枕の横に置いた本に手を伸ばす。寝る前に泣いてしまったら目が腫れるから、グレイグのお母さんとの思い出の物語は一旦封印し、別のハッピーエンドで終わる話にしよう。そう思いながら本に手をかければ、くい、と服の裾を引っ張られた。
視線をそちらへ向けると、グレイグが問いかけるような双眸でこちらを見つめていた。

「母上も、こうやっていっしょに寝てくれたんだ」

翡翠の瞳に映った私の姿が、きっと彼の母上の、そして他の家族の影に重なる。

「ホメロスは、どこにもいかないよね……?」

懇願する声色に、縋りつかれていると知る。その問いかけは今までも何度かあった。
その質問を聞くたびに、胸の奥が針に刺されたように酷く痛む。大事なものを失った者に過ぎる恐ろしい不安を、どうにかしてやりたかった。
けれど、即座に効く治療などはなく、時間と人が癒していくしかない。
柔らかい、丸みのある頬を包んで、その濃い不安に色づく瞳を見つめ返しながら言う。

「大丈夫だよグレイグ。僕はどこにもいかない。ずっとそばにいるよ」

そう、これは一足早い誓いだ。我ら二人、デルカダールの双頭の鷲となり、共に国と民を守る。そして、自分のことも、グレイグのことも。
デルカダールの国旗に刻まれた二対の頭を持った鷲。共に誓い合うのは数年後だろう。まだ彼は逃げる術すらしない。君が大きくなった時、そうして年老いて君の父よりも歳を経た時、共に笑い合えるように、一人でも心より誓う。
グレイグを腕に閉じ込めて、想いを伝えるように抱きしめる。彼は腕の中で小さくなって、私の服をぎゅうと握って、少し布を濡らした。

「ずっとずっとそばにいる。グレイグを守るからね」

そう囁き続けていれば、腕の中の重みが重量を増し、そうして寝息が聞こえてくる。
彼に語った誓いは、きっと無理と無茶を通さなければならないものだ。
勇者の誕生、ユグノアの滅亡、魔導師ウルノーガの王への乗っ取り、そうして私へも訪れる闇への誘い。
鍛えることも、調べることも、何もかもが山積みだ。
今、私にできることは少ない。いくら私が未来を見たのだと言っても、ただの不安からくる妄想で終わらせられてしまうだろう。何しろ証拠が何もなく、そうして同じような陰謀論は巷に不安と共に大量に流れている。ローシュの伝説になぞらえて、魔王の復活や勇者の誕生を嘯くものたちが大勢いるのだ。それと同じ有象無象になってしまっては意味がない。
力を、情報を集めなければ。全てを救うなど大それたことはできない。それでも、できうる限りは取りこぼさぬように。
腕の中で眠る幼子と共に、輝かしい未来を迎えたい。

彼が、こうして涙を流さぬような未来を届けたい。
――けれど、なぜだろう。
どうにかしてやりたいと針の刺さる胸の内に、どこか甘い痛みが灯るのは。

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