- ナノ -

塵と化す
曹操視点

変わった男だった。
袁本初という男は、幼い頃から賢明で周囲の大人達にも劣らぬ頭脳と弁論を携えていた。
しかしそれを無闇に振りかざすということもなく、ただ泰然自若としており、それがますます周囲から評価された。
かつての儂もそういった評価を聞きつけ、あやつに近づいたものの一人だった。口伝で広がる評判でその人物の評価が決まる。袁紹は袁家としてはそれほど重要な立ち位置ではなかったが、幼い頃からの評判により多くから期待された若者だった。実際はどのような男か見定めてやろう、利用価値があるのなら友となり、そうでなければその名声を利用できる程度の距離で関わればいいとたかを括って顔を見に行った。
その先で、まるで底が透き通るかのような透明さを映す無の瞳で、しかし人々と戯れる青年を見つけた。

「曹操、というのか」
「ああ。そちらの噂はかねがね。随分と高く買われているらしい」
「ありがたいことだが、ただの周囲から見なされた評価だ。君はどう思う」

『君は他とは違うのだろう?』そう如実に告げる語り口に、思わず眉がわずかに動く。それを見つけた袁紹は、わずかに口角を上げた。
ああ、こいつは只者ではない、曲者だ。そう悟ってからだ。そやつの名声ではなく、袁本初という人間に興味を持ったのは。

袁紹は歳に合わず落ち着いた男だった。力比べにも、女にも関心を向けない。
ただ、物事に対する一通りの興味はあるらしく、誘えば少し思考の間を置き承諾する。それが一般には下賎なことと思われることでも『面白そうじゃないか』といって、わしの後をついてくる。逆に、袁紹から何かに誘われるということはなかった。あやつの周りには大抵人がおり、話をし、知識を吸収し、そして論を交わしていた。一人になる時も、大抵書簡を読み、何か考え事をする。わしをそれに誘うことはなかった。聞けば『君は他にすべきことがあるだろうし、今更必要もないだろう』と告げられる。
どうやらかつての曹孟徳という男は、袁紹からは過分に評価されていたらしい。しかしその書簡に目を通してみれば、知らぬ中身が書かれていたものであったし、論じる事柄はついぞ考えたことがないようなことばかりだった。
周囲はこの男が、将来大物になると、大人物になると期待し、媚びを売り、賞賛していた。実際、それは事実だったろう。
袁紹は本妻の子ではない。だが、確かに名家袁家の人間であり、その知恵は星のように光り、本人もそれに驕ることなく研鑽を続けている。
ともすれば、国を担うようになる男になると、わしでさえそう思った。

「悩みがあるのだ」
「悩み? 書簡や付き人達で解決はできないのか?」
「付き人ではないといつも言っているだろう」

あれが付き人でなくてなんなのか。しかしいつも通りの言葉を返してきた袁紹は、一つため息をついた。珍しいことだった。
人と論じることや知識の取得に勤しむ姿を見るとしても『悩み』というものを持っているように、今まで見えたことはなかった。わからぬことがあったとしても、それはこの男にとっては『解決すべき一つの課題』であり、あてもない悩みなどではなかったからだ。
市場にてうまいと評のよかった果実を宙に投げ、手に取る。袁紹に手にも同じ果実があり、橙色のそれと男はしっくりくる色合いだった。

「なんだ、俺が聞いてやろう」
「君に言っても解決しないことなのだ」
「ならどうして口にした」

素直な疑問だった。しかしすぐに答えのようなものが出る。まさか、こいつに限ってと思ったが、これまでの経験上、その結論しか出てこなかった。
答えの出ない悩みは、ただうちに沈殿するのみだ。だがそれを持ち続けるのには胆力がいる。その悩みが重ければ重いほど、だ。
つまり、この男はその悩みを重く思い、隣にいる若者に弱音を言っているのか、と。

「ああ。言っても仕方がないことだ。いつかは自分で決めねばならぬ」

そう返され、自身の想像が正しいと悟り、目の前の男がこうした人間味のある感情があったのだな、と何故か感心までしてしまっていた。
だが、おそらく−−そのある種、弱々しい心の形は、今この場で同じ果実を手に取っている己にしか見せたことはないのだろう。と、何故か確信できた。
それほど袁紹がかつての己に素を見せているのだと理解していたし、他を映すときは透明な水面のような瞳がこちらを見るときだけはしっかりと色彩を帯びているとわかっている。
だからこそ、いつの間にか口をついて出た。

「ならば俺がそれを決めるのはどうだ」

ともに過ごした年月は、生きた年数を鑑みれば短くないものだ。互いの間に、奇妙な絆があったのは確かだ。
それはいわゆる悪友と言われるようなものであったり、ともすれば親友と形容されるものであったと言えよう。
そうした関係の中、月日の中でようよう漏れ出た人らしき感情に、そこまでしたならば全て預けてみろと口にした。
そうなれば面白い。この仙人のような男が、人として頼り切る。その対象が、己ならここまで愉快なこともない。

袁紹はたっぷり三秒黙り込み。一つ瞬きし、その瞳に水面を映して言った。

「いいや、決心がついた」



それから、袁本初という男は変わった。
青年が大人に変わるように、英明な若者は俗世に染まり、勇猛果敢な悪を懲らしめ台頭せんとする英雄へと変貌した。
水面はどこかへ消え失せ、そこには虚勢や名誉欲が写り始め、名を上げていた男はあっという間に世へと躍り出た。
宦官討伐、反董卓連合軍の盟主、白馬義従を持つ公孫サンの打倒、その名は中華に轟き、多くの人々がその男の栄達に目を見張り、恐れ、縋った。
しかし、その男もかつての友−−曹孟徳に敗れることになる。

「殿、袁本初名義で書簡が届いております」
「袁紹だと?」

袁紹との戦いに勝利し、あやつの軍は壊滅的な被害を被った。
あやつにとって、負けるわけのない戦だった。しかし我が軍師達の策と、あやつの求心力のなさにより負けぬ争いに敗北した。
かつての袁紹はそのような男ではなかった。水面のような瞳の奥で、さまざまな思索を巡らせ、誰よりも驕らず、答えを導き出そうとする男だった。それらが曇り、消え、今の名声にこだわる男が生まれたのは何故なのか。
その変化の中、わしはあやつの隣にいた。少しずつ、透明な水に色のついた滴が一滴ずつ垂れるように男は変わっていった。止める暇も、気づく暇もなかった。それが当然の変異なのだと考えた。あやつは変わった、環境に、思惑に、欲望に従って。
そうしてあやつはわしに敗北し、病を得て床に臥せった。そんな男から、今更書簡などを送られるとは。
偽物の可能性も、見るに値しない文である可能性も大いにあった。だが、いくら病に臥せり、脅威とは言えぬ男であっても強大な支配地域を持っているものではある。
書簡を受け取り、卓上に広げる。中に書かれていた文は、たった一文。

『名声も栄達も何もかも、君との友情に比べれば塵のようなものだった』

達筆な文字は、確かに袁紹が描いたものだった。何度も見た、あやつの文字だ。
虚勢も何もない。ただ互いにとっての事実がそこに記されていた。
ああ、そうだ。名声も栄達も何もかも、我らの情の前では無力なものであったはずだった。変わったのは袁紹、お前だった。
だが、読み取れてしまう。かつて固く、複雑に巡らされていた信頼と連帯感の絆が、その文字の意味を伝えてくる。

一度だけ零した悩み。それはこの結末に至るきっかけではなかったのか。
そしてあやつは自身で決別の道を、この結末を至るに決め、変わっていったのではないか。
ああ、そして、今この時、今になり、後悔という戯言をただ水面のような心に浮かべて文にしたのではないか。
これを送ったところでわしはもう止まらぬ、袁家を滅ぼすだろう。助命ではない、ただ結末を知りながら、かつてを思う友の心だった。

「本初……ああ、お前は、なぜ」

終わりが決まった、だからこそこれを出したのだろう。病に臥せ、男はもうすぐ死に至る。
文字を辿るように、指を滑らせる。その指に、一つ滴が落ちた。
透明なそれは、あやつの瞳の水面のようで、懐かしさに目を伏せた。

幾度か日が登り、想像した通り、友の死が伝えられた。
後継問題で混乱し、遠くない未来に滅ぶ道が見える己が家の前に、しかしあやつはわしを思い出した。
いくらでもこうなることを止める手段はあっただろう。しかし、あやつが自ら望みこの結末を選んだというのは明確だった。
理由は知らぬ、理解もできぬ。やはりどこまでも高みにいる男だった。年を経ても、それは変わらず。ただわしの目が節穴であっただけであった。

一文だけが描かれた書簡を、火にかける。
相手のおらぬ情は失われる。いや、あやつに対してはそうでなければならぬ。
脳裏に浮かぶ、透明な、しかしわしに視線を向けるときだけは変わるその瞳を。
自ら滅ぼした相手を、惜しいなどと、引きずり続け、足を止めるなどあってはならぬ。
わしがそうして、この書簡を灰とすることさえ、わかっているのだろう。
燃え滓となったそれらが、風に吹かれ空に舞う。それはさながら塵のようで、恨みがましく、いつまでも睨みつけていた。

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bkm