- ナノ -

蝉の声
マジで本編と関係ない現パロ
十五歳差の日常&恋の話
真エンド後、ホメロス追加要素イベントはなかった前提





田舎の夏の風物詩、耳障りな蝉の鳴き声が無遠慮に耳に入ってくる縁側で、扇風機の風に一本にまとめた長髪が揺れる。
年に一度、父方の祖父母の家に泊まりに行く。それが我が家の習慣だった。
祖父母は元々欧州出身で、日本に惚れ込んで移住してきた。日本の文化を大層愛している祖父母たちは、日本の都会に家を建てるのではなく、コンビニすらない田舎の山の麓に昔ながらの日本家屋を建てた。そしてその子供たちはそのまま田舎で田畑を耕して過ごしたり、都会に出て就職をした。
私の父は上京し、そこで同じく欧州出身で日本へ働きにきていた母と出会い、そのまま結婚。そうして生まれたのが私――ホメロスだった。
祖父母の住まうこの村には、同じく欧州から移住してきた夫婦がいる。彼らの両親が祖父母と古い知り合いで、同じく日本文化に惚れ込んだ彼らが移住したいと考えたときに頼ったのが祖父母だった。同じ村に引っ越し、それからは家族同然に付き合いをしていると聞いた。
そうして、その家に子供が一人。珍しい藤色の髪に、大きな翡翠の瞳。名をグレイグと言った。

彼の話を聞いた時、私はふと思い出したことがあった。
彼と共に、同じ時間を生きた記憶だ。
グレイグという少年の話を最初に耳にしたのは、母からの世間話だった。村に移住してきていたご夫婦に赤ちゃんが生まれたんですって。
そうめでたい話題の後に、彼の容姿と名前を聞いて、思い出した。だから、それはついさっき生まれた子供との記憶ではなかった。
前世――とも言っていいのか疑問だが、ファンタジー、夢物語の中の人生だった。
そこでも私はホメロスという名前で、貧乏貴族の生まれだった。地頭の良かった自分は神童として扱われていたが、母が流行病にかかり、城へと預けられた。そしてそこで私は騎士を目指すことになる。母が死に、私は騎士になることを誓う。その国の最高の騎士――デルカダール国一番の騎士に。大切な友と共に。
しかし、その夢は果たされることはなかった。残念ながらファンタジー世界であったそこは――確か、ロトゼタシアという世界の名だったか――魔物が存在した。共に最高の騎士になろうと約束した友が、私を追い越し先へ進んでしまうことに焦り、苦しみ、妬んだ私は……残念ながら、自分の役目を放棄した。つまり、魔物側へと足を踏み間違えたのだ。そうして、密かに裏切りを続けた私はついに三十六の齢に、私を魔物側へと引き込んだ魔物――ウルノーガが動き出すタイミングで正体を現した。
その後は――まぁ、よくある話になる。闇に身を落とした男の運命など決まっている。私は勇者と呼ばれる少年に打ち倒され、無様にウルノーガへ命乞いをし、そうしてその魔物の凶刃の前に倒れた。使えない、いらぬ知識を持った死にかけの部下は殺すに限る。ある種、ウルノーガは当然のことをした。
そうしてグレイグというのは――最高の騎士に共になろうと誓い合った友人の名前であった。
藤色の髪に、翡翠の瞳。力強い二メートルを超える強靭な肉体に、どこまでも忠義を尽くす鉄の意志。その武勇は世界に轟き、デルカダール国の将軍、グレイグの名を知らぬものはいないほど。かつて、共に競い合い、夢を語り合った少年。
……ある意味、彼と仲を違ってしまったのもウルノーガの計略だっただろう。だが、それを思い出した今、思い悩んでも意味がない。
そう、何もかも意味がない。
思い出したおとぎ話は、しかし幻想だ。今の私には関係のないものだったし、信じがたい記憶でもあった。
何より、そんな惨めに死んだ自分を認めたくはなかった。
その前世を思い出したのは十五の頃。それでも、分かることがあった。
羨望や憎悪、嫉妬で狭くない視界では、すぐに理解できた。
彼と自分では役割が違った。彼は英雄と呼ばれるほどに力強く、真っ直ぐだったが、頭がキレるわけではなかった。魔物に一直線に突っ込んでいくだけでは、彼は無事でも兵士たちが死に絶える。私は知略によって彼を、そして国を支えていた。ああ、言われていたとも、武勇のグレイグ、知略のホメロスと。讃えられていたとも。
たとえ全土に私の名が轟いておらずとも、確かに私は彼の隣に立っていた。きっと、口にはしなかったが彼もそう思っていただろう。
ただ、お互いに不器用で、その想いを伝え合わなかっただけで。
思い出したその日は少し泣いたが、それ以降の日々は変わりなく。
生まれた赤子が、私が思い出したグレイグである。という確証は、なぜかあった。
だが、だからなんだというのか。相手は赤子で、ここはデルカダールでも、ロトゼタシアですらない。
この世界で、この日本で、彼と私は赤の他人だった。

けれど、一年に一度訪れる祖父母の家。その場に、同じ村に移住してきた夫婦が顔を見せるのは毎年のことだった。
そこに、新しい顔が加わった。藤色の髪、翡翠の瞳――グレイグだった。
赤子は、顔を覗き込んでいた私の顔を見ると、パッと笑みを浮かべて、その小さな手で私の横髪を鷲掴んだ。思わず、顔を歪ませてしまったのは仕方がなかった。
そうして、一年ごとに私たちは出会い、当然ではあるが、グレイグは成長していった。もちろん、私も。
彼は、一年に一度、数週間――短くて数日しかいない私を、いたく気に入った。
ハイハイができるようになったら追ってきて、言葉が喋れるようになったら拙く呼んできて、大きな虫が出たら泣いて助けを求める。
それに、私は「グレイグ、わかっているよ」と言って、できるだけ優しく接してきた。何せ私の方が十五も年上であったし、その壊れ物のような赤子が――にしては力強くはあったが――どうしても気になってしまったので。きっと、グレイグが私に懐いたのも、気になってしまった私が必要以上に構っていたからなのだろうと思う。
当然であるが、彼は夢物語の記憶は持っていないようだった。

「ホメロス、今年はかえらないよね。ずっといてくれるよね」

彼――グレイグは大きな翡翠の瞳で、上目遣いでこちらを伺う。子供向けの本を読んであげているところだった。
縁側で扇風機に互いの髪を揺られながら、流れ込んでくる蝉の鳴き声に負けぬように文字を追っていた。
真っ直ぐに覗き込んでくるその瞳に、夢物語の記憶が重なる。

「ううん、どうだろう」
「ねぇ、かえらないでしょ。去年は、ちょっとしかいなかった」
「去年は一週間いたよ」

いっしゅうかん……とグレイグが呟いて首を傾げる。指たてて、「ななにちだよ」と伝えれば、「ちょっとだ!」と大きな声が蝉の鳴き声を突き破って鼓膜に届き、少し眉を寄せた。
去年あたりからだろうか。グレイグがゴネ始めたのは。
私たちが帰る、となるとグレイグが泣くようになった。帰らないでと縋りつかれて、衣服を離してもらえなくて家族共々苦笑いをしたのはよく記憶している。それを、彼はしっかり覚えていたらしい。
だが、実は今年は長くいる予定だった。
私は今年で二十一歳。大学四年生となっていた。就職はもう決まっている。内定ももらい、春には上京する予定だ。
そうすると、学生の時ほど時間が取れなくなる。こうして長くいられるのも今年が最後というわけだった。

「やだ!! やだ、やだやだっ、ほめろしゅかえっちゃやだ!! やだぁあああ!!」

蝉の声など聞こえないほどの騒音が鳴り響き、私は思わず両耳を塞いでいた。
結局私は一ヶ月ほど祖父母の家にいた。孫とはいえ大の男が一人増えるのは面倒だろうに、祖父母は喜んで面倒を見てくれたし、家事を手伝わせてくれた。私は、グレイグをとても可愛がっていると思う。血のつながりは一切ないが、歳の離れた弟のように接してきた。
そんな彼が帰らないでと言ってくれるのだから、少しでも長くいてやろうと思うのは当然だろう。そうして無理を言って両親が帰った後も泊まり続け、就職内定会などの予定ギリギリまでいさせてもらったのだ。
だが、子供にそのような事情は一切関係ない。

「なんで、なんでぇ! かえらないって言ったのに!! うそつき!!」
「帰らないじゃなくて、長くいられるって言っただけだよ」
「ちがう! かえらないって言った!! いったぁあ!!」

言ってない。
が、子供にとっては「長くいる」も「帰らない」も一緒の意味だったのだろう。
子供とはそういうものだ。自分の都合のいい解釈をしがちだ。そういうところが可愛いのだが、こういう時は本当に厄介だった。
私の両親が帰る時に、不安そうに足にしがみついてきて「帰らないよね」と聞いてきた。それを見て、帰りたくないな。と思ったのだ。
だから、両親に伝えて、祖父母に頼み込んで「長くいられる」ようにしたというのに。

「ほめりゅしゅ!! かえらないよね!? ひっぐ、かえ、らない、っ!」

ボロボロと涙が大きな瞳から流れていく。よく見れば鼻水も垂れてきていた。
それに随分と綺麗だなぁと感ずる。夢物語で、多分、ホメロスが欲していたのは、こういうものだった気がする。
詳しくは違うのだろうが、こういった、無垢な、ホメロスが自分にとって必要なのだ、という言葉。
と言っても、だからその言葉に通りにしてやるということはできなかった。私は大学生で、来年社会人の、普通の人間だったので。
膝を折って、足元にしがみつくグレイグの肩を優しく掴み、顔を合わせる。

「グレイグ」
「ほめりょしゅ……」
「私は帰るよ」
「やだッ!!!!」

目の前で声が爆発した。唾も飛んだし垂れた鼻水がズボンに染みた。
それらを頭から押し退けながら、話を続ける。

「でも、必ず来年もくる。またグレイグに会いにくる」
「ほめ……」
「グレイグ、私を待っていてくれるかい」

さらさらとした、柔らかい毛並みを撫でる。
グレイグの大きな翡翠の瞳にホメロスが映る。柔らかい笑みを浮かべていた。
頬と鼻を真っ赤にさせて、ひっくひっくと喉を引き攣らせて、涙をこれでもかと流しながら、グレイグは小さく頷いた。

「偉いぞ、グレイグ」

そう言って、ゆっくりと足から体を離してやった後、しっかりと抱きしめる。
腕の中で、グレイグはグスグスと泣いていた。




「ホメロス!! 俺、来年から大学生なんだ、だから一緒に住もう!!」

蝉の鳴き声を、今年も藤色髪の子供が引き裂いていく。
縁側で扇風機の風を浴びながら、氷が涼しい音を立てる麦茶を飲んでいた時、グレイグと今年初めて顔を合わせて開口一番、告げられた言葉だった。
彼のご両親と去年話した時から、グレイグが都内の大学に進学することは知っていた。スポーツ推薦で、かなりの難大学だったはずだ。
グレイグ六歳、大泣き事件の後も私たちの交流は続いた。そして以前よりも圧倒的に短くなった滞在期間に、グレイグの別れ際のダダこねは年々激しさを増し、我が家ではグレイグを目をかいくぐりどうやって帰るかが毎年の話題になる程度に、グレイグのダダこねは凄まじく、だからと言って祖父母も我が家もグレイグのご両親も交流をやめるという選択肢は取ることもなく、グレイグが十八歳になる今年まで交流は続いていた。
流石に小学校高学年になるとグレイグの駄々こねも毛色が変わった。ただ泣き叫んで引き止めるのではなく、私の靴を隠したり、携帯を隠したり、ひどい時には風呂に入っている最中に下着を盗まれたり――流石にみっちり叱りつけた――そう言ったのが中学まで続き、高校になってようやく私が帰るとなっても、少々機嫌を損ねるだけで帰るなとは言わなくなった。
が、それも高校一年の時だけで、二年の際に、去年我慢した鬱憤だと言わんばかりに、帰り際、グレイグが離してくれなくなった。

「行かないで、ホメロス……。お願いだから……」

流石に、私も両親も彼の両親もギョッとした。
高校生になったグレイグは背が高くなり、夢物語の「グレイグ将軍」となる将来を思わせるしっかりとした骨格を持っていた。まだまだ子供だとはいえ、背も私に追いつきそうな勢いで伸びていて――泣き顔なんて、すっかり似合わなくなっていたのに。
ぽろ、ぽろ、と控えめに流れる涙が頬を滑りながら、翡翠の瞳に私を映してそう懇願する姿に、結局去年は一泊延長することになってしまった。
それでも、次の日の帰りの際に手を離さなかったグレイグに、確かこんな会話をした。

「予定を無理やり変えて一泊したんだ。流石にもう帰らせてくれ」
「……でも、来年、くるか分からないだろ」
「来年もくるよ。毎年欠かさずきてるだろう?」
「突然、来なくなるかもしれないじゃないか」
「信頼がないな。……確か、グレイグは都内の大学に進学するんだろう?」
「そのつもり、だけど」
「私も都内に住んでいるのは知っているだろ。私からじゃなくて、グレイグから会いにくればいい」

そう言ったら、彼は瞳の中に花火を散らしたように目を輝かせて、「わかった!!」とやはり蝉の鳴き声を上回る声で告げたのだ。
そしてその大声は父親譲りなのか、高校三年生の夏。親戚でもない三十三歳の男に同居を提案した彼を、さらに大きな声が叱りつけた。

「何を言っているんだお前は!! 毎年毎年ホメロスくんに迷惑をかけて!!」
「と、父さん……! で、でも俺は本気だ! ホメロスと一緒に住む!! そのために頑張ってきたんだ!!」

うるさい。
麦茶と共に、小さな氷を口に含みながら耳を塞ぐか迷う。
子供の解釈は自分に都合が良い。それをグレイグとの関わりの中で嫌というほど教わっていた気がするが、いつでも驚かされる。
だが、驚き切る前に鼓膜を貫くツッコミが聞こえたので、冷静にグレイグの言っていることを鑑みることができた。
まだ夏だが、もう結果がわかっているのか。確かに、それぐらい優秀な成績をグレイグは残してきていた。母からの情報でなくとも、新聞で見る機会があったぐらいだから、相当だろう。
だが、同居。
いくら同じ都内だと言っても、私の職場とグレイグが通う予定の大学には距離がある。通えなくもないだろうが、通学費や時間を考えるとグレイグにとってうまい話とはならないだろう。
それに何より、大学生とは多少時間とお金に余裕のできる時期だ。そんな時にアパートに戻ると三十過ぎの男がいるのは、彼の大学生ライフを邪魔するものにしかならないだろう。
氷を噛み砕いて飲み込む。食道が冷やされ、ほう、と息をついた。
そろそろだろうか。

「なぁ、いいよなホメロス!!」
「いい加減にしろグレイグ!!」

畳をスライディングするようにして近づいて力説してきたグレイグと、その頭を大きな手で鷲掴みにしている彼の父上。
その光景をなんとなく微笑ましい心地で眺めつつ、グレイグの肩に手を置く。

「若いうちは一人暮らしをしたほうがいい。ある程度家事はできるようになるし、彼女ができた時も楽だぞ」

結局その年は祖父母の家にいる間、ずっとグレイグに説得され続ける時間となった。
説得に首を横に振り続け、合間に彼のご両親とグレイグも大きくなりましたね。と和気藹々と会話をし、祖父母の長寿を祝い一年の出来事を話し合って、そうして短い夏休暇は終わりを告げた。

「ホメロス! 俺は、俺は本気で……!」

昔は上目遣いだった目線も、今では見下ろされる側となっていた。
去年はまだギリギリ私の方が高かったのに、すっかり追い抜かれてしまった。まだまだ背丈は伸びるのだろう。さらに筋肉もついて、まるでクマみたいになるのだ。羨ましいとはもう思わなかった。それらは私にあってももはや意味がないし、グレイグだからこそのものだ。

「大学生活、楽しめよ」

背中をこれ以上ないほど強く叩いて、痛みにうめくグレイグをおいて運転席へと腰を下ろした。
エンジンをかけて、窓から祖父母、グレイグのご両親、そしてグレイグへと軽く手を振る。
手を振りかえしてくれた皆とは違い、グレイグは恨めしそうな目で私を見つめていた。



グレイグは話していた通りの大学に進学した。都内で一人暮らしをしているという。
だが、私と彼が蝉の声が聞こえるあの場所以外で会うことはなかった。
通勤路と通学路はすれ違うことさえないし、生活圏も異なる。私は大学生が行くような場所に足を運ぶはずもなかったし、彼も私が足を運ぶようなところに来ることはなかっただろう。
グレイグは酷く頑固で、私と都内で出会うのは一緒に暮らすようになってからだ、と思っているようだった。

「家事はもう大体覚えた。彼女もいない」
「そうか」
「なぁ」

グレイグが大学に進学したタイミングで祖父母の家にもエアコンがようやくついた。
山の麓で、木々の影になっているこの家は、風通しの良い設計ということもあり、夏でもずいぶん過ごしやすかった。
しかし年々暑さが増していく中、我が家とグレイグのご両親の説得によって、祖父母たちが折れ、エアコンが設置されることとなったのだ。
だが、この縁側のある部屋にはエアコンは設置されていない。あるのは居間だ。扇風機が回っているが、ずいぶんと年季も入っており、カラカラと壊れかけの音がする。それでも風をそよがせているので、その柔い風を背中に受けていた。

「そういえば、大学はどうなんだ」

彼の話を流して、そう話を振れば、グレイグは不承不承ながらも話をし始める。
それに麦茶を飲みながら相槌を打っていれば、暑さに耐えかねたグレイグが汗を拭いながら、観念したようにその場を立つのだ。
熱中症になるなよ、とその丸まった後ろ姿に投げ掛ければ、憎々しげな目線と共に「また来るからな!」と返されるのだ。
そうして、少し顔の赤みが取れたグレイグがまた縁側にやってきて、同じ話をしだす。そうして私が別の話題を振る。
そういった年が、二回過ぎた。



夏の暑さが増すごとに、蝉の声も増していくようだ。
縁側で扇風機のかすかな風を甘受しながら、額に浮かんだ汗を拭う。
裏庭に通じる縁側は、まさに木々に面した場所で、森の音を直接叩きつけられているかのようだった。
それでも、この場所が嫌いではなかった。あの蝉の声を切り裂く声は、ある種心地が良い。
耳を塞いでも突き抜けて、脳天を揺さぶり、存在を主張する。言われずとも、お前の存在から目を背けられるわけがないというのに。
彼がいつもやってくる戸から、いつものように背を向けて、青々と茂る草木を眺める。
しばらくそうして、暑さに耐えきれずに空を仰いだ。晴天の空に、太陽がギラギラと輝いている。それに目に焼き付けて、顔を伏せれば目の奥に黒点が残った。
夢物語のようだった。十五の時に思い出し、いまだに消えてくれない、染みついた記憶。
一つにまとめた金色の髪が煩わしく、首を大きく振った。

蝉の音が占領する部屋の中、異なる音が耳に入る。
重い足音に、またデカくなったのかと想像しながら、戸が開く音と共に振り返った。

「久しいな、グレイグ」

想像通りの去年よりも膨らんだ筋肉に、二メートルを超える背丈。シンプルといえば聞こえはいいが、おそらく目についたものを適当に着ただけの服装。オールバックにした藤色の髪は、肩より少し下まで伸びていて、小さく後ろで縛られている。
手にしているのは数日宿泊するための衣服類が入ったバッグだろう。
精悍な顔つきになっても、大きな目元だけは変わらずに、丸々とした瞳が見開かれ、綺麗な翡翠がよく見てとれた。
ドサリ、と彼がもっていたバッグが畳に落ちた。

「グレイグ?」

思わず名前を投げかける。
彼の表情は、まさに驚愕、という言葉を体現したようなもので、その場から一歩も動かない様子は、尋常でない雰囲気を漂わせていた。
グレイグはゆっくりと目元を細めたかと思うと、その表情を徐々に歪ませて、耐え難きを堪えるような顔をしてしまった。

「ほ、めろす」

私の名を呼んだ彼は、まるで陸に打ち上げられた魚のようだった。
私の名であるはずなのに、なぜかどこまでも悲痛で、助けを求められていると錯覚する。

「グレイグ、こっちへ来い」

おいで、と手を伸ばすと、グレイグがよろよろと今にも倒れそうな様子で畳を歩いてくる。
歩幅が広いはずなのに、それを全く感じさせない遅々たる歩みでどうにか辿り着いたグレイグは、私の手を取らず、一歩手前で膝をついてしまった。
彼の額には汗が滲んでおり、その眉は年に見合わないほどに深く寄せられて、苦しげに谷を作っていた。
その下の、翡翠の瞳が長年慣れ親しんだ透き通る色でないのを覗き見て、心臓が歪に鼓動を鳴らした。

「……どうかしたのか?」

さまざまな色を映した翡翠の瞳が、ゆっくりと私を捉える。
その顔が、なぜか皺の刻まれた、生えてもいない髭を生やした面持ちに見えて、息を呑んだ。
彼の口が、万感の想いを込めるように緩徐に動いた。

「い、きて、いるんだな」

夢物語が、彼の記憶へ黒点をもたらした。
目に焼き付いて、消えてくれない。無くしたと思っていても、わずかなキッカケでその全貌を現して、全てを覆い尽くす。
蝉の音を切り裂く若人の声は聞こえない。ただ、老いた声が、救いを求めるように喘いでいる。
伸ばした手を、さらに近づけてその頬に触れた。

「……生きているさ、グレイグ。ほら、俺を見ろ」
「ホメロス、ああ、ホメロスだ……」

その名の意味は、きっとこれまでと全く違う。
大きな手が私の手を包み、開いていた一歩の距離が縮まった。
翡翠が揺れる。そうして一粒だけ、縁から雫が溢れ出た。
その雫に誘われるように、小さく笑みが溢れた。

「ふ、ようやく思い出したか、ノロマめ」
「ああ、本当に……」

彼は、震えた声色で、蝉の音にかき消されそうなか細い声で告げる。

「会いたかった、ホメロス」





「ホメロスさん、グレイグと住むに当たって、渡しておきたいものがあるんです」

グレイグの母は、隣の夫に目を合わせた後、そう言ってバッグに手を差し込んだ。
彼らの我が子、グレイグは十五歳年上のホメロスという青年に、大層懐いていた。
一人っ子であるホメロスは弟のような存在のグレイグが嬉しかったのか、夏休みに出会うたびにずいぶんとグレイグを可愛がり、世話を焼いてくれた。そんなホメロスにグレイグが懐いたのは、両親にとっても喜ばしいことであり、微笑ましい事柄だった。
しかし、その懐き方が尋常でなくなったのはいつからだったか。ホメロスが帰ろうとすると縋りつき、見たこともないようなぐずり方をして両親は大層困った。毎年、彼が帰ろうとするたびに程度が酷くなり、方法を変え、こんなに悪ガキだったかと思うほどにわがままを言った。
普段はむしろ、両親の言うことをよく聞く真面目な子供だった。そんな子が、年上の青年と離れるときだけ嘘のように「子供」になった。
あまりの様子に母と夫は真剣に悩み、両家で相談をして、結局ホメロスもグレイグも会うこと自体は楽しみにしていると言うことで、毎年の交流は途切れることなく続いた。
しかし――高校二年生の夏。高校生になって、ようやく落ち着いたと思っていた息子が、皆のいる前で泣いてホメロスを引き止める姿を見て、母と夫は認めざるを得なかった。
グレイグは、ホメロスくんのことが好きなのだ。
ホメロスは同じ欧州の血筋だとしても、とても見目が整っている青年だった。シャープな輪郭に、涼やかな目元。金色の髪は美しく、夏の風にそよぐ長髪は絹の糸のよう。そんな彼が、グレイグには慈愛さえ籠ったような瞳で見つめるのだ。――初恋だったのだろう。
母としては、グレイグの部屋に女性が多く載っている――いわゆるエロ本も掃除中に見つけていたので、ただ懐いているだけだろうと思っていたのだが、おそらく、当人が自覚していないだけで、確かに恋慕なのだろう。
さりげなくホメロスの母と話をしている際に探りを入れたグレイグの母であったが、ホメロスは当然、ただの弟として考えているようで、グレイグが恋慕を抱いているとは思ってもいないようであった。
グレイグの両親は頭を悩ませたものの、無理やり自覚させるのも違うだろう、と経過を観察することにした。
その結果が、次の年の「一緒に住もうホメロス」騒動であったわけであるが。
あまりにも突飛な息子の行動に、父はこれ以上ないほどに叱ったが、いつもは従順でさえある息子が反抗をしてきて結局は平行線となった。
当然ホメロスは断り、それが大学生になっても続き、そうして大学三年目の夏。

「ホメロスと一緒に住むことになった」
「まだ本決まりしたわけじゃないだろう。ご両親にしっかり相談しろ」

全くやれやれ。とでも言いたげなホメロスの何処か安らいだ表情を、グレイグの両親は初めて見た。
恒例の夏の集まり、その初日。グレイグが意気揚々と家屋に元気の良い挨拶と共に足を踏み入れて、おそらくホメロスと出会った数十分後。
二人揃ってやってきて、グレイグが発した一言目が同居の報告であった。
言葉を失う両親を尻目に、冷静な二人は同居にあたってのあれこれを話し始めていた。

「ホメロスのアパートは二LDKなんだろう?」
「ああ。一つは物置になっている。もしお前がくるのなら、少し整理をしないとな」
「手伝いに行こう。俺の部屋になる場所であるし」
「だから、先にご両親に――」
「ほ、ホメロスくん」

声をかけられ、金色の瞳がグレイグの母を見た。
はい。と返ってきた声に、動揺の色などは一切ない。

「ホメロスくんは、ほ、本当にいいの?」
「私は大丈夫です。逆にご両親としては大丈夫ですか?」

切れ味良く返ってきた色良い返事。そして問いかけられた気遣いの言葉に、喉元まで言葉が出かかる。――それはこっちのセリフなのよ、ホメロスくん。
母が父へ目配せをする。そのアイコンタクトを理解し、母がホメロスを。父がグレイグの腕を掴んで距離を離した。
すっかりと父と同じ背丈――いや、それ以上に大きくなったグレイグが目を瞬かせている。

「どうされたんです――じゃなく、どうしたんだよ、父上」

いやに礼儀正しい口調で話したと思ったが、堅苦しい名称で呼んできた息子に内心首を傾げつつ、それ以上に大事なことがあったので一つ咳払いをする。

「グレイグ、お前、したんだろうな」
「何を?」
「お前な……告白に決まってるだろうが」

それ以外何があると言うのだろうか。
すでに父と母はグレイグが恋慕の感情でホメロスを好いていると知っているのだ。だからこそ、しっかりと告白をせずに同居などあり得ない。ホメロスは確かに三十を過ぎた歴とした男性であるが、二メートルを超えたバリバリの運動会系の息子を殴り倒せるとは思えない。
グレイグは再び、パチパチと目を瞬かせた後、「こく、はく?」と全く覚えがないような顔で口にした。
その瞬間、父は悟った。我が息子は告白もしていないし、そもそも恋慕をまだ全く自覚していないようだ、と。

結局、一緒に住んでも良いというホメロスと、同居するつもりしかないグレイグを止められなかった父と母は、最終的に一つホメロスに贈り物をすることにした。
こんなものを贈ることしかできないなんて、と悲しむ二人であったが、そう育ててしまったのは自分達なのだ。
グレイグの母が、バッグから取り出したものをホメロスへと差し出す。

「あの子が、何かおかしなことをしたら、これで止めてくださいね」
「――えっ」

黒々とした見た目をして、金属が二本飛び出した形状のそれは――みまごうことないスタンガンだった。
――結局、ホメロスはかなり戸惑いつつも、その贈り物を受け取ることはなかった。
グレイグがホメロスのアパートへ引っ越すにあたっての挨拶としてやってきた両親は、結局――息子からの――護身用スタンガンを渡せずに、車で帰路についていた。

「何かあれば、すぐに連絡をするように何度も言ったが……」
「ホメロスくん、大丈夫かしら」
「……きっと、大丈夫さ。ホメロスくんならば」
「そう、よね。それに、グレイグを信じましょう。お父さん」
「……そうだな。来年、しっかりと進展できていることを信じよう」

我が子より年上の彼を心配する気持ちは本当であれど、我が子の長年の恋心を応援する気持ちも嘘ではない。
どうか良い結果になってほしいと願いながら、二人は高速道路を走っていくのだった。

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