- ナノ -

死神
死に取り憑かれた人


美しい死に際だった。
床に横たわる老いた姿はまるで精密な絵画のようで、唯一の胸がわずかに上下することで、その人物が生きていると認識できる。
しかしそれも後僅かだろう。後世に残す遺言も伝え終わり、動かぬ体で幾許も無い余命を消費していくだけ。
僅かに瞼が痙攣し、まるで重い幕でも開くように瞼が遅々と上がる。姿を現した瞳は、健常であった頃の鋭く、輝く意志のある瞳では全くなかった。
瞳は濁り、光を失い、視野があるのかさえ定かではない。虚な目は焦点を合わせず揺れ、しかしこちらを映し出す。
力なく横たわった手を握った。大丈夫だと、わかってると、心配しないでくださいと伝えるように。皮膚の皺が顕著な、爪の硬い、冷たい手に触れていれば、小さく握り返された−−と思ったとき、その瞼がゆるりと落ちた。

なんと美しい終わりだろうか。


「生江」
「はい、なんでしょう兄上」

二十一世紀。この世で私は再び生を得ていた。
私の名を呼んだのは、この中華で知らぬものがいないであろう大企業の社長である曹操という男であり、私の実の兄だ。
取締役として兄の企業に勤めている私は、必然的に兄と行動を共にすることが多かった。半ば避暑としての役割も持っていると言っていいだろう。それを従兄弟の夏侯惇殿は「世話を焼きすぎだ」と隻眼の瞳を歪めていうが、残念ながら彼からの言葉ではあまりにも説得力がない。

「ビルの近くに来ている移動販売店がうまいと郭嘉から聞いてな。共に行かんか」
「それはいいですね」

兄は参謀−−もとい経営企画部長兼資材運用責任者の郭嘉殿と大変仲がよく、彼からこのような話題を仕入れて嬉々として伝えてくる。
もちろん、この後の予定も仕事もある兄なのだが、私はそれを否と言わずに全て是と返す。別に調整できない予定ではないし、後に回っても兄の手腕ならば問題がない。
何が売っているんでしょう。と手に持っていた手帳をポケットに入れつつ返せば、図ったように社長室の扉がノックされた。

「孟徳。俺だ」
「これは、タイミングがいいですね」
「ああ。まさにというタイミングよの。聞き耳でも立てているのではないか?」

兄を今は消えた字で呼ぶのは従兄弟の夏侯惇殿だ。
彼の性格上、聞き耳などということはあり得ないだろうが、彼の第六感が兄の逃亡を察知してやってきた、ということなら信じられそうだった。
それでも兄は拒否などせず、入れ。と声をかける。扉が開き、姿を現したのは当然声の主、夏侯惇殿だった。

「買収する会社についての資料を持ってきたぞ」
「おお、そうだったな。仕方がない、目を通すか」
「仕方がないとはなんだ。ほら、生江、お前の分だ」
「私の分まで。ありがとうございます」

確か、兄が目をつけて買収の段取りを夏侯惇殿に任せていたのだったか。いつもいるためだろう、彼は兄へ何か物を持ってくるとき、私の分まで持ってきてくださる。
彼の世話焼き部分には私も敵わない、などと思いながら手渡された資料をめくる。兄が目をつけただけあって、成長の可能性が見て取れる、将来有望な会社だ。今は少し成績が良くないが、それも兄の会社に加われば一気に持ち直すことだろう。
一通り読み終わった時には、すでに資料を机に置いていた兄が、夏侯惇殿に尋ねる。

「して、この会社の責任者は誰にするか」
「そうだな。候補は数多くいるが……」

買収した場合、必要である社員とそうでない社員を選りすぐり、会社の頭を我が企業の社員へと置き換える。そうすることで、迅速に変化をもたらすのだ。
私もいくつか候補を頭に思い描いていれば、兄の視線がこちらに向いたのがわかった。

「お主はどうだ?」
「私でしょうか」
「うむ。お主ならすぐにでも軌道に乗らせ、さらに発展されることもできるだろう。大きくなれば、分社化してもよい分野だ」

買収した企業は、会社の一部門として吸収される予定だ。しかし兄からすれば一部門以上の成果を出す分野だと考えているのだろう。
分社、つまり子会社として独立させる。その頭に私を、ということは、子会社となるかもしれない部門を任せるにたると考えてくれているということだ。
だが−−。

「すみません。私は遠慮します」
「なぜだ。お前ほどの実力ならこれぐらいたやすかろう」
「確かに結果を出す自信はありますが」

夏侯惇殿に問われ、嘘偽りない思いを返して、しかし続ける。

「私は、兄と夏侯惇殿から離れるつもりはありませんので」

笑みを浮かべると、夏侯惇殿の隻眼が見開かれ、段々と細まっていく。口が一文字に引き絞られたあたりで、私が思う候補を何人か並べた。

「特に、最後の社員は十分な功績もあります。いかがですか、兄上」
「くく、そうだな。ならば、此度はお前の意見を採用とするか」
「ありがとうございます」

含み笑いをする兄に笑みで返し、資料をたたみ、手帳の間に挟んだ。そうして今度こそポケットにしまう。
夏侯惇殿は、顔を歪めつつ何処か気恥ずかしそうに言う。

「お前は本当に、何も変わらんな」
「ええ。何も変わりません」
「良いことだ。さて、では外へ出るか」
「はい」
「何っ? どこへいく気だ」
「領地に異変がないか、視察に行って参ります」
「ここは魏ではな−−おい!」

私との会話に気が向いている隙に、隙間を縫うように扉へと駆け出した兄に、夏侯惇殿が怒声をあげる。
その変わらぬやりとりに笑みを浮かべながら「夏侯惇殿もいかがですか」と問いかけた。

「何を言っている、今は」
「息抜きも必要ですよ。それに、この資料とても迅速に纏めていただいたおかげで、兄の後々の業務が短縮できそうなんです」
「む、そ、そうなのか」
「はい。ですから夏侯惇殿も一緒に行きましょう」

手を取ると、強くよったシワが少しだけ和らぐ。じっと目を見つめていれば、じわじわと眉間が平らになり、最終的には一つため息をつかれた。

「お前にそう言われては仕方がない。だが、今回だけだぞ」
「ありがとうございます。夏侯惇殿」
「おい、何をしておる。置いていくぞ」

扉の奥から、兄かひょこりと顔を出す。手を離し、兄に駆け寄れば、後ろから言葉通り、仕方なさそうに夏侯惇殿がついてきた。
二人の表情を見て、また笑みをこぼした。

二人に信頼され、大仕事を任せられるのも嫌いではない。だが、それが彼らから離れることに繋がるのならば、受けるわけにはいかなかった。
親愛なる兄と夏侯惇殿は、二人とも床の上で亡くなられた。衰弱する姿はかつての面影なく、瞳は虚、手は枯れていた。
私は、転生というものを何度も経験していた。その度に、私は彼らの死に際に立ち会う。そうするように生きてきた。
決められた天命なのか、彼らは大事業を成したにしろ、成さなかったにしろ、苦しむにしろ、安らかであるにしろ、床の上でなくなった。
そして私は、その様を一番の席で眺めるのだ。
澱んだ瞳を、冷たい指先を、止まる心音を。
あれほど強く輝いていた英雄が、儚く散っていく。その姿を、何度も何度も目に焼き付け続ける。
この役目を誰かに渡す気などさらさらなく、偶然にもその場に居られぬなど考えたくもなかった。
だから私は彼らのそばに居続ける。そうして彼らの死を、何度だって見届けるのだ。

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