- ナノ -

水果10
「あの、桃はいかがでしょう。嫌いな人は少ないと思っているんですが」

そう笑みを浮かべながら振り向いた少女に、なぜかかつて、共に戦場をかけた常勝将軍を見た。

誤解の解けた少女−−生江殿はひどく申し訳なさそうな様子で何度も謝罪をしていた。彼女はどうやら、本当にこちらの目を潰すつもりだったらしく、なんとも勇猛な女子であろうかと感心する反面、于禁殿から聞き及んでいた印象との食い違いに困惑もした。
どちらかといえば大人しく、武芸よりも勉学に励んでいると感じていたが、違ったのかもしれない。物干し竿とはいえ、あの構え、殺気、そして迷わずに目という急所を潰す判断を下そうとする胆力。某も自身が平時でも通常の人々には圧力を感じさせてしまうと理解していたが、それを物ともせず、こちらの反論を許さぬ一喝を行う剛勇さ。
于禁殿が語っていなかっただけで、何かの武芸に深く通じているものと見た。
いや、武芸というよりも−−命の取り合いに向いていそうな威圧であった。

しかし、それも敵ではないとわかれば幻であったかのように消え、普通の少女と変わらぬ姿となる。
いや、于禁殿が飲まされていた、と口を滑らせた際の声色は、やはり常人ではないものを感じ取ったが。思わず言い換えたが、嘘ではないはずだ。
誤解の解けたのちの少女は、于禁殿と親族なのだと言われないと気付かぬほど似ていなかった。悪い意味でもなく、ただ表情が柔らかく、表情のよく変わる少女だったのだ。丁寧な言葉遣いが于禁殿の教育を感じさせるぐらいだろうか。
だが、互いに互いを把握せず、衝撃的だった対面は、確かに于禁殿の姪であると強く感じられるものであった。
いや−−かつての世の、于禁殿か。
現代の于禁殿は、厳しくはあれどあのような敵意や殺気を身に纏うことはない。当然ではある。ここは戦場ではない。
だからこそ、あの少女の姿は目が覚めるような、脳裏の霧が晴れるような光景であった。
『あの頃の于禁殿が帰ってこられた』と、なぜかそのようなことを、冷静になってから思うほどには。思えば、あの武具−−物干し竿ではあるが−−の構え方、威圧する声色、鋭い形相はまさに于禁殿のようだった。やはり、血がつながっているのだと思うと共に、于禁殿こそが『于禁殿』なのだと感ずる。
記憶を思い出しさえすれば、于禁殿はかつての彼のそのままとなるのだろう。
少女はとても似ていた。だが、酷似しているだけだ。緊張の解けた彼女はごくごく一般的な、血の匂いも知らぬ子供であった。

そのはずだった。
気を遣った生江殿は、腹が空いていないかと聞き、こちらの答えを聞かずにキッチンへと去ってしまった。
出会いが出会いだけに、気まずさもあったのやもしれぬ。気にすることではないと思うが、厚意を無碍にするのも気が咎め様子を見守った。
視界の良いリビングから、キッチンの様子が見てとれる。冷蔵庫を開け、何かないかと吟味している後ろ姿は小さかった。
探す音がやみ、少女が手に何かを持って振り返る。
その声が、その姿が、その言葉が−−いつしか、共に杯を酌み交わした夜に寸分違わず合致した。

なぜ、と思った。そんなわけはない。
彼女は于禁殿の姪であり、全く関係のない少女のはずだ。
そのはずである−−あるというのに、こちらを見遣る姿の後ろに、彼の姿が映る。

気づけば立ち上がり、少女へ歩を進めていた。
そう、あの夜は椅子をすすめられ、彼の机の向かいに座らせていただいた。常の鋭い威厳のある声がどこか棘を丸め、酒が進むにつれて柔らかに解けていった。
彼は−−于禁殿は、峻厳であり、人を遠ざけ、しかし平等であり、決して驕らず、志を背負った御仁であった。
敵を屠る眼力は容赦なく、罰を下す一切は躊躇なく、殿へ向ける忠節は揺るぎなく。だが同時に、どこか寂寞を抱えたもののようでもあった。
戦に、兵に、今に目を向けているようで、しかしどこか、全く別の場所を見つめているような、不思議な瞳をしていた。
故郷を失ったか、それとも心を向けていた者を失ったか。決して届かぬものを目指すため、己を律して生きているように某には見えたのだ。
それを暴きたかったわけではない。ただ、言うなれば興味が湧いた。敵から恐れられ、味方からさえも恐怖され、それでもなお追い求めるその姿。
降将ゆえ、常よりも更に厳しい目を向けられようとも、当然のことであったそれに不満を感じることはなかった。ただ、どのような人間なのか、知りたいと。

だからこそ、断られると承知で酒の席へと誘った。そして、どうしたことか、その先で彼の胸のうちが、存外柔らかいことを知った。
いいや、存外どころではない。まるで熟した水果のように、皮に似合わぬその裡に、ひどく動揺したのを鮮明に覚えている。

過去から意識が戻ってきたとき、生江殿はすぐ目の前にいらっしゃった。
大きな瞳でこちらを見上げる姿は、誰がどう見たとしても、ただの可憐な少女だ。
そうだ。某もそう思った。考えた、そう、想像していた。

「−−」

少女が、何か口を開こうとしたその時−−背後から強烈な力で首を絡め取られる。

「ぬぅ!?」
「貴様、生江に何をしている……!」

同時に耳元で聞こえてきたのは、地に響くような、明らかな憤怒の声−−于禁殿の声であった。
何を? と、それを思考する前に、首元を強く締め付けられ、咄嗟に首に回った腕を掴む。しかし、あまりにも強い力になかなか腕を振り解けぬ。ぬぅ、どこからそのような力が……!

「ぶ、文則さん! ちょ、ホウ徳さんは文則さんを−−」
「生江に近づくな!」
「ヌグゥ!!」
「ちょ、文則さん!! やめてくださいってば!」

全体重を用い、落としにかかる于禁殿に若干の命の危機を感じながら、叫ぶ少女の声を聞く。
重量に釣られ、沿った首の先、壁にかかった時計の針が見える。時刻は一時三十をわずかに過ぎた頃、今日という日は稀有なことがさんざんと起こる日であるようだった。

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