- ナノ -

色々詰め込みB
たぶんBのネタ
分けるのが面倒になってしまったので全て詰め込み。虚空の仮面基準
色々な人視点。
前に書いたものと齟齬あり



・レイヴン視点

あの人は、とても――言い方は可笑しいかもしれないが、昔から、優しい人だった。
忙しいだろうにキャナリ隊にもよく顔を見せていて、平民も貴族も関係なしに接して、期待をかけていた。
何がそんなに嬉しいのか、隊を見るときの顔はとても穏やかで、普段見る騎士団長閣下、という印象は薄れていったのを、今でも覚えている。理想に対して邁進しているようであって、周囲をよく見ている人だった。
だからこそ、貴族であっても平民であっても、騎士団長に憧れ、元々の意識を変革していく輩も多かった。気付けは騎士団は徐々に変わっていった。急速とも思える変化は評議会との亀裂を大きなものにしていったが、分かりやすい敵がいることで団結は高まっていた気もする。
彼は、彼は変えたいと言っていた。それが自分の役目だろうからと。
だが、同時に守りたいとも言っていた。この世界を、この帝国を、この騎士団を、俺たちを。
その言葉に、俺たちは感動していた。騎士団をここまで変えていった人の信頼と期待。それに応えようとしていた。

全てが変わってしまった後も、そうだった。
一人だけ生き残った彼は、俺を生き返らせた。
生きる意味を見い出せず、死人だった俺を、あの人は気遣った。
あの時の俺には、何一つ届かなかった――だが、彼だってあの戦争で傷を負っていたはずだったのだ、体ではない、心に、だ。
何しろ――彼について行ったのだ。騎士団は。そうして壊滅した。彼の命令を素直に聞けば、防げたかもしれない犠牲だった。そうして、ある意味、彼が引き起こした事態でもあった。

彼は俺を気遣った。それは、彼が歪んでしまった後も、そうだったように思う。
以前よりも、酷く分かりづらくなったが、彼は俺を見ていた。そして、そして、生きてほしいと願っていたように、思う。

彼はとても優しい人だった。
だが、環境があの人を変えた。人を慈しんでいたあの瞳には敵意を、冷たさを宿し、そして世界を敵に回した。
嬢ちゃん――エステリーゼ姫を利用し、兵器を起動させた。
だがそれは、兵器ではなく星喰みという災厄を封印していた結界だった。彼の望んでいた展開は訪れず、星喰みの封印を解くだけの結果となったのだ。


そうして、彼はザウデに埋もれていく。
魔核の下から動かない彼は、ただ上を見上げていた。魔核など眼中にないとでも言うように、ただ天を仰いでいた。
自らの予想を大きく外れ、災厄を呼び戻すことになった結論に、自らへ嘲笑を送りはしても、ただ悔いの言葉さえも吐き出さなかった彼に、大きな違和感を抱いていた。
ずっと、ずっと望んでいたはずだろう。なのに、どうしてそんなにすんなりと受け止める?
このために、十年間、貴方は突き進んできたはずだ。悪行だって重ねて、俺を道具として使って、人さえ殺してここまできた。ドンだってその犠牲になった。

貴方の願いじゃなかったんですか、自分ですべてを制してしまおうとするほど、この世界の平和を願っていたのではないのですか。
優しい貴方が、その優しさを押し潰して、ここまで堕ちたのは、こんな結果の為なのですか。

俺をシュヴァーンと最後まで呼んだあの人は、俺を、最後で俺を見放した。
神殿で生き埋めにしたことじゃない――姫を拘束しているときに出会った俺に、戻ってこいと言わなかった。
そうか。とただ、納得しただけだった。
イエガーは、最後に俺たちの前に立ちふさがったが、留めを刺される寸前でゴーシュとドロワットと呼ばれる少女たちの手で救い出された。
“どうして?”
“どうして、俺たちは生かされている?”

もう彼にとって俺は不要な道具だったのか? イエガーの所の少女たちはイエガーの危険を察知してやってきたのか?


記憶が交差する。彼はいつまでも、どこまでも、どうしたって捨てきれなかった。
その優しさを、慈悲を――それは、ただの気まぐれだったのか? 計画を進めるにあたっての、彼の贅肉だったのか?
そんなもの、要らないはずだ。彼は完璧主義だった。この計画はそうでもないと進まなかった。
そうして、完成した。そして完結した。全てが無に還すという形で。

どこから、彼はどこから狂っていった?
理想のためには邪魔者の排除も許容した所からか。
本当にそこからか?
俺に、俺たちを心臓魔導器で生き返らせた時からか。
本当に?
――人魔戦争の時からか。

彼はあの戦争後も変わらなかった。騎士団長としてそこに在った。
生きる意味を亡くした俺を怒鳴った。彼は傷を負いながらも確固たる目標をもってそこに在った。
どうして?
あの戦争で、あれだけの部下を亡くして。どうして、そう在れる?
強いからだ。そして――あの戦争をすっかり忘れているからだ。
だって、そうでなくては、そうでなくては、普通の精神状態で在れるわけがないではないか。あの戦争は多くの人を大きく変えた。生き方さえも変えるものだったのだ。それなのに、彼だけが――前線で部下が全滅する様を見ていたあの優しい人が、あのままで在れるはずがないじゃないか。

記憶が飛び交う。背筋に悪寒が走った。
“何か”。何か、忘れている。
忘れてはならないものを、記憶の奥底へ忘却しているのではないか、と。
地面が揺れ、ザウデ不落宮が壊れ行く。地響きが、もう時間がないことを告げていた。
ユーリたちはもう非難を始めている。この場所へ長くいたら、ザウデの崩壊に巻き込まれるだろう。

――彼は、彼は動かない。
まるで足を縫い留められているように、その場から一歩も動かない。
全ての理想を裏切られたあの人は、どこも見ずに、ただ天を見上げていた。
その彼は、何かを抱擁するように、両手を天へと広げた。向かい入れるように。
それに、はっとした。彼は、何も見ていないわけではない。あるではないか、そこに。
巨大な魔核が、支えを失い、崩れ落ちようとしていた。

気付いた時には走り出していた。
全ての悪寒と直感に促されるように、本能に従うように。
喉が張り裂けるのではないかと思うほどに、叫んだ言葉は崩壊の足音にかき消され、伸ばした手は遠く。

それでも――彼は、大将は――アレクセイはこちらを見た。
両手は掲げたままで、少しだけ、ふと、振り返るように。

彼は、涙を流していた。
ザウデ不落宮を発動させたことで、世界へ災厄を再来させてしまう結果になったことを知った時でさえ、流さなかったそれは、一筋だけ彼の頬を流れて――アレクセイは笑っていた。
正気を失った狂気的な笑みでなく、嘲笑でもなく、ただ、うっすらと。
それが、今までずっと見てこなかった、あの過去の日のあの人に見えた。


「アレクセイーーーーー!!!」


魔核に呑まれ、砂煙に姿を消したアレクセイに、心臓が凍り付いたような、気がした。
まるで、とんでもない間違いを、犯してしまった、ような――そんな。




・エステル視点

「アレクセイ!」
「おや……エステルさん。どうしましたか?」
「いえ、あの。折角ですから、二人で話しませんか?」

旅をする中で、ようやくアレクセイも皆の中に溶け込んできたように思える。
アレクセイが生きていると分かって、レイヴンとユーリで彼を連れてきてから、やはりと言ってはしょうがないけれど、仲間たちは彼を歓迎しなかった。記憶を失っていて、無害な彼ではあったが、つい最近まで黒幕であり敵であった彼と仲良くしようとする方が無理なのかもしれない。
でも、記憶を失っている彼を責めることはできないし、彼を罰するのも今ではない。記憶がないのに罰せられても彼は納得できないだろうし、ならば協力してもらう方がいいのではないか。そんなことを思っている傍から、ヨーデルの手紙もあり彼は旅に同行することになった。
私は安心したけれど、仲間たち――特にユーリが警戒していて、記憶を失ってすっかり性格も様変わりしたアレクセイも戸惑っているようだった。
いや――様変わり、とは言ったけれど、彼は……根本的なところは、何もわかっていないように私には思える。
カロルやリタなどは、とても同じ人には見えないと言っているけれど、私は、とても昔に接していた彼が戻ってきたようにさえ見えていた。

だって、記憶にある彼は、とても――優しかったから。

引き留めたアレクセイは、少し困ったような顔をして私に尋ねてきた。

「私はいいのですが……あまり、仲間の方からは進められていないのでは?」
「えっ」

遠慮がちに問われた言葉は、予期せぬものだった。
確かに、私はアレクセイとはあまり一対一で会話をさせてもらえなかった。危ないからとか、変な知識を教えられてもいけないからと、彼と話すのは他の誰かがいるときだった。そもそも、彼には誰かしら監視のように近くにいて、一対一になる機会が少なかったことも理由の一つにある。
でも、今は違う。旅の中で、アレクセイにではないが、記憶を失った彼に対しての信頼は、確かに培われていた。
仲間を頼り、そして守ろうとする彼の姿勢は決して嘘ではなかった。そして騎士団長であったアレクセイと比べて、彼は嘘をついたりできない性質であることは、仲間の皆がもう理解しているのだ。

そうして、彼のするこうした気遣いが、彼を悪人ではないと思わせる一端となっていた。

「……いいんです。皆、もう貴方を疑ってなんていません」
「そう、ですか」

彼はどこか納得いかないような顔をして、それから頷いた。
こうした、確証がないような表情をすると、やはりアレクセイとは別人であるように思えてしまう。双子だったのだと言われた方がしっくりくると苦虫を噛んだような表情で言ったのは、ユーリだったはず。

備え付けられているイスに座るように勧めて、隣に同じように座る。
座高だけでも差がある彼と隣に座ると、まるで父と娘のような大きさの違いがある。
それに、話そうと考えていた昔のことが思い出された。

「それで、どうされましたか?」

ゆっくりと、歩調を合わせるように尋ねてくるアレクセイに、どこか安堵する。
彼は、記憶を忘れている。すっかり、まるで何も知らない子供のよう。ギルドがなんたるかも、帝国のことすらも知らない。
一からこの世界について教えていかなければ、本当に何も知らないでいる。
だからこそ、皆は信用していて、何も知らない彼にいろんなことを教えている。それに、一喜一憂する彼を見て、思い出していないのだと安心する。
でも、それではいけないのだ。
彼には、聞かなくてはならないことも、罰せられなければならない罪もある。
亡くなったと思われていたドン・ホワイトホースが生きていた。ベリウスの命と引き換えに、その命を差し出したはずだった。けれど、寸での所で何者かに拉致されたのだ。そして数日後に発見されたのは大森林に残された大量の血とドンの愛用の武器だった。その場に残された武器や状況から、戦士の殿堂(パレストラーレ)の者たちが行ったのではないかという推測がなされたが、真相は闇の中だった。
しかし、私たちがアレクセイと対峙した際に、彼は確かに言ったのだ“ドン・ホワイトホースは私の手で葬った”と。
その言葉は、確かにそうであれば辻褄はあった。突然消えたドン・ホワイトホース、そして彼が死ぬことで利を得る人物。そしてそれを行った人物をパレストラーレに押し付けることによって、更に天を射る矢(アルトスク)との歪を大きくする。

でも、ドンは生きていた。
大森林に潜むような形で、そしてそれをある人物に諭されたのだと。
その人物はフードを被り、ドンに様々な事の真相を伝えた。
そして懇願したのだそうだ。この事態を収めるために、どうか身を隠してくれないかと。それが一番良い結果に繋がるのだと。
ドンもそんな世迷言に頷こうとしなかったそうだ。でも、その人物が言った言葉に動かされた。
“ベリウスは生き返る。もう少しだけ死ぬのを待っていてはくれないか”。確証も何もない言葉で、確かにドンはベリウスの聖核を見て、彼女が死んだことを知っていた。それでも、その人物の言葉には、強い力があったそうだ。
だから、彼はその言葉を信じて身を隠した――裏で自分が殺されたことになっていることを知らずに。

そしてドンが生きていると知ることになった。でも、ドンが生きていると知っているのはまだ少数だ。
しかしエアルを制御する方法として、予想外に聖核によって生み出された存在、精霊。
ベリウスがウンディーネとして生まれ変わった今――ドンを説得した人物が口に出した“生き返る”という言葉は確かに間違ってはいなかったかもしれない。

しかし、それでは矛盾が出てくる。
アレクセイは確かに“私の手で葬った”と言ったのだ。だが、ドンは生きている。ユーリたちを絶望させるためにそう嘯いたのかもしれなかったが、既に誰かの手で殺されていると思われていたドンに関する情報において、そこで余計に口を出す必要もない。

エステルは首を振る。今はその話をする時ではないのだ。
何も覚えていないアレクセイにその矛盾点を突きつけたとしても、何も出てこない。この不可思議な点については皆訝しがって、誰もがアレクセイに事の真相を聞きたがった。でも、当の本人はそれを知らないのだ。尋ねるわけにもいかない。

頭を振ったエステルに、どうしたのかと視線を向けてくるアレクセイに、エステルは何でもないと言って微笑んだ。
そして、話そうとしていた内容を口に出した。

「昔の話をしようと思いまして」
「昔の話、ですか?」

目を瞬かせたアレクセイに、エステルは頷いて説明する。

「失った記憶は、昔のことを見聞きしたりすると思い出すことがある、です。ですから、私と過ごした頃の話をすればアレクセイの記憶も戻るのではないかと思って」
「私とエステルさんが、昔会っていたことがあるんですか?」
「はい。昔、と言っても何十年も前のことですが、アレクセイは私のことを守っていてくれた時期があったのですよ」
「守る……」

ピンとこないらしいアレクセイに、幼いころに城を守護してくれる騎士としてアレクセイが付いていてくれたことを話した。そうした城を守る騎士がいることも。
それを聞いたアレクセイは、そうなのですか。と何処か他人事のように呟いた。それもそうだ。記憶がない人に昔こういうことをしていたんですよ。と教えても、実感が沸くわけがない。
それでも、どこか寂しさを感じて、エステルは無理やり笑顔を作った。

「私、小さい頃はよく騎士の方々に話しかけたりして、困らせていたんです」
「あまり想像がつきませんね」
「ふふ。今でもフレンに話しかけたりしていましたね」
「それは……変わっていないんですね」

苦笑いを浮かべるアレクセイに、そうかもしれません。と返した。
懐かしさがこみ上げるようだった。そう“昔も”こうして喋ったものだった。
本を片手に、これはなんでしょうあれはなんでしょうと尋ねる私にきちんと返してくれたのは彼だけだった。
今よりもちょっと硬くて、呼び方は“姫様”だったけれど。

「昔も、こうして話していたんですよ……」
「騎士の方とですか?」
「……ええ。アレクセイという人と」

そう言えば、隣の彼から言葉が止まった。でも、続けて口を動かした。

「とても優しい方で、知らないことがあったらなんでも教えてくれました。仕事熱心で、騎士の鏡のような人でした」
「……そう、なんですか」

色々な思いが込められたような返事に、思わずそちらを見る。
アレクセイは、彼は、とても優しい人だった。それは、本当のこと。
笑顔が朗らかで、子供相手にも面倒だと思わず相手をしてくれて、色々なことを教えてくれた。
時には、周囲の大人が教えてくれないことだって教えてくれた。貴方にはきっと必要になるからと、色々なことを知ってほしいと、親のような表情で言っていたことを、覚えている。わがままを言った私にしょうがないと笑いかける顔を、覚えている。
暇ではないのかと尋ねたら、姫様と話せる機会が巡ってきて嬉しいぐらいだと返されて、嬉しくて抱き着いた思い出だってある。
アレの、全てが嘘だったなんて思えない。だから、アレクセイは変わってしまったのだと思った。何か、彼を豹変させるような出来事があったのだと、そうして帝国の、世界の未来を憂う余り悪の道へ進んでしまったのだと。

思い出して欲しかった。
悪行を重ねた記憶だけでなく、そうやって優しさがあった日のことを。

そうすれば、そうすれば、きっと――

「――エステルさん」

彼は、どこか沈痛な面持ちをしていた。
それに、思わずハッとする。私の変化に気付いた彼が、その面持ちを緩ませて、小さく微笑んだ。
その顔は、見たことがあった。しょうがないという、優しい、笑みだった。
彼は、そう言う笑みを見せた後には、必ず私に教えてくれた。

それは、ダメな事なのだと。それは、してはいけないことなのだと。

「アレクセイ――私が、どれほど過去に善人だっとしても、断罪されなくてはならない。例え改心したとしても、行ってきた事に対し、相応の罰を受けるべき人間である。……分かって、いますよね」
「……わ、私は」

言葉が継げない私の手を、彼が優しく包んだ。
大きくて、暖かい手だった。

「大丈夫です。すぐに、終わります。……すぐに、貴女の前からも、いなくなれますから」

その眼は、私を見ているようで、遥か彼方を見つけているようだった。
それに、胸が締め付けられるようになって、彼が何を言いたいのかが全く分からなくなった。
暫く見つけていれば、アレクセイは何か気付いたように目を瞬かせて、驚いたように触れていた手を離す。

「あ、あれ? す、すいません。エステルさん。何言っているんだろう、私は……」
「アレクセイ……?」
「ああ、エステルさん。すいません、なんだか、無意識だったみたいで……気にしないでください」

困惑したようにそう取り繕う彼は、本心でそう言っているようだった。
自分の言った言葉が理解できないように首を傾げている。
あの遠くを見つめる瞳もなくなり、いつも通りの彼に戻っていた。
いつも通りの彼――それは、いつの彼だろう。今の、記憶を失っているアレクセイだろうか。なら――なら、記憶を失う前は? 私を拘束し、偽剣を持って世界を正そうとしていた彼の瞳は、どこを見ていた――?

彼が咄嗟に離した手に、手を伸ばした。
恐る恐る伸ばした手を、彼は拒否しなかった。戸惑った風にしながらも、受け入れるように手を差し伸べた。
それにふれて、その暖かさを感じる。何も、変わらない。ただその手には、見える傷跡が増えたような気がした。

「アレクセイ……」

先ほど彼が言った言葉は、その通りだった。
彼は罪を受けるべき人間で、それが変わることはない。
この旅も、いつまでも続いていくわけではない。星喰みは待ってくれない。世界が災厄に飲み込まれる前に止めなくてはならない。
そうしたら。そうしたら、アレクセイはいなくなってしまう。罪を受けるべく、エステルの前からいなくなるだろう。
あの言葉は、彼の深層心理を表した言葉なのかもしれない。戯言を述べるエステルに、昔のように忠告したのかもしれない。
でも、ならばなぜ、自分からエステルの前から消えたがっているように話したのだろう。

彼は。
彼は、罰を受けたがっているのだろうか。
無意識に、そう、願っているのだろうか。

「エステルさん?」

気遣う彼の声が聞こえる。
でも、私は彼の顔を直視することが出来なかった。
心配げな瞳を、見返すことが出来なかった。

私は――私は彼を救いたいと、思ってしまっている。
けれど、それは出来ないことで、してはいけないことだということも、分かっている。
でも――でも、彼が。
彼が、救われたくなどないと、罰を受けたいと思っているのならば。

それはとても、とても、悲しいことなのではないか、と。
だって、彼の望む罰の形は――。

何も言えずに握りしめた手は、やはり、気遣わし気に私の手を優しく撫でた。



・レイヴン視点

そういえば、彼の好きな食べ物の一つも知らないことに、旅をしている中で漸く気付いた。
十年間、懐刀として近くにいたはずなのに、そんなことも知らなかった事実に驚愕して、そして納得した。
俺とあの人の立場は主と道具。不必要な会話は必要なかった。
でも、そんな会話一つしなかった自分の無関心さに愚痴を吐いた。

「アレクセイはさ、何か好きなもんとかあんの?」
「私ですか?」

旅の中で自炊することなんて何度もある。
今日は俺が料理当番で、アレクセイが補助をしてくれることになっていた。
こうしてこの人と食事を一緒に作る機会が回ってくるなんて、今まで考えたこともなかった。
どこか申し訳なくて、待っててもいいのよ? と提案したら、手伝わせてくださいと言われてしまって、苦笑いだ。
そんなことを言うアレクセイにも、そうやって気を遣ってしまう自分にも。

アレクセイは一つに縛った髪の毛を少し揺らし、考え込んだ。

「……甘いものが、好きですね」
「甘いもの!?」

に、似合わないし、俺の嫌いなもの!
思わず包丁を取り落としそうになれば、複雑そうな顔でアレクセイがこちらを見る。

「いいじゃないですか……思い浮かんだのがそれだけだったんですよ」
「思い浮かんだのが、ねぇ」

なら、好きだと決まったわけじゃない。
ここで、記憶喪失はそういった記憶まで一緒に掻っ攫っているのだと気づいて、口が止まった。
いろんな記憶が吹っ飛んで、そうしてようやくここまで話せるようになったなんて、皮肉だな。

包丁で食材を切りながら、アレクセイに言った。
出来なかったことをやろう。そう、思った。

「今度、甘いもの作るよ」
「え?」
「俺様が作るんだから、すごーく美味しいわよぉ」

そう言ってニッと笑いかける。
アレクセイは少し黙ってこちらを見つめると、ふ、と笑った。
それは、十年以上前に、よく見たことがある笑みだった。
思わず見つめていれば、アレクセイは、でも。と反論する。

「レイヴンさん、甘いもの苦手じゃないですか」
「――えっ、なんで知ってるの?」
「分かりますよ。一緒に旅をしていれば」

当然のように言い切ったアレクセイに、ポカンとする。
だって、自分はアレクセイがどれが好きだとか、全然わからなかった。嫌いなものもなさそうだし、殊更何かを好きだと主張していた記憶もない。それなのに、自分の嫌いなものは知っていたというのか。
見つめる俺に、アレクセイは説明を追加する。

「食べるときに遠慮したり、嫌がったり、言葉の中で甘いものが出てきたり。その反応を見て、なんとなくですけどね」

なんとなくというけれど、合っているのだからしっかりと見ている。
そして、そこまで分かるなんて、良く人を見ている証拠だった。
俺は、ずっと一緒にいて、一つも知っていることなんてないのに。

「皆さんの好き嫌いも、少しですけど把握してますよ」

合っているかは、分かりませんけどね。
そう付け足したアレクセイに、知ってどうするのかと聞いてみる。
そうすれば、自分が作る時に参考にするのだと帰ってきた。
メンバーの好き嫌いを把握して、わざわざそれを考えて料理を作る。
細かくて、面倒で。
でも、人をちゃんと見てないとできない芸当だ。

「よく、見てるんですね」

そういえば、笑みが帰ってきた。柔らかな笑みだった。

「少しでも美味しいものを食べてほしいですからね」

その言葉に、どんな顔をしていいか分からず頭を抱えた。





・レイヴン視点

「その時に、レイヴンさんが何を言っても、何も変わらなかったと思いますよ」

そう気遣わし気に出された言葉に、その言葉を受け取った本人は硬直した。あの時――そう、あの爆破事件が発生し、シュヴァーンが床に臥せているアレクセイと顔を合わせた時だ。アレクセイは、そこで選択をした。小さく、しかし重要な選択だったはずだ。
今まで少しばかり王道とは外れた手段を講じていたとしても、あの日を境に違ったはずだ。
だから、爆破に巻き込まれ新しい芽を摘み取られ、心身ともに傷ついたはずの彼に、その一歩を止めるための言葉をかけられたのならば。
そう思って、その悔いを、何も知らないはずの彼に零してしまっただけだったはず。
それなのに。

「あれ、くせい」

彼から言われた言葉が信じられなくて喉が詰まる。
アレクセイである彼は、しかし記憶を無くし、自分のことはもとより、この世界のことさえすべて忘れてしまっているはずだ。
なのに、どうしてここまで的を得たことを言うのだろう。
アレクセイの話であるともいわなかった。ただ、自分の過去の話をポツリと口に出しただけだったのに。

言葉が出ないレイヴンに、アレクセイは小さく目を細めて付け足した。

「そういう人は、最初からそうだったって相場が決まってるんですよ。最初からそうだった。だから」

――そんなに気にしない方がいいですよ。

柔らかな表情は、しかし他人からの昔話を慰めようとしているようで、困ったように眉が下がっていた。
その表情が本当に何も知らず、本心で語っていると嫌が応にも理解してしまう。

「レイヴンさ……え?」
「……」
「えっ、あ、え、」

レイヴンの目に、アレクセイが似合わない顔をして動揺している姿が映る。しかしその姿も霞んでぼやけて、輪郭が曖昧だ。
そんなレイヴンの様子に、アレクセイは一通り当惑しきった後に、その手をレイヴンの目元へ伸ばした。

「な、泣かないでください。すいません、何も知らないのに好き勝手言ってしまって」

違う。好き勝手言ったのは自分だ。
そうレイヴンはぽっかりと空いた心の中で思う。勝手にアレクセイの心中を想像して、そうして自分だったら助けられたのではないかと身勝手に思った。
そして、それを本人に否定された。そんなことをしても無駄だったのだと。お前の声は届かない。届くわけがない。だって、最初から“そうだった”のだから。
アレクセイは――記憶を失った彼は、時折覚えているかのような言動をとる。帝国の未来を憂いたアレクセイとしての言葉を、思い出したかのように発する。その時だけ、そのアレクセイが言葉を借りて喋っているかのように、真実を述べてレイヴンを打ちのめすのだ。

――俺には、大将は救えなかった。どう、足掻いても。
そもそも救おうとさえしなかったのに、どんな傲慢だろう。救おうとしていても救えてなどいなかったという事実を突きつけられただけで、この様だ。

「(それでも、それでも、救いたかったんです――)」

心臓魔導器を埋め込んで、生きろと告げた彼を、命の恩人を、新たな命を埋め込んだ貴方(神様)を。

歪んでいった貴方を救えた時は、いつだったのか。
いつ、己は間違ったのか。
理想を追い求め、貴族も平民も、なんの垣根もなく手を差し伸べていた貴方が、変わってしまった原点は――


――いいや、覚えている。
レイヴンは知っていた。その瞬間を知っていた。
しかし、忘れていた。意図して、無意識として、忘却していたのだ。
だってそうでなければならなかったから、そうでなくては、ダミュロンという人間はアレクセイを認められなかった。

人魔戦争で、アレクセイは騎士団と一丸となって魔物たち――エンテレケイヤと戦った。そうして騎士たちは散っていった。アレクセイが希望と、宝と評したそれらはまるで塵のように吹き飛んだのだ。
そして最後に残った塵は見た、全ての宝と呼んだ塵が吹き飛ぶその瞬間に――確かに絶望したそのアレクセイの表情を。
まるで全てを奪われたような面持ちだった。最後の塵が、エンテレケイヤの体毛の槍によって心臓を突かれた瞬間、その瞳は漆黒の闇に塗りつぶされていた。


ボロボロと流れる涙に、どうして自分が泣いているのだと自嘲した。
涙を流す資格などないというのに、彼が記憶を失ったのは、彼が片目を失ったのは、彼が引き返すことが出来なかったのは、彼をここまで傷つけてしまったのは、自分も元凶の一つとなっているだろうに。
それでも、涙が止まることはなかった。
レイヴンの涙を当惑しきって拭うその人を見ていたからだった。

「レイヴンさん……」

手が濡れていくのを気にもせずに、滴を拾っていくその人は、どこまでも純粋で、何も知らないようだった。
その人の中に、記憶を失うという形で封印されているとはいえ、あのアレクセイがいるのだと思うだけで胸が締め付けられる。
いいや、彼も、彼自身、全てがアレクセイだ。
記憶を失ったのも、こうして世界を救うために尽力しているのも。

暫くすれば、二人の異変を感じ取った者たちが集まってくる。
泣き続けるレイヴンに驚くものや、どうしたと事情を聴くもの、アレクセイに厳しい目を向ける者などいたが、その全てに口を閉ざし、レイヴンはただ離れようとしたアレクセイの服の裾を掴んでいた。
涙は止まらず、後悔にいつもの軽い言葉さえ紡げない。
それでも、貴方には行ってほしくなかった。何もできないのは知っていた。迷惑をかけていることも分かっている。でも、それでも。

「(ごめん、ごめんな、さい)」

口に出す資格がないことは分かっている。
それでも、それでも。
貴方を――あの、絶望を映した姿を――救いを求めていたはずの貴方を忘れてしまった罪を。誰か、罰して。



・主視点

やばい。
レイヴンさんの様子がおかしい。
いや、彼の様子がおかしいのは思い返してみれば最初からだ。出会った当初から彼はお調子者っぽかった。でもどうしたことか私と関わるとえらく硬くなったり敬語になったり猫背の背筋を伸ばしたり、通常とは異なる対応を見ていたように思える。
だが、最近はそういったことは少なくなってきていたはずだった。いわゆる慣れというものだろう。私がではなく“彼”が、ではあるが、ようやく私がアレクセイという人物本人ではないことを体でも覚えたのだろうと思っている。
それはいい。それはいいはずなんだけど、レイヴンさんと深い話をする機会があったのだ。と言っても色々ぼやかされていて、人名などははっきりとはしなかったけれど、色々と相談してくれたのだ。
私はそれが嬉しかった。なんか重いなーと思ったのも事実だけど! だけど、やはり信頼してくれてるのかなーとか、ほかのメンバーはまだやっぱり警戒しっぱなしだし、こうして少しだけ重い話をするのもいいよなーとか思ってたんだよ!

確か内容は、自分の元上司が過ちを起こしてしまった。でもそれを止める機会が自分にはあった。彼が深く傷ついて、傷をいやしている時だった。そこで自分が彼を止められていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。
そういったことだった。それが妙に今の状況と合致しているような気がしてなんとなく嫌な予感もしたが、きっととても昔のことなのだろう。と高をくくって私なりの本心をぽろっと告げたのだ。

過ちを犯す人間は、どうあがいてもそうなるのだから、レイヴンさんが言ったところで変わらなかったろうから気にすることはない。と。

なんというか、こんなに自分の考えは尖っていただろうかとも口に出してから思ったが、それでも本心なのだから仕方がなかった。
突然の重い悩みに、自分なりに出した答えのはずだった――そこに、解せない違和感がなかったかと言われれば、嘘になるのだが。
……なんだろうなぁ。この体に引っ張られてるのか。いまいちよく分からない。ただ、理解できるのは過ちを行った人物は即ち罪人という事だ。そこに如何なる事情や信念があったとしても、拭い切れない罪。それは背負わなくてはならない、罰せられなければならない。
その罪が重ければ重いほど。それは当てはまる。
唯一当てはまらないのは――純然なる人助けだった場合だろうか。
そこら辺はいまいちはっきりしない。ただ、レイヴンさんが例に出した人間は、例外には絶対に当てはまらないのだと思ったのだ。

そうしたら、うん。
泣かれた。
まさか、泣くとは、本当に思ってなかった。
視界に収めた瞬間は、理解できなくて、呆然として、それからめっちゃ慌てた。
だってほんと……泣くとは。
彼が泣いてるのを見て、飛び上がるほど動揺した。強い罪悪感とどうしようもない焦燥感で冷や汗が噴き出るようだった。
それと同時に彼も泣くのだと――泣けるのだと思ってなぜか嬉しくなってしまった。

……もう自分がドSなんじゃないかって疑うよね。そんなわけないはずなんだけど。

それで、謝罪しながら、流れる涙をどうすることもできずに拭い続けていたらほかの面々も集まりだして、非難の目を浴びたりするし。いや、純粋に私が悪いんですねすいません。
他の人たちが来たから、泣かせた元凶の私はいない方がいいのかと距離を取ろうとすれば、レイヴンさんに裾をつかまれて離れられないし。

その後はどうにか泣き止んでもらって、そのままベッドで休んでもらうことになった。世界救済の旅だ。疲れもたまっている――ということにしておいた。
きっと、切っ掛けはさっきまでの会話だったのだろうとは思う。思うが、それを解き明かそうとは思わないし、言ってしまえば、興味もない。
興味を持ってはいけないのだろうという意味もあるが、本当に沸かないのだ。好奇心のかけらも出てこない。重い話である為かもしれないが、なぜかそこだけぽっかりと穴が出来てしまったように関心が沸かない。
まるで、知らなくてもいいのだとでも言うように。

……まぁ深く考えるのはやめよう!
ローウェル君たちは気になってるみたいだが、そうそう人の深部を覗き見ることはしない方がいい。後悔することだってあるだろう。
だから私はのぞき込まない。彼の涙が“アレクセイ”というこの体の主に関係していたとしても。それを解明することが、体を使わせてもらっている私の役目かもしれないとしても。

――そうではないと、心のどこかで誰かが叫んでいるから。


どうしてだろう。
どうして、ここまで全く興味が沸かないのか。
それを、考える気も起きない――。
まるで、思考停止――死んでいるかのようだ。


「捕虜さん」
「ジュディスさん」
「おじさまの傍にいなくていいの?」

船の上――というか、ある意味空の上ではあるのだが――バウルというエンテレケイヤによって宙に浮く浮遊船で、バウル……さん? の相棒であるジュディスさんに話しかけられる。
彼女も最初は一定距離を開けて接していたのだが、今ではその距離もあってないようなもの。嬉しいやらもっと警戒していいんだけどな。なんて思いながら――だって私は大罪人のはずであるし――ジュディスさんはその美しい顔に笑みを浮かべながらそう尋ねてきた。
それに、どう返していいものか悩む。
そもそも、私が傍にいても意味はない。彼は泣き疲れて眠っているし、体調が悪いわけではないから近くにいても無意味だ。
自分でも冷たいとは分かっているのだが、なんとなく、心情的にも近くにいる気になれない。

レイヴンさんは、私がいると調子がおかしくなる。
ふと言葉を止めたり、悲しげな瞳をしたり。中途半端に元気な風を装ったり。そうやって彼を苦労させるぐらいなら、近くにいない方がいいのではないか。

――いや、そんなのは私の言い訳だ。
私なんかがいても、意味がない。そう、思ってしまうのだ。
むしろ傍にいることが苦痛でさえある。
だから、近くにいたくない。居られない。

「ゆっくり、眠ってもらった方がいいと思いまして」
「そう」

口から出たのは本心とは異なる都合のいい言葉。
でも、本心を言って何言ってんだこいつ。なんていう目線をもらうよりはマシだろう。
ジュディスさんは、小さく相槌を打って、空を見つけていた。

「捕虜さんは」

視線を空へ向けたまま、ジュディスさんが言う。
それに、私も空に視線を向けて聞いた。
小さな間があって、彼女は続けた。

「世界が無事に救われたら、どうするの?」

その問いに、そうか。その後があったのかと思った。
ひたすらにただ前を見て歩くことしかできない私にとって、この旅の終わりのその後など、考え事もなかった。
いや――まるでそこから先が崖になっているかのように、思考が掻き消えていた。

その事実に気付いて、考えてみる。
世界が無事に救われた、その後。

考えて、到達する点が一つしかないことに気付いて、眉を顰める。
これは……なんというか、口に出していいものか。
ここにいる人間は、既に全員気付いていてもいいだろう未来だ。だが、確定ではない。でも私にはそれしか想像がつかない。
戸惑って、しかし隣から何も声が聞こえずに、ちらりとそちらに視線を向けた。瞬間見なければよかったと後悔した。
空を見ていたはずのその眼は、しかとこちらを見つけており、嘘や虚実を述べることを拒否していた。
……これは、誤魔化せないパターンですね。分かります。
眉間にしわを寄せて、しかし変わらぬ視線に、とうとう観念した。

「罪を償うのではないのですか」

“アレクセイ”は罪人だ。その罪は、償われなければならない。
レイヴンさんと話した時のことが思い出される。“罪人は、断罪されるべきだ”“どんな理由があろうとも”。
私が憑依した人間であったとして、それがどんな理由となるだろうか。この身が大罪人であるという事実は変えられない。変えるべくもない。
なんというか、憑依なのに。という理不尽感はあるものの、それを理由に償いを受けない気はさらさら起きない。
なんでだろう。おかしいな、普通は理不尽だと憤慨するところだろうに。と思うのだが。
ジュディスさんもそう思ったのか――といっても彼女にとっては記憶を失っただけの人間だが――目を細めた。

「でも、貴方には記憶がないじゃない。なのに、償うの?」
「……ええ」

そうだ。私は、償う。
そうでなくはならない。そうあることを、望んでいる。

「全ての咎を、ようやく清算できる」

この命だけでは足りないかもしれないが。
聞けばアレクセイという人間はその地位を利用して多くの事件を起こし、手下を使い多くの人々を苦しめてきたらしい。
そうして最後には帝都と呼ばれる都市を壊滅させ、更に世界征服をしようと兵器を起動させた結果、星喰みという災厄を出現させてしまった。
そんな大罪人の行いに対するものが命一つというのもなかなかに安いものだが、それでもその命は動いていてはならないと強く思う。

そうして、そうあってほしいと願う。

ああ、しかし思うのは。

「――ザウデで死んでいれば良かったのに」

悪人は死んでしかるべきだ。
役目を終えた道化はいなくなるべきだ。
どうして生きているのか。
命を終えさせる最後のひと振りを、他人に押し付けることになるとは、最後まで罪人は人の手を煩わせる。
死ねばよかったのに。

本人(アレクセイ)も、そうであることを望んでいただろうに。

「……あ」

自分の考えていることが、どうにもすっとんきょんであることに気付いて声が出た。
自分勝手すぎる持論を繰り出し過ぎて、意味不明なことを口走っていたことに漸く気付いた。

「すいません。変なことを言って」

いきなり――彼女にとっては――記憶を失っている犯罪者があの時死んでればよかったのに。なんて言ったら、気分が悪いだろう。
逃げのように聞こえるし、実際そうだ。それに生きている人間に、自殺願望めいた言葉を聞かされてもいい気分には絶対にならない。

「ええ、ほんと」

ジュディスさんもやはりそうだったようで、くるりと背をこちらに向けて、そう返した。
なんと言ったらいいか困っていれば、ジュディスさんは振り返らずに言葉を投げかけた。

「……もう、二度とそんなことを言わないで」

投げかけた言葉をそのままに、彼女は歩き出してしまった。
もう話すことはない。そう背で伝えているようだった。
それに、しかし言葉を投げかけたくなってしまった。

だって、

「最後には、そうなるだろう?」

変えられぬ顛末だ。
それから、目を背けていても、結論は必ず来る。
来なくてはならない。
そうならない未来があるのなら。

「(私が壊す)」

そんなふざけた未来を。
心臓が機械の――残された体を。


――私、こんな思考回路してたっけ。
余りにも以前と異なる考え方に、訝しがる。そもそも――以前とはいつのことだろう。少女として生きていたころ? そうだろう、寧ろ、その時期しかないじゃないか。
この体に入っている影響なのだろうか。思考も記憶もなんだかおかしいような気がする。
まるで、何かの思考に引っ張られるような。何か、記憶の辻褄が合っていないような。
でも、それを解明する気も起きない。
何か、どこか――可笑しい気がするのに。
罪人、レイヴン、記憶、死、アレクセイ。
大きな何かを取りこぼし、そうして何かを掴み損ねている。そして、それを掴むことを恐れている。
そうしてしまった瞬間に――全てが打ち砕かれるような――まるで、正気を保っていられないような。
そんなこと、滅多にあるわけがないのに。


「はぁ」

着いたため息は、甲板へと消えていった。


・主視点

「ブラストハート!」

そう叫ばれた言葉と、光輝いた彼の胸に、目を見張った。
頭を殴打されたかのような衝撃が走り、敵は彼のその攻撃によって全て打倒されたというのに、脳が揺さぶられるようだった。
周囲を敵に囲まれて、危ない場面ではあった。拙い私の戦闘技術も相まって、怪我を負いかけた。
ちょうど彼の技がなければ、今頃腕は血まみれだったかもしれない。
助かった。それは確かだった。

「ちょっとおっさん! 何心臓魔導器使ってるのよっ!」
「えー、ちょっとぐらい、いいじゃないの、よ」

使用した技について、問い詰めるモルディオさんと軽口を帰しつつ、胸を抑えてどこか苦し気にするレイヴンさん。
それに頭がぐわんと揺れた。

「た、大将?」

久方ぶりに呼ばれたその名称も、気にならなかった。
気付けば、彼の手首をつかんでいた。驚いて瞠目するレイヴンさんを見て、胸が締め付けられるようだった――この体にそんな部分はないはずなのだが。

「さっきの、技」
「あ、あぁ。大将……じゃなくて、アレクセイは知らないんだもんね。あれは――」
「使わないでください」
「へ」

固まるレイヴンさんに、自分でもどうしてそんなことを言ったかわからなかった。でも、それでも。

「もう、あんなことしないでください」

分からなかったけれど、言わなくてはならないと思ったのだ。
あの光を見たとき、怖ろしかった。
彼の命が霧散していくように感じられた。あんなもの――もう、見たくない。それが、命を守る為であっても……彼の命が削られては、意味がないじゃないか。
どうしてこんなに必死になっているか、自分でもわからないままに懇願した。

「どう、して?」

自分の中にあった問いと同じことを尋ねられて、眉を顰めた。
分かったら、苦労してない。
なんでなんだろう。私の中で、レイヴンさんはそんなに大事な人になっていたのだろうか。そもそも、あの技が本当にレイヴンさんの命を削るものだと分かったわけではない。でも、あの魔導器に詳しいモルディオさんが怒っていたのだ。きっと、そうだ。
そうであると理解したうえで、どうして私はここまで怖がっているのだろうか。どうして、どうして。

「……先に、行ってます」

答えは出なかった。答えなんてなかった。
理由は底に埋まっていて、掘り出すことなんてできなかった。
したくもなかった。



「アレクセイ。なぁにしてんの」

掛けられた声に顔を向ける。
そこにはレイヴンさんがいて、調子は悪くなさそうだ。
戦闘後に苦しそうに抑えていた胸も、大丈夫そうだった。
何をしている。と聞かれると、酒場で酒も飲まずにいる。というのが正解である。かなり自由な行動を許可されるようになって、初めて行った単独行動かもしれない。
勿論ラピートには報告してきた。なんとなく彼には伝えておいた方がいい気がしたのだ。

「少し、一人になりたくて」

一人になりたい理由は、自分でもよく分からなかったが。
……この体になってから、分からないことが多い。
そのどれも、考えるだけ無駄だと切り捨ててはいるのだけれど、ああして行動にまで移してしまうと、どうしようもない。

「すいませんでした。あの時、いきなり腕を掴んだりして」
「……いいのよ。隣、座っていい?」
「ええ。どうぞ」

テーブルにレイヴンさんが座って、一人寂しい酒も飲まない酒盛りは、少しだけ寂しくなくなった。と言っても、どこか冷めた雰囲気は変わらないが。
彼は酒を注文し、すぐにやってきたコップを片手に持った。

「……アレクセイはさ。どしてあんなこと言ったの?」
「どうして……」

口に出したからには、行動に移したからにはそれなりの理由が必要だ。理由があったからそうしたはずだ。だから、レイヴンさんは私に尋ねている。
その理屈は分かっていても、出せる言葉がなかった。
明確な理由がつかない。表せる言葉は限られる。

逡巡して、自分に出せる言葉だけ出すことにした。沈黙するには、彼には無礼を働きすぎた。

「あの光が……命を削っているように見えて」

嫌だった。やめてほしかった。
だが、“どうしてやめてほしかったのか”と問われれば、答えられない。
理由が靄に隠れ、見えない。

「心配してくれた、ってことでいいのかね」
「そう、かもしれませんね」

レイヴンさんの言葉に、小さく頷く。
そうだ。確かに“私は彼を心配してた”。どうしようもなく心配で、死ぬんじゃないかと恐怖した。
“それだけは”
“それだけは、嫌だ”と。

「……ありがと、アレクセイ」

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bkm