- ナノ -

水果6
「じゃあ、今日からお世話になります」
「うむ……」

うむて。
文則さんは渋めの顔でそれだけ口にした。重々しいその表情は、年頃の娘を預かるという大きな責を深く胸に刻んでいるに違いない。多分。文則さんそんな人だし。
引っ越し作業も済んで、自分の部屋も出来上がった。新学期の始まりも近づき、私はいよいよ文則さんのアパートへと移り住んだのだった。
何度も足を運んだことがあるアパートは、セキュリティは玄関での暗証番号。ドアの二重ロックの鍵に指紋認証、廊下にある監視カメラとこれでもかというほどであった。部屋も広く綺麗であり、デザインが美しい。無駄のない部屋に彼の嗜好と資金力を感じて感嘆してしまいそうだ。しないけど。
文則さんとは既に打ち合わせをし、家事の分担などは決定している。最初は私が全てやるつもりだったが、学生は学業が本分である、と頑なに拒否され、二人の交代制となった。最終的にそう決まったのだが、彼から交代制の提案が出てきた時に「文則さんはお仕事が忙しく、夜も遅くなることが多いと思っていたんですが」と口にして大いに彼を動揺させることがあった。彼はしばらく唸った後に−−図星だったんだろう−−「必ず週の半分は料理ができる時間に戻る」と告げた。無理じゃないかなぁ、と思っていたら、その後文則さんは私を信じさせるためか、しっかりと夕飯前ぐらいの時間に母づてで連絡をくれるようになった。律儀すぎるだろ。
確かにそれは週の半分はしっかりと守られていて、嘘をついているふうでもなかった−−まぁ文則さんが嘘をつくとは思っていないが−−そう言ったこともあり、交代制を受け入れたわけであった。文則さん本当にいい人なんだよなぁ。周囲の人々に恵まれすぎてるな、私。

「今日の昼食だが」
「あ、はい。早速私が作りましょうか?」
「いや。……近くに美味いレストランがある。そこで食べようと思っているが、どうだ」
「レストランですか?」
「ああ。色々とばたついていて、生江 の進学祝いもできていなかったからな」

ムッと眉間に皺を寄せたままそう尋ねてくる文則さんに、ああーこれは。と思う。
これ、文則さん。なんか、喜んでる気がするなぁ。
私が文則さんに誕生日プレゼントを渡した時とかと、おんなじ顔と声色だ。嬉しいんだけど、それを表に出さないように自重している顔。ちなみに、母は気づいていて、いつも「素直に喜びなよ」と釘を刺している。それができないところが愛らしいと私は思うんだけどね。
なんだかんだと押しかけた形になっていて、出来るだけ迷惑はかけないようにしようと決めていたんだけれど、少しでも楽しみにしていてくれたんだろうか。
そう思うと、なんだか頬が緩んだ。めざとくそれを見つけたらしい文則さんの眉がピクリと揺れる。

「嬉しいです。えへへ」
「……そんなにか」
「はい。三年間、よろしくお願いします。文則さん」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」


文則さんとの生活はおおよそうまくいった。おおよそ、というのはやはり初めての二人暮らし、色々とハプニングも起こるものだ。
文則さんから後々忠告を受けたものもいくつかあった。洗濯物は別々に洗えとか、買い出しを一人でするなとか、風呂上がりに薄着で出てくるなとか……。いや、乙女か文則さん。と思うが、ただ彼が厳粛で気にしいなだけだ。
元々、洗濯物は私が担当することになっていた。文則さんは分担決めの時に、自身の洗濯物は自身で洗う。というのを提案していたが、私が全部します。と押し切ったのだ。
実際に洗濯をしようとなり、痛みそうなものは網にいれ、それ以外は一緒くたにまとめて洗濯し、干していたわけだ。ベランダを使用していたが、流石に私も女としての羞恥心があるので、自身のパンツは内側に干すようにして、外からは見えないようにしていた。が、干されている洗濯物を見て文則さんが真っ赤な顔をして怒ったわけである。まぁ、確かに自身のパンツを文則さんから丸見え状態にしてしまったのは悪かったかもしれないが、彼はそこではなく−−顔を赤らめていた理由はそれだったと見受けられるが−−曰く、自身の衣服と共に洗ってしまっては臭いが移るだろう。ということだった。フゥン?
よく意味がわからずしっかりと耳を傾けると、文則さんが仕入れた知識では年頃の娘は父−−文則さんは父ではないが−−と洗濯物を共にするのを嫌がるらしい。それは生理的な嫌悪や臭いがうつるといった合理的な理由からなのだと。文則さんは気を回し、もちろん私もそうであると踏んで最初は別々に洗濯を担当することにしようとしたが、私に押し切られたこともあり、洗濯物を私に任せ、好きなようにさせようとした。ということだった。確かに、なんかいろんな柔軟剤とかあったし、節水機能の洗濯機だから何度回しても良い。と謎のアドバイスももらっていたな。と思った。
まぁ、私はそんな面倒なことはしたくなかったので、文則さんに懇切丁寧に「人によって違う」ということを説明し、分ける必要のない洗濯物を分ける非合理さを説き、最終的に納得してもらった。ただ、自身の下着は自室に干すようになった。気まずさは感じてほしくないので。
買い出しについても、大荷物を持って廊下を歩いているときに、ちょうど仕事帰りの文則さんとバッティングし、無理をさせるつもりはない、夜に一人で買い出しは危ない、と色々と説教を受けてしまったものである。彼は一応、私の後見人のような立場だ。少し反省して、買い出しの際は文則さんに相談するようにした。自由に使っていいと一定金額を渡されて管理する、という形にはなっているものの、そもそも彼のお金であるし。
そして風呂上がりに薄着で出てくるな、というのは−−んーまぁ、文則さんはそういう気質であるし。女が肌を多く見せるのを嫌がる性質だ。私にも覚えがある。前世では規律のため、細かいことにも目を光らせてきていた。だが、今は二十一世紀であるし、そこまで気にしなくても……とは思ったけど、まぁ、ね。はい、ちゃんと上に羽織りました。

逆に私も、少し文則さんに指摘することもあった。主に生活面での話だ。
彼はやはり仕事が忙しく、エネルギードリンクで凌ごうとする姿や、家にまで仕事を持ち込むことがあるのを知った。多少はいいだろうが、遅くなると言った次の日に起きてみると、リビングのソファで生き倒れるように眠っているのを見た時はヒヤリとした。
これでもマシになった。と述べる文則さんの言葉は本当なのだろう。以前は私という制約もなかったため、晩御飯を作りに早く帰るということもなかっただろう。その日々が全てこれだったと思うと、正直肝が冷えるどころではない。
文則さんの忙しさを知ってから、彼のプライベート面での補助−−ではなく、仕事面での補助をし始めた。
と言っても、私ができるのはエネルギードリンクではなく豆乳やプロテインに差し替えることや、仕事が立て込む原因を事細かに聞いてみよう見真似のアドバイスをするぐらいだったが。しかし、文則さんに理屈がなければ納得しない性質の持ち主だ。わざわざプレゼンテーション資料を作成し、事細かにどれほど体に悪いか、どれほどの改善が見られるか、原因・理由、そしてどれほど心配しているかを懇切丁寧に語らせてもらった。長話を聞くことの苦手意識はない文則さんなので、しっかり最後まで聞いてくた。
そして結果として、徐々にだが改善していってくれるようになった。
おかげでエネルギードリンクは卒業し、体を酷使する残業や家での仕事も少なくなっていった。もちろん、全てが全てなくなるわけではなかったが、私としては十分だ。

「近頃、学校はどうだ。大事ないか」
「はい。友達もできて、勉強も追いつけてますし、楽しいですよ」
「そうか。昔からではあるが、生江 は本当に器用だな」
「そんなことないと思いますけど」
「いや……む、この煮物、うまいな」
「でしょう。自信作です」
「ううむ……来週にでも作り方を教えてくれ」
「ふふ、もちろんです」

褒めの言葉に頬が綻びつつ、箸を進める。今日の夕飯は私の担当だった。
気合を入れて作った料理を褒めてもらえるのは本当に嬉しい。
しかし、器用、か。むしろ、人生三度目にしては不器用な方だと言っていいと思うわけなんだなこれが。
学校では、うまくやっていると思う。報告したことは間違いなく、友達もできたし、勉強で苦労していることもない。
ただ、入学して驚いたこともあった。大勢の生徒が存在する進学校。そこで、見知った姿を見つけたのだ。
それは、かつて過去の時代で出会った人物−−孫権だった。学生で、若かったが、確かに孫権殿だった。赤毛の髪に、碧眼の美しい瞳。近くにいたのは、護衛のものだったろうか。ひどく驚いたが、目線も合わず、彼は去っていった。そもそもあったところで彼は正しく孫権殿ではないし、そうであったとしても今の私に気づきなど絶対にしないだろうが……。
ウゥン、こんなこともあるんだなぁ、という感じだった。
どう解釈すればいいか迷ったが、文則さんの件もある。彼も孫一族の末裔、ということなのだろうか。そうして偶然にも、容姿があそこまで一致した、と。
そんな偶然がありえるのか、文則さんについで孫権殿まで……。そうは思うものの、それ以外に説明のしようがない。
そしてできた友人、というのが−−これがまた、 蔡文姫殿にそっくりだった。三国の世では、彼女は匈奴に連れ去られていたところを曹操殿に助けられ、その後魏で文学の貢献に当たった詩人だ。彼女の過去は重いものだったが、彼女の笑みは柔らかで時折奏でられる琴はおおらかで、しかし時折切なさが混じるものだった。
そんな彼女と瓜二つの人物が、私と同じくして入学してきたのだ。出会いは、彼女が初めての学校に戸惑っているのを見て、なんとなく捨ておけず、声をかけたのがきっかけだ。それから彼女とは話すようになり、今では昼食を共にする仲だ。
しかし、二度あることは三度ある、とはいうし、実際そういう体験をしてきたわけだが……いやしかしこれは……うーん。

正直気になりまくるが、文則さんに相談しようにもできないことだ。まず前世の話をしなければならない。却下だ。
まぁ、何か困っているわけではないし、私は至って平穏な学校生活を歩むことができている。文則さんとの暮らしも良好だ。
それでいい。それでいい、のだが。

−−この世界には、ホウ徳や、殿に瓜二つな御仁もいらっしゃるのだろうか。
なんて、思ったり。

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