- ナノ -

↑の続き(359・夏候惇)
絶体絶命という言葉がある。
それはその名のとおり、身体も命も後一歩下がってしまえば落ちてしまうという、酷い状況のことだ。
そして今私は一人でそんな状態にいた。
あっちもこっちも強者で埋め尽くされていて、どう手や足を出していいのか分からない。
しかし何もせずにぼうっとしていたら攻め込まれるだけであるし、ならば防戦をすればいいが、ある意味勢いだけでやってきた節のある私の軍は些か――いや、かなり不安がある。
なら政を進めてみてもいいが、私の発想は革新的過ぎてなかなか受け入れられない。ということで、徐々に、しかも少しずつ馴染ませるために急は出来ない。
人材は零れるほどあるというのに、これでは宝の持ち腐れだ。

いつかは天下を纏めて平穏を、私が出来るわけもないが、出来たらしたいし、出来なかったら他の誰か、早くはようやってくれ。
と願ったものだが、その天下を治める“誰か”はなかなか現れないし、それに近い者たちは私より酷い能無しロクデナシばかりだ。
安心して大切な民や部下たちを任せられないし、そもそも私はあまりよく思われていないから、真っ先に殺されそうである。

「何を小難しい顔をしている。孟徳」
「夏候惇……」

書簡を手に持ったまま、固まっていたらしい私に信頼でき居る部下であり親しい従兄弟である夏候惇が話しかけてきた。
眉間に手を当ててみると、確かに寄っていたらしい。彼ほどではないが、私も怖い顔になっていたようだった。
振り払おうと顔を揺すると、どうした。と再び彼から言葉がかかる。
それに、なんでもない。と答えると、そうか。と返される。

今すぐにでも昔のように、こんな時代に生まれたくなかった。と弱音を吐きたい。
幼い頃は、現状を否定して、妄想に逃げて、遊びに逃げることが出来た。
放浪野郎として、遊びふけって、従兄弟をからかって遊んだりできた。
なのに、今ではこの様だ。机の上で書簡を片手に悩んで、彼からの言葉にも十分に返せない。
こんな君主。自分は嫌だ。うじうじしていて、今でも現実を否定しようとしている。

「俺はお前が考えていることなぞ分からんがな」

そういえば、昔からそんなことを言われていた。
もう嫌だ。といえば、なぜそんなことを言うんですか。こんなに好き勝手やっているのは貴方ぐらいでしょう。と忠告を受け。
せめて普通の民に生まれたかった。といえば、何をいうんですか。貴方の才能を埋もれさせるつもりですか。と叱られ。
もっともっと、先の未来に生まれたかった。と嘆けば、そうしたら、私は貴方と出会えません。と泣かれた。そのときは、両眼から涙が流れたものだった。

無くなった片目が、私の行ったきた道の代償を示しているようで、過去を懐かしんで苦しくなる。

「悩むなら、軍師たちに明かしてみたらどうだ。俺とは違い、あいつ等ならお前の考えにいい答えをくれるやもしれんだろう」
「……そうだな」

昔から変わったのは、何も私や彼だけじゃない。
私の周りには昔では考えられなかったような、星のような逸材たちが集まり、私に力を貸してくれる。
強力な武を振るい、巧みな知を授ける。
私の身体は一つだが、私の力や頭は一つではない。
そう思えば、絶体絶命も、ある意味でピンチではなくもないと思えた。
何せ、力が頭が私を補佐してくれれば、身体も命も、足を踏み外すことはないから。
知っている。分かっているが、一人で嘆いてなんぞいると、それを易々と忘れてしまうのが私の悪い癖かもしれなかった。

私宛だろう、書簡を持ってきたらしい彼がそれを机に置いて去ろうとするのを慌てて止める。
彼は、本当にいい部下だと思う。私には過ぎるぐらい。
でも、彼は最初から私の傍にいてくれた。いや、私が行かぬように、どうにか押し留めているだけか。今みたいに。

「お主は、本当に良い奴だ。お陰で靄が取れた。何か褒美を取らせよう」

褒美といっても、昔みたいに悪戯をしてやろう。
未来を見まいと必死で熱中して、酷く凝ったものを作っていた昔。
彼は毎度それに引っかかって被害にあっていた。
そうしてそれが、だんだんと周囲を見ないためのものではなく、彼の反応をみるための行為になっていった。
だから、昔を懐かしんで、少し派手にやってやろう。
そんなことを思っていたら、彼は驚いた顔をして、それから気まずそうに顔を反らして言った。

「そんなものは要らん。俺は、お前がいつもどおり過ごせていればそれでいい」
「……は」

言葉が出なかった。
言ったら言ったで、そのまま私の腕を振り解くように去っていく背中を見て、呆然とする。
扉がやや乱暴に閉められて、その後にそういえば彼の耳がほのかに赤かったのを思い出し、正気に戻った。

「はは、あっははははは!」

何が、いつもどおりなのだろう。何がいいのだろう。何を赤くなっているのか。
でも、それのどれもこれもが愛しくて、嬉しくて面白くて笑いが止まらなかった。
何を悩んでいるのだろう。ああ、そうだ。彼の言うとおり、我が有能な軍師たちの元へ行こう。

従ってくれる。支えてくれる。彼らがいるから私は立っていられる。
でも、夏候惇。お前だけは、特別かもしれないね。

(夏候惇⇒(←)主)みたいな感じ?

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bkm