- ナノ -

私の名前は番轟三というらしいG
「おい」
成歩堂さんの事務所からの帰り道、後ろを歩いていた夕神さんに声をかけられた。
ぼーっとしていたらしい。正気を取り戻して、後ろを振り返った。
「どうしましたか」
「焦ってンのかい」
焦りか、そう言われればそうかもしれない。夕神さん、結構鋭いからな。確か心理学を法廷でも使っているんだっけか。あまり詳しくないのでなんともいえないけれど。
「そうですね。そうかもしれません」
この身体の本当の持ち主である番さんに身体を返さなくちゃいけない。でも、その手立てがない。記憶を思い出すこともできない。綾里さんは取り憑いていないといっていた。じゃあ私はなんなのだろう。私は――番轟三の魂を取り殺してしまったのだろうか。入れ替わった犯罪者と同じように。
「俺ァ、あんたを知らねェ」
「それは、どういう?」
「本物の番轟三を知らねェってことだ」
確かに、入れ替わった後の番轟三にしか会ったことがないと言っていた。でも、それがどうしたんだろう。黙って耳を傾けていると、彼が続きを口にする。
「だから俺にとっちゃあ、あんたが番轟三だ」
「……それは、でも」
違うんじゃないだろうか。私は番轟三ではない、記憶が無い、元の人格ではない。
「でもも何もねェ。ただの事実だ」
「……」
「だからよォ、好きに生きりゃあいいじゃねぇのか」
「……好きに?」
「ああ。無理に昔の『番轟三』になるこたァねぇだろ」
それはまた、なんというか。無茶なことを言う。
「私は、昔の番轟三を捨てることはできません」
だって、私が諦めてしまったら……彼は、本当に死んでしまうじゃないか。
それは嫌だ。だって話を聞けば聞くほどいい人じゃないか。慕われていたし、友人も多くいて、信頼されていて。殺されて、それまでなんて、そんな悲しいことはない。
「そのために、今のあんたを捨てンのか」
真っ直ぐな目でそう返されて、言葉を失った。
今の私。今の、こうやって考えている私。
「そ、れは」
捨てようとなんて、思っていない。けれど、番さんを取り戻すためには私は邪魔だ。
そもそも私がこの身体にいさえしなければ、目を覚ました時点で彼は戻ってきていたのだろう。だから、私はたぶんここにいてはいけなくて、でも去る方法もわからなくて。取り殺してしまったかもしれなくて。
「あんた、名前は」
「な、名前?」
そんなの、番轟三だ。夕神さんが知らないわけがないのに。
「自分が番轟三だと分かる前の名だ」
そう言われて、胸が軋んだ気がした。名前、私の名前。
「か、カンって、呼ばれて、いました」
患者だから、カン。今や誰も呼ばなくなった名前。夕神さんはそうか、と言って、スタスタ近づいてきたかと思うと私の手を掴んだ。
「行くぞ、カン」
引っ張られて地面に張り付いていた足が動き出した。夕神さんの長い髪を見つめながら、夕暮れの道を歩いて行く。ああ、情けない、情けないのに――嬉しく、思う。
生きていていいと言われたようで――とても、嬉しかった。

prev next
bkm