- ナノ -

水果13
于文則は困っていた。会社で行われた納会で酒量を誤るという失態を犯し、部下であるホウ徳に迷惑をかけたこともあったが、それは姪の案もあり無事に謝罪は済んでいた。直接謝罪ができないから、と文を入れた姪からの言葉も伝わったのか、面と向かい失態を謝った際に「生江殿に仔細問題ないと告げていただきたい、それから桃もありがたく頂戴する」と返答がきた。それを生江に伝えたところ、ホッと安堵の息を零していた。そう、それで納会での失態はとりあえずの集結を得た。
そう、問題は生江だった。いや、詳細に語るならば、生江のことを社長に告げてしまったこと、か。
納会にて、此度の功労者だと言われ社長の隣の席に文則は座らされた。自身の功績ではないと思っていた節もあり、遠慮しようともしたが、そこは社長、曹操の片腕でもある郭嘉に上手く丸め込まれ、気づいた時には隣に腰を下ろしていた。
そうして社長から酒を勧められ、郭嘉に乗せられ、いつの間にか通常ならば意識している酒量を容易に超えていた。
それなりに飲める体質である文則ではあるが、当然酔う。常ならば口にしない言葉が喉元の蛇口が緩み、出てくるようになっていた。

「于禁よ。ここ最近のお前の業績は目を見張るものがある。何か褒美をやりたいと思っているが、何かあるか?」
「褒美、ですか。いいえ、そのようなものは必要ありません。それに、これは私の功績ではないのです」
「あなたの功績ではない? 不思議なことを言うね。なら、誰の功績なのかな?」
「もちろん、実際に業務をしたのは私やホウ徳、部下たちですが、私が変わるきっかけを与えたのは姪なのです」
「姪だって? 于禁殿に姪がいたなんて初めて聞いたよ」
「確かにそうですね。しかし、姪殿がきっかけというのはどう言うことでしょう」
「生江というのだが、彼女が私の仕事に対して指摘をしてくれたのだ」
「指摘、ですか。その方も社会人なのですか?」
「いいや、まだ齢十五だ。しかし、社会人に負けず劣らず、私を唸らせる資料と弁舌だった」
「十五ぉ? それはまた……于禁殿を納得させるほどだろう? なんだ、実は姪を溺愛してて、ちょっと言われただけで心に響いたとか、そう言う感じなんです?」
「いいや、五十枚の理路整然とした資料と三時間に渡る会議だった」
「……」
「……」
「……」
「なるほど、于禁殿の姪は非凡な才能があるようだね」
「興味深いな。どの学園に所属しているのだ」
「ええ。近隣の学園です。ここからなら電車で五分ほどの……」
「ああ。あそこかい。なるほど、あそこは進学校だからね。幅は広いっていうが、上位の方なら将来有望だ」
「私もそのように思う。姪は普段から博学で謙虚かつ勤勉で、少々警戒心の薄いところがあるのが心配だが、それも注意を行えばすぐに直すような柔軟さがあるのだ。学園生活も問題なく行えており、友人もいて楽しんでいるというからな。きっと将来は立派な者になるだろう」
「へぇ」
「ほぉ」
「ふむ」
「……して、その姪殿の博識さや勤勉さが垣間見えるエピソードなどはあるのでしょうか」
「もちろんだ。そうだな、あれは−−」

文則の記憶は曖昧であったが、おそらくそのような会話が行われていたと思う。
明らかに、言わずともいいことに永遠と口にしてしまっていた。文則にとって、姪は誇りだった。当然自身の娘ではないが、赤子からその成長を見続けているのだ。家族のように大事に思っている。だからこそ同居という選択を許可したのだ。だが、プライベートについて語るような友人が多くない−−全くいないというわけではないが−−文則にとって、その誇りに思っている姪について、語る機会は少ない。ホウ徳に自身の功績になってしまっている、と愚痴混じりに話していたが、それぐらいだった。
だからこそ、酒に酔っていた文則は、機嫌よくそれらを社長や郭嘉たち経営計画管理局の前で軽々しく口にしてしまった。
集まっていた曹操、郭嘉、賈ク、荀攸、荀イクたちは興味をそそられたのか、文則に酒を継ぎ足しながら色々と質問をしていった。
結果、潰れてしまうという失態を犯した文則だったが−−問題はそこではない。

「パーティーについてなのですが……」
「うむ、企業の成績も順調に昇っている。新しい社員も増えたからな。本部だけでも主要なメンバーを集めて広い会場で行おうかと思ってな」
「それは、いいのですが、この……」
「家族同伴、じゃな」
「……こういうものは、伴侶のあるものが連れてくるものでは」
「全ての社員に伴侶がいるわけでもなかろう。幅を広げたくてな。酒はあまり出さず、ドリンクはノンアルコールがメインだから、安心だぞ」
「それはそうなのですが……」
「うむ。ではお主の英明であるという姪も楽しみにしておるぞ」

これだ。
一ヶ月前から通達のあった会社企画のパーティー。部長職についていない社員については参加は自由だが、参加は無料のため多くが参加することが見込まれていた。そして文則は部署の部長のため、参加は強制だ。騒がしい場所は得意ではないため、あまり気が乗らない話ではあるが、あまりにハメを外した社員が入れば注意をすることも必要である。その役目ということならば、まだ受け入れられる。だが、問題は『家族同伴』の部分である。
もちろん必須ではない。だからこそ、文則は当初自分には関係ないものだと思っていたのだ。だが、経営計画室の郭嘉から「もちろん姪を連れてきてくれるよね? 曹操殿も楽しみにしていたよ」と言われて事情が変わった。
確かに、文則は飲みの席で姪のことを話してしまっていた。自分には勿体無いぐらいの姪のことを。しかし、それが社長の興味を引いてしまい、このパーティーにも連れてきてほしいと思っている……? あり得ない話ではない。社長は才能のある人間をとても好んでおり、全くの無名のものを取り上げることや、ヘッドハンティングもよく行っているのだ。そんな社長が、姪に興味を示さないわけもない。とも文則は思った。それに、情報源があの郭嘉なのだ。社長と公私共に親しい彼の言だ。本当のことなのだろう。
だが、しかし−−と最後の望みをかけて会議終わりに声をかけ、詳細を聞いたところ、本人にも明言されてしまったというわけであった。

「……生江。少しいいか」
「どうかしましたか?」
「……会社で会場を貸切にしたパーティーがあるのだ。来月一周目の土曜だ」
「そうなんですか。文則さんも参加するんですか?」
「うむ。部長職は皆参加が義務付けられている」
「あちゃあ、それは大変ですねぇ……。じゃあその日は夕飯は−−」
「いや、そのパーティーなのだが」

家に戻り、当番だった姪が作った料理を食べながらパーティーについて語る。
文則『だけ』が参加するという前提で話し始めた姪に、重くなった口で待ったをかける。
正直、文則としては姪を参加させたくはなかった。まだ年若い姪が家族同伴とはいえ、会社のパーティーを楽しめるとも思えず、それに−−文則は彼女を誇りに思っていると言っても、見せびらかしたいわけではなかった。大事な姪だ。危険があるとは思っていないが、絶対に何もないとも言い切れない。不快な思いをさせたいわけではないし、将来有望であっても、今から目をつけられてほしいわけでもない。自身の失態がやはり胸に突き刺さるが、こうなってしまった以上、文則は自身の心とは別に、立場上、一度は聞かねばならなかった。

「家族同伴を推奨しているのだ」
「家族同伴?」
「ああ。伴侶や息子、娘など、ということだ」
「はぁ、なるほど」

まだピンときていないらしい。そんな姪に、罪悪感を覚えつつ文則は続けた。

「……以前、飲みの席でお前のことを話してしまってな」
「私のことですか?」
「ああ。それで、姪を連れてきてほしい。と言われてしまった」
「それはまた……ピンポイントですね……」

目を瞬かせた姪は、少し考えるそぶりをした後に、ひとつ頷く。

「大丈夫ですよ。その日は予定も入っていませんし」
「ぬッ、だが」
「文則さんの近くにいて、大人しくしていればいいんですよね? 大丈夫ですよ、それぐらいなら私にもできますから」
「それは、心配していないが……」
「なら、いいと思いますが……何か気になることがありますか?」

そう伺ってくる生江に、文則は躊躇った。
生江は文則の頼みを聞いている立場である。それだというのに、自分が連れて行きたくないのだと勝手なことを言うのは道理がおかしい。
心配ならば、彼女と同居を決めた時のように自身で守れば良いのだ。彼女もしっかりと礼儀を弁えているのだから、自身が気をつけていれば良い。

「いや、わかった。ありがとう。そうだな、今度の休みに衣服を購入しに行くか」
「わかりました。よろしくお願いします。会社ってことは、ホウ徳さんもいらっしゃるんですか?」
「む……そうだな。おそらく来るのではないか?」
「そうなんですね」

文則の答えに、笑みを浮かべた様子に、部下を随分と気に入ったのだな。と文則は思う。
ホウ徳と出会ってから、生江は時折、文則の話の中でホウ徳の話題が出ると、興味深そうに聞いている。
まるで自身の友人の話でも聞いているかのような様子に、年が離れていても波長があう相手というのもいるのやもしれん。と同じく姪の話を聞くと興味深そうにするホウ徳を考えて思う。
ホウ徳は文則も信頼している部下である。まぁ、友人程度なら許してやらんでもない。だが、それ以上は処罰であった。考えたくもない。そもそも歳の差がえげつない。
少し上機嫌になったような生江を眺めながら、そんなことを考え、文則は箸をすすめるのであった。




嘘だ。嘘だと言ってくれ。
今日は、正直ウキウキとしていたのだ。普段は着ない高めのドレスコードをし−−私だって年頃の乙女ですから−−化粧をし、スーツでビシッと決めた文則さんと共に−−写真を撮らせてもらった−−彼の会社が主催していると言うパーティー会場へとやってきたのだ。
そこまではよかった。文則さんの隣に控えて、できればホウ徳さんと少しお話をして、美味しいものを食べられたら僥倖。ぐらいに思っていたのだ。
だって言うのに!

「い、いろいろな人がいるんですねぇ……」
「そうだな。個性的なものたちばかりだ。だが能力は皆高い」
「(し、知ってるぅ……)」

広い会場に入って、見渡したところで、私は見事に顔が凍りついた。
スーツを見に纏うおそらく企業の役員たち、社員の家族や伴侶たちもいたが、それより何より目立っている。
かつて、魏で共に曹操殿のために武を、策を振るっていたものたちの姿が、あちらにもこちらにも、大勢見えた。

「(あれは徐晃殿……。あれは夏侯淵殿、満寵殿に典韋殿、許チョ殿……!!)」

っていうか、私全然顔忘れてないな!?
というかなんだこれは、一体どうなっている……!? どうしてかつてと同じ姿の人々がこんなにたくさんいるんだ。こんな偶然あり得ないだろ……!!
下調べをしてこなかったことを心から悔いた。変に前知識があると先入観を持ってしまうかと思って調べなかったが、下手を打った。
このメンツ、この人々−−当然、魏の将軍たち、軍師たちだ。彼らがここに集まっていると言うことは−−想像したくない一つの仮説が浮かび上がる。
この、この会社の社長はもしかして−−。

「皆、集まったようだな」

空を揺るがす声が聞こえた。
王としての威厳と知性を備えた声色、脳裏に焼き付き、忘れるはずもないそのお声。
泳いでいた視線が、自然とステージへと上がる。少し段差の上がったそこには、マイクを片手に持った一人の男性がいた。
それに、ドッと汗が噴き出す。全てを見通さんとする瞳、自身に満ち溢れた姿勢、その言葉は、他の何よりも重く、正しい。

「殿」

こぼれた言葉は、乾杯の音にかき消された。


あまりにも。
あまりにも、気まずい。
ええ、はい。逃げました。逃げましたよ私は。私は別に胃を破壊しにきたわけじゃあないんですよ。うん。いや、文則さんには本当に申し訳ない思いでいっぱいだ。だがどうしても会場でおとなしくしていることはできなかった。
突然腹痛が襲ってきた、と嘘をつき、文則さんの言葉も聞かずに会場を抜け出した。当然腹は痛くなかったので−−胃は痛かったが−−受付のある、少々広くなっているスペースにあるソファに座り、項垂れていた。
帰らなければならない。だが、帰る気力がない。
どうしてもっと早く気づかなかったのかと思う。しかし、同時にそれは不可能だったと首を振る。文則さんは会社の話をするとしても、大抵ホウ徳さんの話だ。そもそも自分から何かを多く語る人ではない。そのホウ徳さんの話も、私と彼が出会った件があってからだ。その前は、会社の人間関係の話など一切されてこなかったし、私も聞かなかった。プレゼンをした時は業務の仕方などを聞いたが、それぐらいだ。それ以降、文則さんの仕事習慣も改善され、訪ねてもいない。
ホウ徳さんとも個人的に連絡先を交換などもしていないのだから、会社にどのような人がいるかなど、わからないのが当然だ。
だからと言って、今の現状を許容していいわけもない。深くため息をつき、スマホを取り出す。
文則さん宛に、少し遅くなる旨を打ち込んだ。これで、もう少し離れていても大丈夫だろう。おそらく。

「……はぁ」
「何してんだい。お嬢さん」
「ッ!?」

咄嗟に顔を上げる。気配に気づかなかった。なんたる不覚−−と、ここは戦場でないのだから、そんなこと気にする方がおかしい。
だが、視線を向けた先、そこにいたのは見知った顔だった。

「どうも。俺は李典っていうんだ。調子悪いのか?」
「い、いや……いえ、ちょ、ちょっと疲れてしまって」
「ああー結構人いるもんな。わかるよ。ゆっくり休みなよ」

共感し頷いてくれた彼は、李典と名乗った。そして私が記憶している中でも、彼は李典と言う名であった。
古と何も変わらぬ、まるで記憶から飛び出してきたかのような彼に、狼狽する。彼がいると言うことは、やはり楽進殿や張遼殿もいるのだろうか。

「水持ってこようか?」
「だ、大丈夫です。その、何か用があってここまで来たのでは……?」
「ああ。ちょっと落とし物をね。けど、見つかったから気にしなくて大丈夫だぜ」

気遣い屋なところも相変わらずか。彼は若いが、私なんかよりずっと将兵たちのことを見ていた気がする。まぁ、張遼殿とはやはり難しい時もあったようだが。
しかし、今の私にとって、それは少々辛い。彼の顔を見て、なんと言葉を交わせばいいのか。いや、別に、彼は『李典殿』と言うわけではないのだ。気にする方が馬鹿げている。そう思うのに、目が合わせられない。

「……なぁ、あんた」
「は、はい」
「休憩室に行った方がいいぜ。顔色が悪すぎる」

屈んで、そう告げてくれた李典さんに、内心で歯噛みをする。ありがたいことだし、正直私もそうしたい。だが、それは完全に文則さんからの頼み事を放棄することになる。私のこの無駄な葛藤を抑えられさえすれば、少しの時間耐えさえすれば、文則さんの顔に泥を塗らずに済む。そもそも、これを了承したのは私だ。
気まずいし、逃げたい。私は元来、そういうタチなのだ。楽な方に逃げたがる。前世は周囲のおかげでそうならなかっただけで、今はただの弱い人間だ。
だが−−。

「……大丈夫です」
「これは俺の勘だけど……あんた、相当辛いんじゃないか?」
「……」

辛いといえば辛いし、胃が痛いといえば痛いし、身が潰されたような思いかといえばそうである。
ただ、同じ顔をした別人だ。そのはずだ。けれど、あれほど共にいた人々が集まっている場所に、私は平気で立っていられない。
そもそも−−彼らは、この『李典さん』は、本当に別人なのか?
ホウ徳さんも、李典さんも。実は私のように、過去の記憶があるのではないか。
そう、あの−−曹操殿も。

「ッ……!」
「おわっ、だ、大丈夫か?」
「平気、です」

懐かしい鈍痛を感じて、胸を押さえた。胃ではない痛みに、短息をつく。
ああ、もう、嫌になるな。
メンタルが弱すぎるんだ。幾つの戦場をかけてきたと思っているんだ。何度死線をくぐり抜けたと思っているんだ。
しっかりしろ、と何度も念じる。ここは確かに、現代だ。だが、私はここで以前と同じように立たなければならないのだ。私のためでも、殿のためでもない。私の大事な叔父、文則さんのために。そうだ、そう思えば枯れ果てていた力が湧き上がってくる。

「私、戻りま−−」
「生江!!」
「ッ、ぶ、文則さん……?」
「うおっ! う、于禁殿ッ?」

顔をあげ、立ちあがろうとしたその時、背後から怒声が聞こえ背筋が震える。
文則さんだった。振り返ると、そこには見たことのない表情をした文則さんがいて、思わず呆然とする。
怒髪天を貫いていると言うのだろうか。顔も少々赤らんでおり、眉はこれでもかと言うほどに吊り上がり、眉間の皺も深い。

「どこに行っていた。探したのだぞ!」
「え、あ……」
「こちらからの連絡も取らず、何をしていたのだ!」

ハッとしてスマホを取り出す。そこには不在着信がいくつも入っており、時刻を見ると私が最後に連絡してからゆうに三十分は経過していた。
そんなにここにいたのか。と己の失態に頭を抱えそうになる。文則さんがここまで怒っているのにも得心がいった。そもそも、もともと腹痛で抜け出したのだ。手洗いに行ったのだと思って、色々と探してくれたのかもしれない。それでも見つからず、連絡も途絶えた。顔が赤らんでいるのは何も怒りのせいだけではないのだろう。
迷惑をかけた、それもかなり。けれど、私はどこか安堵していた。
ああ、文則さんは文則さんだ。見た目はかつての私だ。だが、その中身は確かにただの于文則その人だ。

「ちょ、待ってくださいって! 女の子にいきなり怒鳴らなくていいじゃないですか!」

李典さんが慌てた様子でフォローしてくれるのを眺める。向かい合う二人を見て、ひどく懐かしさが胸を占めた。
いいや、違うだろ。今はそれではない。全く関係ない李典さんにフォローしてもらってどうする。立ち上がって、謝罪しようとすれば、文則さんの背後から声が聞こえた。

「まぁ、見つかってよかったではないか。少し落ち着け、于禁」
「ッ、ですがこれは……!」

落ち着いた、しかし誰もが耳を傾けてしまう声色。それに、背筋が凍る。
文則さんが反論しようと体をずらし、振り返った先。そこには、あの会場で見た殿のお姿があった。

「ふむ、お主が于禁の姪か」
「……」

声が出ない。無意識に動きかけた手を、足を、制御するのに精一杯だった。
ああ、なんたること。

「生江、どうかしたのか」

まだ少々荒っぽいが、それよりも心配が優った声色が耳に入ってくる。文則さんの声だ。
そうだ。私は叔父のためにここにきたんだ。私のためじゃない。当たり前だ、目的なんてなかった。なかったはずなのに。
見上げる先、見定めるような視線が胸に突き刺さる。我が主君。

−−いいや、違う。彼は殿ではないし、私は于禁ではない。

「初めまして、于生江と申します。すみません、少々体調を崩しまして、休憩しておりました。無礼をお許しください」
「……ほぉ。なるほど、話に聞く聡明な姿は間違いないようだな」
「どのようなお話を聞いているかわかりませんが、私はただの学生です。この度も叔父に迷惑をかけてしまいました。少ししか会場におらず、あなたのことを詳しく存じないのです。教えていただいてもよろしいでしょうか」
「わしは曹操だ。この会社の社長、つまり于禁の上司だな」
「そうでしたか。叔父がお世話になっております。近頃は帰りも早くなり、私としてもありがたく感じております。これも、上司であるあなたの采配のおかげでしょう」
「いいや、于禁の功だ。しかし、その于禁はお主の功だと言っていたが?」
「……私はただ家族として、心配だと言っただけです。何もしていません。そうであるならば、叔父の努力の賜物かと思います」
「ふむ……」

できるだけ、穏やかに、流暢に、笑みを浮かべて。
そうだ、それが今の私にできる最大限のことだ。

「歳は幾つだったか」
「十五になります」
「大学進学は考えておるか?」
「いえ……卒業後のことは、まだ詳しく考えられておりません」
「そうか。大学進学をするかしないかはこれから決めれば良い。ただ、どちらにしろわしの会社へ来るのならば即採用をさせる。選択肢の一つとして考えておくといい」
「……か、過大評価です。それに、ただの学生に、どうしてそんなことを」
「わしは才のあるものを評価しているのみよ。お主のその目、思考、まさに叔父譲りよな。さて、体調が芳しくないと言うのに長話をさせてすまなかった。休憩室はあちらだ。ゆっくり休むといい」

そう、かの人は口にして、踵を返す。
その背に思わず言葉を投げかけようとし、首を振った。
彼を引き止めるのは、自分の首を絞めるだけだ。そして、私はあのお方を呼び止める資格を持っていない。
彼が李典さんを呼ぶ、かつてと同じように。李典さんは戸惑ったようにこちらと文則さんを見て、私に「無理はしないようにな」と声をかけてくれた。それに礼を言って、頭を下げる。彼は心配げな顔のまま、あの背を追っていった。
私には追えない背だった。もう二度と、追うはずもない背だ。

「生江ッ!」

ただ立っていただけだと言うのに、足から力が抜け、姿勢が崩れる。それを、隣にいた文則さんが支えてくれていた。

「……すみません、ごめんなさい……」
「……違う。お前の不調に気づかなかった私の責だ。連れてきてすまなかった」
「違うんです。私、こんなことになるとは思ってなくて……」

そうだ。こんなことになるなんて思っていなかった。
普通に過ごせるはずだった。文則さんの同僚や上司、部下の方に挨拶をして、他の同伴された家族の方と少し喋ったりなんかして、そうやって問題なく時間が過ぎ去るはずだった。けれど、会場にいたのはかつての仲間であり、同志であり、そして命を捧げた方だった。
私はただの于生江だと言うのに、突然のことに混乱してしまった。気まずくて、逃げたくて、心配までかけて。

「私は本当に、未熟です……」
「……そんなわけがないだろう。お前は立派だ」

背を支えてくれていた文則さんが、不器用に頭を撫でてくる。
ああ、そんなこと出会ってから今まで一度もしたことがないと言うのに。私を慰めようとしてくれているのだろうか。
ああもう、涙が出てきてしまいそうだ。



メンタル激よわ前世はおっさん、前々世もある精神年齢だけだったら誰にも負けないと言うわけでもない于生江です。
ああーー自虐しても取り返しのつかないくらいひどい様だった……。
結局、あの後文則さんは私を病院へ連れて行くとパーティーを途中で退席してしまった。私は助手席で死にたくなっていた。だってこれ病気とかじゃ絶対ないもの。そうしてたどり着いた病院で、慣れない場所へ行った精神的なものでしょう。と予想通りの内容を告げられ、文則さんはさらに重い表情になってしまったりして、もう本当に、ああ、ああーー違うのーー文則さんは何も悪くないんです! 私のメンタルが紙なのが悪いんです!!
もう本当に文則さんに申し訳なさすぎて寝込みそう。寝込まないけど。
結局、文則さんから叱ったことも含めて謝罪を入れられてしまい、罪悪感がマックスだった。私も何度も謝ったが、文則さんは全く受け入れてくれなかった。ああーー文則さんの考えていることが手に取るようにわかるーー。パーティーに連れて行った自分の失態って思ってる絶対ーー違うのにーー。

パーティーの日は一日寝込んだが、次の日にはほぼ回復し、月曜には全快だ。
体は何も問題ないんです。健康体なんです……。ああ、メンタルを強くするにはどうしたらいいのだ……。
というかそもそも! そもそもだ、べ、別にかつての仲間や、と、と、殿にあったって! そんなに動揺し、しなくてもいいじゃないか!
そ、そうだ。彼らは確かに姿形はそのままだったが、ただただ前世で同じような姿形の人々と関わりがあっただけだ。そして色々気まずかったとしても、それはそっくりな彼らには関係がない! そうだ、記憶を持っているのは私だけ、わ、私だけだし……。
で、でもそうなのかな。
そうだ、おかしくない、か?
どうして、李典さんも、曹操殿……ではなく、曹操さんも、文則さんのことを『于禁』と口にしている?
そうだ。ホウ徳さんもそう言っていた。ホウ徳さんと出会った日はそれについて言及することは色々とあってできなかったが、も、もしかして、き、記憶があるから、その名で文則さんを呼んでいる、とか……?

「生江!」
「はいぃ!?」
「お、おお。すまない。生江、であっているだろうか」

登校中に突如背後から聞こえた声に、素っ頓狂な声が出た。
学園はかなり広いので、敷地内から学校内までかなり距離があるのだ。その途中で声をかけら得ることは稀だし、かけられたとしても女子からが主だ。しかし今回の声は明らかに男子であったし、ハキハキとしていて、トグロを巻いていた脳内を跳ね飛ばす勢いのあるものだった。
驚いて振り返った先、そこにいたのはどうしたことか、碧眼の少年−−孫権さんだった。

「あ、あっていますが……」
「そうか! よかった。これを渡そうと思って声をかけたのだ」
「それは……私のペン?」

近寄ってきた彼がそう言って手渡してきたのは、見覚えのあるペンだった。
と言っても、そこまで特徴のあるわけでもない、市販のペンだ。確か、少し前から筆箱から姿を消していて、どこかで無くしたんだろうと思っていたけれど。

「廊下で当たってしまったことがあっただろう? その時に落ちていたのだ」
「そうなんですか……。え、それをわざわざ?」
「ああ。ただ名前も書いていなかったから、なかなか君を見つけられなくてな。遅くなってしまった」

困ったように頬をかく彼に、目を瞬かせる。このぐらいの忘れ物ならば、事務室に届けてくれればよかったのに。
なんというか、律儀というか。しかし悪い気はしなかった。ペンを受け取って、頭を下げる。

「ありがとうございます。知っているようですが、于生江と言います」
「ああ。私は孫権という」
「孫権さん、ですね」
「あ、いや。敬称はいらない。私もそちらのことをそのまま読んでしまったし」
「これは癖みたいなものなので」
「そうか……私も敬称をつけた方がいいか?」
「いいえ。ない方がしっくりきます」
「そ、そうか。それならよかった」

人懐こく、まっすぐな瞳だ。けれど気遣いを含んだそれに、前世を思い出す。
彼は−−孫権殿に姿形が生写しである彼は、記憶を覚えているのだろうか。覚えていても違和感はないと思う。そのような外見であり、そのような性格に思えた。

「孫権さんは−−」
「ああ」
「……いえ、すみません。なんでもないです」

問いかけようとして、口を噤む。
答えを得て、どうなるのだろうか。仮に彼が覚えていたとしても、覚えていなかったとしても何も変わらない。
そうであった時に、私の口から出る言葉は何か変わるだろうか。いいや、変わらない。私はただ全くの他人として、彼と出会うだろう。
記憶の有無など、この人生で何の関係があろうか。

「何か悩みを抱えているのではないか?」
「え?」
「物憂げな顔をしていたので、気になってしまった」

そう誤魔化すように笑った面持ちが、明確に前世と重なる。
だから、何だというのだ。重なったとて、彼は彼じゃないか。

「……その」
「ああ」
「大事な席で、酷い失態をしてしまって、迷惑をかけてしまって……」
「うむ」
「謝罪を受け取ってもらえず、だからと言って、名誉の挽回ができるわけもなく」
「そうか……」
「不甲斐ないばかりなのに、別の懸念が頭を占めて、恐ろしくなってしまって……」

ポツポツと弱音が口をついて出て、頭が伏せていく。
意味のわからないことを、こんなのじゃあ何も伝わらない。いいや、伝わってはならないけれど、彼は厚意で聞いてくれているのに。
朝日が道に落ち、その影を見ている。酷く惨めな気分だった。

「よし! 気分転換をしよう!」
「え」
「気分が落ち込んでしまうと、そればかりに気を取られてしまう。何か別のことをして、気分を明るくするべきだ」
「な、なるほど」
「今日の放課後、時間はあるだろうか」
「放課後? え、あ、ああ、はい……今日なら……」
「なら今日だな。生江のところへ行くから、待っていてくれ」
「え、え?」

彼はそういうと、くるりと踵を返し、どこぞへと走り去ってしまった。
え、なに? なんだ? 何が起こった?
理解が及ばない。えっと、何だっけ。彼はなんて言っていた?
気分転換をすべき−−これはわかる。確かに、少し考えすぎかもしれない。気分転換は今の私に必要だと言える。
放課後−−今日は夕飯の調理担当は私ではないので、ある程度放課後の時間は余裕がある。それもまぁ、いい。
生江のところへいく−−それは……孫権さんが、放課後に私の気分転換を手伝ってくれるためにやってきてくれる、ということか?

「いや、なんだその展開!?」



「では、私は部活に行ってきますね」

そう言って手を振る 蔡文姫さんに同じように手を振りかえす。
今日はずっと授業に集中できなかった。孫権さんとの約束に脳裏が占められて、それどころではなかったのだ。
ある意味、孫権さんの気分転換は成功していると言っても過言ではないのではないか。私はもう、どうして相談してしまったんだと後悔していますよホント。
にしても彼はなんというか、本当に人懐っこいというか、コミュ力が高すぎる。あそこで『気分転換を一緒にしよう』とはならなくないか普通。
だが、くると言われてしまったのだから、勝手に変えることは流石にできない。こちらは悩みを聞いてもらった身であるし。
ああ、なんで相談をしてしまったかな。一応は、見ず知らずの彼に。
記憶の有無は関係ないと言いつつ、私が一番引きずられているのだろう。だからあそこまで悩んでしまったわけだし。
私は私だ。いくら前世が于禁であったとしても、今の私は違う人間なのに。

「生江、迎えにきたぞ」
「うわっ、孫権さん……」
「なんだ、そんなに驚いて」
「いや……本当に来てくださったんだと思いまして……」
「自分からした約束を反故にはしないぞ」

まぁ、それはそうか。かつてもそういう人だった。−−って違う! 彼は『孫権さん』だ。いくら似ているからと言って、同一視してしまってはいけない。
立ち上がり、バッグを持つ。近づくと、彼の方が当然背が高く、すでに知っていたことであっても何だか新鮮だった。

「では行こうか」
「はぁ……しかし、気分転換というのは、何をするんでしょうか」
「おすすめの場所があるのだ。そこに行こう」

そう言って笑いかける孫権さん。彼の後ろを伺っても、誰かがいるわけではなかった。
以前見かけた時に見えた、護衛のような屈強な生徒はいないのだろうか。そういえば、朝も見かけなかったな。

「どうかしたのか?」
「いえ。えっと、よろしくお願いします」
「ああ。任せてくれ」

そう言って朗らかに笑う面持ちを、何だか懐かしい気分で見つめた。

彼に連れられたのは、学園近くにある商店街だった。
放課後には学園の生徒たちや、若者で溢れかえっており、店も多く並んでいる。
蔡文姫さんは部活、私はまっすぐに帰るか、何か買いたいものが大型店のスーパーに寄るためここにくるのは初めてだった。

「人が多いですね……」
「ああ。よし、こちらだ生江」
「はぁ……」

手招きをされ、おとなしく彼の後ろへ続いていく。
どこに何があるかもわからないし。彼についていくしかないだろう。しかし、本当に人が多い。
気を抜くと目の前から来た人とぶつかってしまいそうだ。人と話したり、スマホを見ていたりする人も多く、気をつけていないと危ない。以前の体格ならぶつかっても全く問題ないだろうが、今はぶつかり方によっては吹っ飛ばされてしまう。身長が欲しい。

「生江、大丈夫か?」
「は、はい。あまりこういうところには慣れていなくて、すみません」
「いや、気が使えなくてすまない。ほら」

ほら。とは。
進みが遅い私を気遣って戻ってきてくれた彼にそう言われ、差し出されたのは手のひらだった。
それに流石に顔を顰める。これは一体どういう……。いや、わかる。つまり、迷子防止というわけなのだろう。
だが、私はそこまで幼くない。しかしこの手をいらぬと言って、彼に恥をかかせるのはもっと良くない。
ちらりと彼を見やると、なぜ手を取らないのか。と不思議そうな顔をしていた。なるほど、これは彼にとって何の思惑もなく出している手だということになる。
確かに私は小さい。彼に−−仮にだが−−妹などがいるのならば、何もおかしくない行動だ。
私は内心で一つ息をついて、その手を取った。

「お手数をおかけしてすみません」
「いやなに、問題ない」

笑みが一瞬向けられ、そうしてくるりと前を向く。その赤い髪を眺めながら、再び歩き出した。

「どうだ? 美味しいだろう」
「美味しいですね」

孫権さんに連れられて行ったのは、いわゆる食べ歩きだった。ニュースで話題となっているらしいドリンク店やら、気に入りらしい手持ちができる肉料理の出店やらと、色々と回って、時に奢られ、時に断り、どうしてこんなによくしてくれるんだと四苦八苦しながら道を進んだし、口を動かした。
正直、今日は夕飯がもういらないぐらい腹が一杯になってしまった。どうしよう、文則さんになんて説明しよう。

「けど、幾つも奢ってもらってしまって……」
「なに、私から誘ったのだ。それぐらい出させてほしい」
「……あの気になっていたんですけど」

大らかなことを言う孫権さんに、改めて視線を向ける。見つめ返してくる碧眼が、綺麗で目眩がしそうだった。

「なぜ私に良くしてくださるんですか? ただ、ぶつかって物を落としただけの女なのに」

そうだ。本当に、これだ。
私たちは友人というわけではない。ただぶつかっただけの赤の他人だ。それなのに、落とし物を届けるまではまだ考えられるとしても、ここまでされる謂れはない。
悪い意味ではない。だが、ただ理解できない。
孫権さんは、そうだな。と少し視線をずらす。

「どうにも、気にかかったのだ。惹かれた、と言ってもいいかもしれない」
「は……」
「……あっ! よ、邪な意味ではないぞ! その、礼儀正しすぎるほどに礼儀正しい姿勢や、見ていられないぐらいに気落ちしている姿が……どうにも、見て見ぬふりができなかった。いや、したくなかった、というべきか……」

そのまま、ブツブツと独り言のように何か続けている孫権さんに、肩から力が抜けた。
世話焼き、いや気遣い屋なのか。それだけの理由で、見知らぬ女子生徒にここまでよくするとは。

「……ありがとうございます」
「む。いや……そうだ。どうだろう。気分転換にはなっただろうか?」
「はい。なりました。孫権さんのおかげです」

そう言葉にすれば、孫権さんはなんとも分かりやすく嬉しげな顔をした。ああ、愛嬌のある表情だ。よく動く面持ちに、こちらも笑みが浮かぶ。

「その……また何かあれば言ってくれ」
「はい」
「そうだ。よければ、連絡先を交換しないか。あ、嫌ならいいのだが!」
「……いえ、孫権さんがよければ」
「もちろんだ!」

孫権さんとは連絡先を交換して別れた。そろそろ帰らないと文則さんより家に着くのが遅くなってしまうかもしれなかった。
何かあれば言ってくれ、と言っていたが、おそらく連絡することはないだろう。と思う。
彼は優しい。優しすぎるほどだ。だからこそ、頼ってしまいたくなるが、それは彼の負担であろうし、迷惑はかけたくない。
かつての呉の君主と同じ似姿の青年。生まれ変わったというのに、何もかも同じだった。
これ以上彼に、恩を感じたくはない。

結局、帰ってから食事があまり喉を通らず、文則さんを心配させてしまい、再び病院に連れていかれそうになって慌てて本当のことを口にした。
文則さんはかなり険しい顔をしていたが、最終的には「夕飯が入らなくなるほどは食べない」「夕飯前までには帰ること」という制約付きで食べ歩きを許容してくれた。正直意外だった。二度目のお叱りを受けるかと思っていたのだが。

そして意外なことは続くもので−−しまいと思っていた連絡が、なぜか孫権さんの方から来るようになり、私は頭を悩ませるようになるのだった。

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bkm