- ナノ -

水果7
高校生になってからの新生活は、順調すぎるほど順調だった。
かつての人々の面影に戸惑うことはあれど、解決するようなことでもない。ただ私の胸に留め置けばいい事柄で、気にしないでいればただ平穏な日々の連続だった。

『今日は飲み会で帰りが遅くなる。先に寝ていてくれ』

そう、花の金曜日に文則さんから連絡があり、それに了承の意を返したのが数時間前。
ここ最近の話から、一番忙しい決算の時期がようやく終わりを告げたぐらいで、おそらくその流れで飲み会となったのだろう。文則さんが飲み会なんて珍しいが、そういう場でしか発散できないストレスもあるだろうから、体調が悪くならない程度に存分に楽しんでいただきたいものだ。
かつての私は酒に弱かったが、文則さんはどうなのだろうか。勝手な想像だが、あまり強くなさそうだ。
そんなことを考えながら時計を見上げると、12時を回っていた。文字通りかなり遅くなっているらしい。外で泊まってくるのだろうか。
少し心配だが、文則さんも子供ではない。むしろいい大人だ。赤子の時に見たまだ年若い彼ではないのだ。
うんうん。と頷きながら手元のスマホをみやる。リビングのソファに座り、小さな電気だけをつけて私が何をやっているのかというと、スマホゲームだ。
いや、ちょうどイベントの追い込み時期で、ラストランなんですよ。このイベランで五千位以内に入れば夏侯惇殿の若かりしころ(両目ありバージョン)がもらえるんですよ! これはもう、魏の将だった私としてはやんなきゃでしょ!! いや別に関係ないですけど。私が欲しいだけですけど。
文則さんがいると、勘付かれて怒られたりするので、彼がいないときが追い込みドキなのだ。もちろん、文則さんが十割正しい。正しいが、やっぱりイベントは走りたくなるものだ。よしいけ(ゲームの中の)ホウ徳! 敵を蹴散らしてポイントを稼ぐのだ!!
ちなみに、私の部隊の編成はホウ徳、張遼、楽進、李典。そして君主として曹操殿だ。ふへへ、ま、まぁ、ゲームの中だけだし。いいじゃないですか。うん。

それからゲームを続けること一時間、そろそろ肩が痛くなってきたところで、玄関から音が聞こえてきた。
ガチャガチャと少し粗雑な音がして、鍵の開く音がする。文則さん、だろうか。
いや、二重鍵に指紋認証なのだから彼以外にあり得ないのだが、にしてもいつもと様子が違う。飲みすぎてふらついているとかだろうか。
それならば肩をかしにいかないと。夜遅くまで起きているなど不健康だ、と怒られてしまいそうだが、文則さんも飲み会帰りだ。強くは言えないだろう。
そんな打算を持って立ち上がった先、玄関からの廊下とリビングを結ぶ扉の向こう側から、一人ではない足音と、くぐもった文則さんのものではない男の声が聞こえた。




ホウ徳

繁忙期が一段落し、ようやく仕事の手を休められるとなった後、納会が企画されたのは当然の流れであった。
去年まではそのような余裕もなく、深夜まで仕事通しだったのだが、働き方改革、というものが行われているようであり、残業の削減や有給の消化などが積極的に進められていた。それが今年の余裕のある仕事納めにつながったところもあると思われるが、一番は于禁殿−−本名を于文則というが、会社では一部にそう呼ばれている−−だろうと某は見ていた。
三年ほど前に入社した新参者ではあるが、入社し彼の部下になった直後から、彼の働きぶりは異常だった。誰よりも厳格で会社に精勤である−−といえば聞こえはいいが、深夜まで残業するのは当たり前。繁忙期には家に帰らぬ時さえある。仕事に身を捧げていると言ってもいいほどの人物であった。
流石に労務から目をつけられると苦言を呈されることもあったが、本人は聞く耳を持たず仕事に明け暮れる日々。確かに、于禁殿がそれほどまでに働かねば回らないということもあった。どうにか彼の負担を減らそうと尽力もしたが、上手くいってはいないように感じられた。
そうして二年。同じような月日が流れていたが、ある日突然、于禁殿から相談を受けた。
某に相談。何事かと身構えたが、内容は「週に半分、定時に帰れるように尽力したいのだが、何か案はあるか」といったものであった。驚き絶句していれば「問題のある発言だとはわかっている。だが、どうしても帰らねばならぬ用事ができたのだ」と言われ、ひとまず頷いたのは思い出深い。
しかし、問題などあるわけがない。むしろ、そろそろ倒れるのではないかと部署全体で囁かれてさえいたのだ。これを機に、と他部署の曹仁殿や夏侯惇殿などにも相談し−−于禁殿は遠慮していたが、この部署だけで解決できるものでもありますまい。というと、驚くほど素直に聞いてくださった−−こちらの部署に持ち込まれなくとも良いものを他部署へ移したり、于禁殿の抱え込んでいた仕事を再分布するなどした。そうすると、山のように積もっていた于禁殿の机から書類が半分ほど消え、部署の空気も少し軽くなったように感じられた。
それからだろうか。于禁殿と少し話をするようになったのは。
ポツリと于禁殿から出たのは、今年から姪と同居するため、プライベートの確保が必要になった。ということだった。これには驚いた。姪とはいえ、于禁殿が自宅に他人を住まわせようとなどと。しかも、まだ子供らしい。さらに話を聞くと、随分と聡明かつ博学とのことで、于禁殿はその少女を心底可愛がっているようだった。
これもまた意外にすぎた。あの厳正な于禁殿が、わずかながらでも思い出しながら笑みを浮かべるのだ。姪という存在がいないため、想像ができなかったが、于禁殿がともすれば仕事よりも優先したがる相手なのだと理解はできた。
そうして、どうやら同居が始まってから、さらに于禁殿は変わった。
週の半分は早めに帰れるようになったとはいえ、逆を言えばそれ以外はまだまだ激務だった。深夜まで机に齧り付いているのは当然であったし、仕事が残れば于禁殿は家にまで持って帰っているようであった。だが、それが徐々に変わり始めた。
于禁殿は某を主な部下と見定めてくださったらしく、大きな仕事を割り振ってくださるようになった。仕事上の連携もスムーズになり、その分効率も上がる。それから他部署へ頼ることが苦手だった于禁殿であったが、人事や経営にも顔を出し、荀?殿や賈ク殿、郭嘉殿たちに意見を求めるようになった。彼らも珍しく驚いていた風であったが、質問には的確に答え、于禁殿はしっかりと耳を傾けているようであった。
彼らの助力もあり、我らの部署は徐々に雰囲気が変わっていった。開放的、とまでは言わないが、他部署との交流も増え、結果として仕事量は変わらないまま時間的な余裕を得られたと言えよう。このことは社長である曹操殿の耳にも入り、直々にお褒めの言葉をいただいたそうだ。

「これは私の力ではない。少し心苦しいものだ」

喫煙所で、于禁殿がコーヒーを片手にそう語る。考えれば、購入する飲み物も変わったように思えた。

「しかし、于禁殿自ら考え動かれたのは事実。気負わず社長の言葉を受け取れれば良いではないですか」
「そうではないのだ」

そういって、于禁殿は缶に口をつける。彼を喫煙所で見るのも久しいかもしれない。タバコはやめたと聞いていた。

「私が変わろうと思ったのは、姪からの提案からなのだ」
「姪ですか。早く帰られるように、お叱りを受けたのですかな」
「いいや……。業務の効率化の具体策の提案と、業務が長引くことでの体への負担について、資料を渡された」
「……」
「そして三時間ほど説明を受けた」
「……それは、さすが、于禁殿の姪、というお話ですな」
「ああ。しっかりと裏付けも行われていて、齢一五のものが作ったとは思えなかった」
「于禁殿さえ納得させたということですか」
「そうだな。それに」
「それに?」
「……心配しているのだとも、強く言われた」

成程。確かに于禁殿の姪のおかげ、としていいのかもしれぬ。
于禁殿は元来、仕事を苦に思わない性質らしく、業務をしていて弱音を吐いたことは一切なく、むしろ業務をサボったり、手を抜いたりするものがいれば厳しく対処している。そんな彼に対して、的確な説得の方法と、最後の一押しに人情に訴える。赤の他人ならまだしも、相手は于禁殿が可愛がっている姪からだ。
その痛恨の二撃が于禁殿を突き動かし、業務の改革を成し遂げさせたのだろう。

そうしたこともあり、今年の繁忙期は皆余力のある状態で終えることができたのだった。
開放感に包まれた会社で持ち上がった飲み会は、しかし下の者達に仕事終わりまで付き合わせることもあるまい、と部長などのメンツに限られた。
そこに某も呼ばれ、当然于禁殿も呼ばれていた。彼は断るつもりだったようだが曹操殿から直々に誘われ、少し悩んだ後に承諾していた。

集まった面々は、ある種懐かしい者だった。
いいや、そもそもがこの会社に集まった人々が三国の世を思い出させる者達なのだ。
某や会社に在籍している曹仁殿、夏侯惇殿、それに軍師殿たち−−その他の魏に属していた者達は、過去の記憶を覚えている。
さまざまなことがあり、かつての世では裂かれた仲であっても、この戦が隣にない世では共に手を取り合っている。
しかし、唯一記憶を思い出していない将軍がいた。それが于禁殿であった。

貸切にされた飲み屋で各々椅子に座り、曹操殿の労りの挨拶の後に宴が始まる。
兵士たちもおらず、古の過去と比べれば小規模な者だが、十分に過去を感じさせる風景であった。
その中で、于禁殿は曹操殿と軍師達に囲まれており、なかなか苦労されている様子だった。今回の功労者は于禁殿といってもいいだろう。だからこそ、曹操殿も隣に座らせたのだろうが、曹操殿からの酒と、軍師達からの酒でなかなか大変そうだ。
少し気になり様子を伺っていると、徐々に楽しげな雰囲気になっていき眉を上げる。笑うほどではないが、于禁殿が何か熱心に話をしており、それを曹操殿や軍師達が聞いているようだった。

「気がそぞろな様子。何を見ておられるのだ?」
「張遼殿。いや、于禁殿が何を喋られているのかと」
「あー、今回一番仕事捌いてたの于禁殿だしなぁ。最近調子いい感じだよな、于禁殿」
「喜ばしい限りです! これで、記憶も思い出していただければ一番なのですが」

同じ席にいた張遼殿から話しかけられ、視線をそちらへ向ける。
李典殿も某と同じ考えだったらしく、何度か頷きながら于禁殿を見ているようだ。楽神殿も楽しげだが、言葉尻が少しだけ落ちる。

「仕方があるまい。誰も彼もが思い出すものでもないだろう」
「それはそうなのですが」
「それに、思い出さない方がいいことだってあるんじゃないかね」
「……」

李典殿の言葉に、三国志で語られている「于禁」について脳裏によぎる。
殿と国に尽くし、規範を持ってことにあたった常勝将軍。そして晩成、関羽殿に降ったことで名誉挽回の機会を得られず、病に没す。
それが、歴史に語られる「于禁」という将であった。
その歴史について、某が何をいうことでもない。だが、某の力がさらにあれば、彼にあのような最期を迎えさせずに済んだのではないかとも、わずかに思う。
過去の記憶は、ところどころ掠れているのに、于禁殿との会話は鮮明に覚えている。
死を覚悟されている方だった。誇りを持って散ることを望んだ方だった。その方が選んだその先は、かつて語った思いとは真逆の道であった。
規律のために辛く当たることを謝罪される方だった。内の笑みは、やわらかいものだった。

「どちらが良いのでしょうな」

できることなら、思い出されたあの方とあの時のように会話をしてみたい。
果たされなかった約束を、と。

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bkm