- ナノ -

水果9
ほ、ほほ、ほほほほほほほ、ホウ徳ーーーーーーーッ!!!???
えっ、ホッ、ほうと、ホウ徳、ホウ徳っ!? ホウ徳って、あのホウ徳!? ホ、ホウ徳ゥ!!??

ご、強盗だと思ったのだ。不埒な輩が家に息を潜めて上がり込んだのだと、てっきりそう思って、咄嗟にベランダにかけてあった物干し竿を引っ掴んだ。そうして構えた先で、スマホで警察へ通報すればよかったのだと気づいた時にはすでに遅し。ピタリと閉まっていたリビングへの扉が動いていた。
ここまで来たら強制的に動きを止め、その隙に通報を行うしかない。反応する隙を与えないために相手の『急所』が見えた時点で突撃する。
だが万が一−−億が一、敵対する相手でなかった場合を考慮し、たいするものへの確認を行う。その際に抵抗の意思が見られれば、即座に急所−−目を潰す。

お、おお、億が一、あったぁ……。
あ、危なかった。本当に危なかった。あと少し照明が暗かったら、彼の顔を視認することができず、本当に、目をつぶしていたところだった……。
よ、よかった。声は覚えていなかったが、顔はちゃんと覚えていてよかった。グッジョブ私の記憶力。
っていうか文則さんも匂い的にこれ、泥酔しているだけ、だよね。ああーーもう本当にてっきり文則さんが襲われたのかと思ってぇ。本当に無事でよかった……。

「ぶ、部下の」
「ええ」
「文則さん、の」
「はい」
「ホウ徳、さん」

しかし−−こんな、こんな偶然があり得るのか。
目の前の男性は、確かにホウ徳だった。あの樊城で華々しく散っていった、士の本分を全うした将。
そのホウ徳が、かつての姿そのままに目の前に現れた。しかも、文則さんの部下として……。
考えることは幾多もあるように思えるが、その前に私には限界が訪れていた。

「あの……文則さんを寝かせるの、手伝ってもらってもよろしいでしょうか……」
「……うむ。手を貸しましょう」

本当にごめんなさい腕も足もチワワみたいにプルプルしてしまってもう無理なんです。落としそう。


「ほんっっとーーーに申し訳ありませんでした!!!!」
「いや……頭を上げられよ。某も恐ろしい目に遭わせてしまい、申し訳ない」
「いいえ! 今日は飲み会で遅くなると聞いていたのに、会社の方に送り届けていただくということを全く考えられず、怒鳴った上に目を潰そうとまでしてしまい……」
「うむ……目を……」
「本当にすみませんでした……!!」

床に額を擦り付ける勢いで謝り通す。
ホウ徳、ではなく『ホウ徳さん』は許してくれ、むしろ謝り続けるこちらに困惑している気がするが、それでも謝らなければ気が治まらなかった。
何せ、私があそこで一歩間違えて彼の目を潰してしまっていたら、彼の人体に大きな障害を残していたかもしれないのだ。そしてこのアパートに住まわせてもらっているというのに、取り返しもできない遺恨を文則さんにも残してしまうことになる。姪が会社の部下の目を潰した−−もう、考えるだけで吐きそうだ。
文則さんはどうやら寝入っていたようで、一旦ホウ徳さんに手伝っていただき、リビングのソファに寝かせてもらった。首元まで赤らんでいて、かなり酔っているのだとわかる。文則さんがここまで飲むなんて、少し想像がつかないがきっと盛り上がって楽しい時間を過ごしたのだろう。ああ、それを私がぶち壊しにするところだった……!
それから、文則さんはなぜか後頭部にたんこぶができていたので濡れたタオルで冷やしている。帰ってくる途中でどこかにぶつけたのだろうか。

「もう結構。真心は伝わり申した」
「そ、そうですか。そうだ、文則さんを連れてきてくださってありがとうございます」
「偶然家を知っていたのみですので」
「そうでしたか……。にしても、文則さんが自力で帰れなくなるまで飲むなんて、相当楽しんだのでしょうか」
「ぬ……少し飲まされていたように見受け−−」
「無理やり飲まされていたということですか?」
「……いや。于禁殿も随分熱心に語られていたので、盛り上がっていたのかと」
「あ、そ、そうですよね。文則さん、ちゃんと断れる方ですし、あはは」

びっくりして思わず食い気味で聞いた後に我に返る。恥ずかしいことをしてしまった……。
そうだ。私が心配せずとも、文則さんは大人なのだ。色々あって、ちょっと混乱している気がする。赤子バイアスがかかってしまっていた。ちなみに赤子バイアスとは私自身が赤子であった頃の文則さんを見ているため、別に文則さんを赤子として見ているわけではない。
ちなみに、物干し竿もすでにベランダに戻した。もう二度と獲物目的では使わんぞ……。
深夜、時計の秒針だけの響くリビングで私の誤魔化し笑いだけが響く。思えば、なんだかんだともう一時半だ。もしかしたら隣の家にも聞こえていたかも。こんな深夜に大声をあげたりなんだりして、申し訳なさすぎる。

「そなたは……」
「あ、はい。そうだ、すみません名乗りもせずに。私は生江といいます。文則さんの姪で、学校の関係で一緒に住ませていただいています」
「生江殿、か」
「は、はい。えっと、そうだ。何か食べますか? ここまで送ってくださって、小腹が減っているのでは!」
「ぬ、いや、某は……」
「待っていてください!」

バッと立ち上がり、そのままキッチンへと駆け込む。
迷惑をかけまくってしまっていて、何かもてなさないと気が済まない。あと、名前を厳かに言われるとなんとなく前世を思い出してソワソワしてしまう。
しかし、もてなすといっても何を出せばいいだろう。文則さん分の今日の夕飯があるけど、それを出すのもなんだかおかしいし、文則さんの分がなくなってしまう。いや、新しく作ればいいとは思うんだけど。
冷蔵庫をバタバタと開けていると、ふと野菜室に入っていた果実を見つけて手に取る。

「あの、桃はいかがでしょう。嫌いな人は少ないと思っているんですが」

そうだ。前世で一度だけ酒盛りをした時も、ホウ徳は好ましいと言っていたはずだ。
熟したそれを手にとってホウ徳さんへ振り返ると、彼はこちらを見て、ゆっくりと立ち上がった。そしてそのまま、緩慢と、しかし背丈に違わぬ歩幅でこちらへ歩いてくる。
何も口にしないので、どうしたのだろうと様子を伺っていると、彼はそのままキッチンへ入ってきた。
え、なんだろう。もしかして桃を切るのを手伝ってくれるとか? もてなそうという時にお客さんに手伝ってもらうのは流石に……と口を開こうとしたところで、ホウ徳さんとの距離が一メートルほどになり、次の瞬間、ぶつかる寸前ほどに近づいた。
いや、一歩でか。

「……」
「……」

ホウ徳さんの鋭いとも取れる瞳が私を見下ろす。戦乱の世でもないというのに骨太で筋肉質な体は、背丈が家の冷蔵庫ほどもあり、急激な圧迫感に息が詰まりそうになった。
手伝いに来た、ということでも、なさそうだ。
しかし−−こうして見てみると、本当にかつてのホウ徳が眼前にいるようであった。
あの時代の私にも、恐れず声をかけてくれた相手。酒盛りでの穏やかな記憶は、未だ私の記憶に残っていた。

『某は于禁殿の部下、ホウ徳と申す』

変わらぬ姿、堂々さ。しかしそれに、僅かな違和感を感じて桃を掴む手に力が滲んだ。
彼は文則さんを連れてやってきた。彼は文則さんの部下だ。そう『文則さん』の。
私の叔父の名は『于文則』だ。今の時代、字というものはない。だから、文則というのは字ではなく正式な名だ。
なぜ彼は、文則さんを『于禁』と呼ぶ。

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