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水果3
死に場所というのは、なかなか二十一世紀でも選べないものだ。
できれば安心できる場所で、眠るように死ねたらと口にする人が多いのではないだろうか。
痛みなどなく、悲しみも少なく、満足して死にたいと。昔に比べればそれらを実現できる人は増えただろうが、それでも病によって亡くなったり、犯罪に巻き込まれて無念の死を遂げたり、前世の私のように不慮の事故で死ぬことだってあるだろう。
だから、死に場所が選べるというのは、実は幸運なことだ。

「降伏なされよ」

だから、そう口にする蜀の名将と名高い将軍に言われた時に、幸運なことだ、と思った。
ホウ徳はすでに逝った。彼は何も迷わなかっていなかったように思う。その場を私は見とることはできなかったが、彼は確かに華々しく散ったのだろう。この樊城で、己が役目を果たしたのだ。
そうして、次は私だった。水責めにあい、我らの兵は壊滅。士気は消え失せ、美髯公と呼ばれる男に恐れ慄き死を覚悟さえしている。
ああ、幸運だなと思う。
ここで降伏せずに、徹底抗戦を構えれば敵将関羽率いる軍団は我らを容赦なく殺すだろう。士気を失った兵士たちを奮い立たせても、そうは持つまい。そうして私はホウ徳と同じく首を切られるのだろう。
死に場所を選べる幸運に、しかし更なる幸運に感謝する。
散る最期を選択できることよりも、もっと大事なのだと思えることがある僥倖に。
怯む兵士のうちに、それでもまだ動けるものへと指示を出す。私の指示に、驚愕に瞠目した兵士を半ば強引に送り出した。

そうして我らの軍は−−いいや、私は敵将、関羽に投降することとなる。
雨の強い日、鉄の臭いを全て水が洗い流す日のことだった。

関羽はその後、呉に討たれることとなった。
まさかそのような顛末になるとは思わなかったが、それにより魏への蜀からの侵攻は止まることとなる。
そうして私は、関羽に捕縛されていた身を呉へと送られることとなった。
呉ではどうしたことか、呉の君主である孫権殿から歓迎を受けることとなり、それなりの待遇を得られることとなる。
当然、私を糾弾するものもいた。当然のことであり、私は静かにそれを受け止めていた。むしろ心地よく感じていた節さえある。
孫権殿は私を魏に戻すために尽力してくださっているようだが、魏に帰ったとて、私に居場所はないだろう。
この人生で、唯一の私の母国は、私を受け入れてはくれまい。
それでいいのだ。これでいい。

あーあ。
やっちまったなぁ、という気分だ。でも、後悔はしていなかった。
信頼していた部下をみすみす死なせ、のうのうと一人で生き残っている。けれど、それでよかった。
樊城の戦いの際、水責めによって我らは身動きの取れない状態になった。だが、死んではいなかった。兵は万と残り、絶望の中に沈んでいる。それを関羽に引き渡し、沼へと引き摺り込んだ。生きている兵は食糧が必要になり、彼らは軍の足を引っ張る。
もしかしなくても、無意味な行動だったかもしれない。私が投降しなかったとて、関羽は呉に討たれていたかもしれない。
だが、事実彼は呉に討たれた。それだけだ。

「物憂げな顔をされてどうされましたか」
「……そのような顔はしておりません」
「そうだろうか? 考え事をしているように見えたが」

そう、呉の当主−−孫権殿は口にする。
呉に客将として向かい入れられ、しかし当然居場所などない男に、彼はこうして顔を見にくる。向かい入れられた当初は、憧れていたのだと告げるその姿に、想像と現実の落差を実感しすぐに失望するだろうと思っていた。だが、実際彼はこうして何度も飽きもせずに彼が私に送った邸宅へとやってくる。
魏から離れ、仕事もなく、戦にも出られない私はすっかり老けてしまった。年相応以上に白髪も増えたし、正直やることもなくて暇すぎるので幽鬼のような顔をしているに違いない。だが、彼は気にもせず現れて、言葉を交わそうとする。なんだか、ここまで気を遣ってもらっていると、想像と全く違う姿であるのが少々申し訳なくさえ思う。

「……いいえ。考えることなどありません」
「そんなことはないだろう。あなたは、いつも魏へと帰還したいと願っているように思える」
「戻ったとて、私の居場所などありませぬ」

いや、あってはならない。というのが正しいだろう。
優秀な将ならばいいだろう。敗戦濃厚な戦で投降し、そして祖国へ送り返される。器の広い曹操殿なら、その将に使い道があるのならまた用いただろう。だが、私は規律を第一に考え、外れたものを厳罰に処し、そうして軍を運用してきた。そういった将軍が敗将として戻ってきたところで、なんの役に立つだろうか。
そっけなく返せば、彼は明るいとも思える笑みを浮かべた。

「なら、呉に来るか」
「ご冗談を」
「冗談などではない。曹操がいらぬというのなら、私の元へと来てほしい」

近づいた距離に、思わず身をひきかける。なんというか、さすがは一国の君主をしているだけはあるというか。曹操殿より随分若いというのに、大胆な男である。
しかし、憧れというのは恐ろしい。こんなのになっても、まだそのようなことを言うのだから。

「申し訳ございませぬが、たとえ破れたとて、私は魏の将です。それは何があっても変わりませぬ」
「……そうだろうな。うむ、すまない。先程のことは忘れてくれ」

孫権殿はそう、少し照れたように眉を下げた。しかし、それが全てではないかもしれないが、嘘だと知っている。
彼は、投降し、落ちこぼれ、悲観に浸っているように見える客将を慮っているのだ。だからわざと触れずらい話題を笑みで話して、自身が悪かったかのように振る舞っている。
気遣いのできる男なのだな、と思う。それがどうして私に向けられているのか甚だ疑問ではあるものの、草臥れた心情には悪いものには映らなかった。

「貴公は、死ぬことを怖いと思いますか」
「死ぬこと、か? そうだな……恐ろしいと思う。私にはまだまだせねばならぬことがある。しかし、なぜそのようなことを」
「……私も、死ぬことが恐ろしいです。ですが、貴公の言うような、殊勝な意図ではありませぬ」
「なら、何が理由で恐ろしいと思うのだ?」
「ただ、死ぬことが恐ろしいのです。理性ではなく、本能で、ただ生きたいと願っております」
「そう、なのか」

誰が望んで先のわからぬ暗闇に身を投じたいと思うだろうか。記憶も意志も消えた先を知りたいと望むだろうか。
私は一度死に、その恐怖を味わった。幸い短い時間だったが、それでも強烈な恐怖だったのは確かだ。
誰が死にたいなどと思うだろうか。次、私のこの意識は本当に露と消えているかもしれないのに。
彼に使える将たちの、如何程がこのような戯言を口にするだろう。いいや、誰一人としていないに違いない。情けない男だろう。

「ただ、戦場で散る覚悟も、それを望む心情もございました」
「……ならなぜ、降伏したのだ」

孫権殿の、碧眼の美しい目がこちらを射抜く。
私はただそれをぼうっと見つめて、返事をした。

「覚悟よりも、心情よりも、何より本能よりも優ったのです。殿のため、国のためになりたいという意志が」

あーあ。
誇らしいよ。私は、私のことが。
実際は、勝つことが全てだった。負けた時点で終わりだ。だが、私は次善策を己の矜持を押し退けて取ることができたのだ。
平和な世で暮らしていただけのただの女だった私が、全ての言い訳を叩き潰して、殿のため、国のためにと考えて動くことができた。そう思えることができた。なんと幸運なことだろう。
小さく頬を動かす。
だから、孫権殿。いいのです。ご心配なされるな、私は望んだ結果、ここにいる。慮れずとも、私はただ生きる。魏国へ戻ることを夢見て、曹操殿に処断される日を心待ちにしながら、ただ日々が過ぎ去るのを眺めることができる。

「孫権殿。もうここには来られるな」
「……于禁」
「他国の敗将にかまけるなど、評に関わります。私にも、貴公にもよろしくない時間です」

そう告げて、目線を逸らす。窓の外、空は曇り模様だった。もうそろそろで、雨が降るか。
眺めていれば、彼の声が耳に入ってくる。

「……必ず、また来る」

頑なな人だな、と思いながら、ただ空を見つめた。

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