- ナノ -

命令C
ありえない。
そんなわけがない。
だって彼には帰る場所がある。待っている子供達がいる。
お前は生き残った。生きている。イエガーとして、新たな居場所で。
それなのに、どうして、なにをしている。なにを馬鹿なことをしているんだ。
そんなものを持ってきて、そんな過去を引き摺り出して。
なにがしたい。なにを、言わせたい。

「──ハッ、馬鹿げている。この期に及んで、存在しない真実を知りたいからとその命を投げ出すのか」
「ええ。真実のためならば、彼女も分かってくれるでしょう」
「その彼女はもう死んでいるな? その為に、命をかけるなどと」
「彼女はもうかける命がない。ですから、俺がかけるんです」

ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな。
馬鹿も休み休み言え。なんだ、彼女のために命をかけるのか。死んだ者が知りたがるからと? 馬鹿らしい、そんなもののどこに価値がある。そんなものは意味がない。無意味だ、無価値だ。そんなもののために今ある命を投げ出すというのか。
だめだ、落ち着け。落ち着け!
乗せられるな、相手の思う壺だ。口を慎め、頭を動かせ。
圧迫される肺を、気取られぬように言葉を吐き出す。
首筋に汗が伝った。

「今更、裏切り者の貴様が命をとしてどうなる」
「……」
「お前はザウデで死ぬはずだった。駒としての役目を終えてな」

生きていること。それが不義理だ。
そう、アレクセイ騎士団長からすれば、イエガーはただの裏切り者だ。
ユーリ・ローウェルたちを逃した。ずっと殺さずにいた。駒でさえない。

「ですが、貴方はそれを赦した」
「なに……」
「俺が生きることを、裏切ることを。貴方はそうあるようにした」

自意識過剰だな。ありえない。この私が、役立たずの駒を生かすなど。
そう、口を動かそうとして、息が止まった。
彼が、一つ装置を動かしたからだ。
ああ、ああ、ふざけるな。ふざけるな、

「せんなきことを。そうであったとしてどうなる。ただお前は死ぬことすらも命じられなかった無意味な駒だったということだ」
「ええ。そうであったかもしれません。そうであるとさえ思いました」

なら、ならどうしてその手を止めない!
もう動かすな、それ以上装置を触るな!
なぜだ、なぜ周囲は止めない! 今ここで死のうとしているんだぞ!
あれが作動してしまえば、心臓魔導器の動きは止まる。もう再び動かすことはできない。本当の死だ。元には戻らない。
考えろ、考えろ! なにを言わせたい、どうすればいい。
納得させろ、その手を止めさせろ。馬鹿げたことを──!!

「ならなぜ馬鹿げたことをする」
「そうでない可能性が、確かに存在するためです」
「それだけのためにか? お前は未だに、死を望んでいると?」

そんなわけないだろう。庇護するものたちがいるだろう。
死んだら泣いてくれるものたちがいるだろう。
いい加減その手を止めろ、私を見ろ。視線を戻せ。それに触るな。

──いやだ。

彼はオモチャを弄るように装置の手順を進める。
それほど長い手順ではない。いざとなれば、すぐにでも行えてしまう。
滑らかに進んでいく、

「いいえ。もう、死にたくはありません」
「矛盾があるな」
「ですが」

彼は一瞬こちらを見やる。その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。

「貴方のためなら、死ぬことができます」

──やめろ。

その視線が、再び装置へと戻る。
手順は残りわずかになっていた。

──やめてくれ。

どうしてだ。どうしてそんなことを言う。
何にもならない、お前が得るものなど何もない。彼女はもう死んでいる。真実はつたわらない。何もかもが解決したはずなのに。お前を待っているものがいるはずなのに。
私のために、死んでもいいなどと言う。

「……ふざけているのか」

震えるな、動揺するな、だめだ。冷静になれ。
死ぬはずが、死ぬはずがないだろう。私のためなんかに、死ぬはずが。

十年前の、あの時のようなことが、もう、起こるはずがないだろう。
私は正しくなくなった。彼らは死よりも酷い仕打ちを私から受けた。
全てが変わった。あの日、あの時、あの空間ではない。

ない、のに。

「アレクセイ様」

装置を動かす音がする。額から流れた汗が、残った左目に溶ける。

「我らは皆、貴方をお慕いしておりました」

いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ、嫌だ。
やめてくれ、やめてくれ。後悔を感じさせぬ声を出さないでくれ、憎しみを置いてきた言葉を紡がないでくれ、信頼と、信用と、親愛だけが募る想いを吐かないでくれ。
それが、それが君たちを死地へと追いやった。
それがお前たちを、皆殺しにした。
そうして私は、愛しい彼らを無残に惨殺した!

頭がショートする、白に包まれた後、息を止めていた喉は勝手に叫んでいた。

「ふざけるな、ふざけるな! 誰か止めろ! やめさせろ!!」

二度目だ。二度、そんなことは許容できない。できる、はずがない。
多くが死んだ。私のせいで多くの希望が息絶えた。
それを、再び起こさないためだった。私のせいで起こる悲劇を回避するためだった。
そのためだった。そのための十年だった。そのための人生だった!!

椅子が転がる、足が一歩動く、痛みはなかった。
ただ目の前の光景が受け入れられなかった。あってはならなかった。こんなことは、あってはならなかった。
私のせいか、また私のせいなのか。私が生きていたから、こんなことになったのか。
生きているせいで、彼がまた幻想に踊らされることとなったのか。

誰もが聞こえているはずなのに、誰も動こうとしない。
なぜだ、なぜ。どうして。どうしてこんなことが起こる。

「アレクセイ!」
「ッ、離せェ!!」

背後から腕を掴まれる。それを体を捻り振り払った。
やめろ、やめろ。やめてくれ。
やめてくれ。奪わないでくれ。
私からこれ以上、

「イエガー!!」

ガラスを渾身の力で叩く。拘束された両手が鈍い音をたてるが、ガラスは壊れない。
終わりまでの手順は、残り一つだった。
嫌だ、いやだ。
何もかもが。
この状況が、彼の持つ装置が、このガラスの壁が。

「やめろ、やめろ。装置から、その手を離せ。これは、命令だ」

ガラスさえなければ届く距離に、脅すように声を絞り出す。
歯を食いしばる、奥からミシリという音が骨を伝わった。
彼は、装置を持ち、私を見た。
罪を責めるわけでもない。憐憫でも、後悔でもない。
ただ、凪いだ瞳がそこにあった。

「知っているでしょう」

そうして、その指は装置を撫でる。

「私たちは、貴方のためならば、貴方の命令に背く」

──助けて。

助けて、助けて助けて助けて助けて、
助けてくれ。頼む、誰か。誰か助けて、いやだ、やめてくれ、殺さないでくれ。
彼を殺すな、彼を死なせるな、やめてくれ。死ぬはずじゃないんだ。彼は生きるはずなんだ。そうしたはずだった。そうできたはずだった。
誰か、誰か。たすけて、たすけてください。


違う。

誰も、たすけてはくれない。
変わらない。何も、過去も、未来も。
助けられるのは──私しか、いなかった。


「──わか、った」

ああ、私は、

「す、べて、はなす、から。たのむ……」

何も、変わらない。

「やめて、くれ……」

──弱いまま。何も変わらない。
十年前から、生まれた時から、生まれる前から。

私は、やはり。
生まれてきたことが、間違いだった。

彼が、そっと、心臓魔導器の制御装置から指を離す。
身体の力がすべて抜け落ち、わずかな時間動いていた足が役目を終えたように膝を折った。
壁についていた手では身体は支えきれず、そのまま床に滑り落ちる。
無様だった。
これが、全ての黒幕の成れの果てか。

「アレクセイ様」

彼が膝を折り、視線を合わせようとする。目を合わせる考えに至れなかった。
何もかもが、崩れ去る音がする。
私が抱えてきたもの全てが、私が積み上げてきたもの全てが。私が、隠してきた何もかもが。
心臓魔導器が、歪な稼働音をたてる。痛みはなかった。

「申し訳ありません」

ああ、レイヴンとおんなじ事を、言うんだな。
お前たちは、本当に、似ているよ。

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bkm