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炎の筋道
人が生きてきた道に確実に存在しているのは「筋道」だ。
生きてきた記録、その人物が何をして、どう選択し行動して生きてきたか。
一番わかりやすいのは家族関係、戸籍を見れば一目瞭然だ。次は学歴か、これも同じように記憶が残る。現代社会ではそういったものから、スマホ・監視カメラ等で人が関知しない所で「人」が記録されていっている。
無機物から、多少不確かになるかもしれないが他人からの印象・記憶で。
この現代社会でそういったものが一つもない「人」など存在しない。探せばどこかしらにある、その人物の生きた証。

けれど、それが存在しない「人」もいる。
それが本当に存在しないのか、それとも見つからないだけなのか、はたまた隠されているだけなのか。
私には分からない。けれど、きっと一番最後の選択肢なのだと思う。
私の後見人は良い人だ。少し、いやかなり天然だが、人の気持ちを最優先に考えてくれる人で、私は意識をもってからこのかた困ったことがない。
恵まれているのだけ分かる。ただ、己がなんなのかが分からない。
いや――何か、予感だけはする。焦燥ともいう。
何かを見つけなければならない、知らなければならない、思い出さなければならない。何もしていないと手がぶるぶると震えて、喉が渇いて、走りだしたくなって。けれどどこへ行けばいいのか分からない。そんな病気のような症状。
けれど、私はそれを誰にも悟られないようにしている。だって、そうでないと今の後見人である八木さん――八木俊典さんという四十代ほどの男性だ――と離れ離れになってしまうかもしれない。
「私」という人物が他者によって隠されていると思う理由がそれだ。
私は目覚める前の記憶がなかった。記憶喪失、なんだと思う。思い出そうとしても真っ白に塗りつぶされた壁を眺めるような、真っ黒なブラックホールに吸い込まれるような感覚がしてそこ(記憶)に何もない感覚がする。
目を覚ましたのは病室だった。けれど普通の場所ではない、密閉された空間でガラスはあっても外が見えない。そんな牢獄のような場所だった。
随分長い間眠っていたような、ぼうっとした頭に色々な質問が詰め込まれた。そして私はそのすべてに「分からない」と返答した。難しい質問ばかりだった、今では覚えているものも少ない。けれどそれも八木さんと一緒に暮らすようになってから、恐らく質問の内容を「消された」んじゃないかと思うようになった。
大事な質問だから、覚えていられては困るから。そういう「個性」の持ち主か、それとも薬の服用かでかき消されたのだと。

ああ、そう。この世界には「個性」と呼ばれる異能が当然のように存在している。全人類の九割が何かしらの異能を所持している。そういう世界。
私はそれに酷い違和感を覚えた。そんな馬鹿なと思った。そんな、アメコミみたいな話。
けれど周囲の人々はそれが当然のように会話をしていて、それに気づいたのは八木さんと暮らし始めてからだった。私はてっきりそういう研究施設に実験体として収容されていたのかと思っていたから。
驚愕したし――驚愕した事実に衝撃を受けた。『私の常識が、この世界の常識ではない』。はっきりとした違和感だった。
私が「忘れている」こと。それは己のことだけだ。言葉や認識能力は問題ない。日本で生活するのに欠けている部分は存在しない、そう評されたはずだった。確かに一般知識が欠けていると診断はされていたようだが、それは『常識の範囲内』のことだ。知らなくて当然のことや、世間の情勢のこと。それらを知らないのは良かった。けれど、この『個性』について知らないのは明らかにおかしかった。
なにせこの世界では「個性」はあまりにも当然すぎる常識なのだ。全人類、海外でも子供でも知らない人はいない。
そして私自身、「火を噴出する」という個性を持っていた。

なぜ、知らないんだ。
私の常識は「どこの」常識だ。
それらを考えているうちに、私の違和感は確かなものとなって形作られた。
「私」は「火華」ではない。

私の名前は、火華。八木、火華。
彼が、八木さんがそう教えてくれた。
けれど、違う。私の名前は、名前は――出てこない。
思い出せない。けれど、これじゃない。苗字も、名前も、何もかもが「違う!」と身体が拒否をする。
頭を掻きむしりたくなるような苛立ちに叫び声を上げそうになる。……けど、耐える。
叫んでも事態は解決しない。思い出すには、工程を踏まなければならない。突然思い出すなど、都合の良いことはあまりにも偶然的で奇跡的だ。

「常識」が異なることから理解できた己の捉えられない真実。
この常識は、少し面白い。個性など存在しない、普通の社会を基準に置いている。
異形の人々は、存在しない。皆、猿から進化したホモサピエンスだ。そして髪の色や目の色が異なる。見慣れているのは黒や茶色の髪色、目の色。金髪も理解できる。けれどあまりに奇抜な緑や赤などは染めたのかと疑ってしまう。
あまりに人からかけ離れた個性――いわゆる異形。漫画かアニメか、理解できずに一時的に思考が停止する。映像技術の進歩か、それともVRか。幻覚? 洗脳かもしれない。そう一通り考えてしまう。
個性に関連する法律も、荒唐無稽に想え、その意味を測りかねる。
だから、外を見るたびに人々に驚き、そして少しわくわくしてしまう。
普通に歩いている人も、手を引かれている子供も、電車にすし詰めにされている人々だって、誰もがそう言った「信じられない能力」を持っているかもしれない。そんなのまるで漫画みたいじゃないか。

けれどこのドキドキは一般では感じないらしい。あるとすれば幼い子供が感じる「自分はどんな能力が発露するのか」という期待。
私も記憶喪失なのだから、個性の話を聞いたら後者の期待を感じられる。はずだったのかもしれないが、私の初めては散々だった。
病室で個性について聞かれ、そんなもの一切分からなかったから説明を受け、意味が分からず押し黙ってしまっていれば何かしらを投薬され、急に体が熱くなった。もう、それは燃えるように。劇薬を撃たれたのかと思って、混乱して殺されるのかと錯覚し(今でも、錯覚と信じたいだけだが)酷く暴れまわった。
残されたのは白から黒へと変貌した部屋と、壊れ去ったベッドと酷い焦げ臭さ。そして怯えきった自分だった。
私はもう、本当に恐怖した。殺されるのだと思った。
自分から、火が出たのだ。もう本当に、恐ろしかった。どこかで聞いた人体発火だ。もう、飲まれて死ぬのだと確信さえした。
けれど散々暴れまわって逃げ回って、いつの間にか火は消えていた。幸い、投薬じた人物もはじめのうちに部屋から逃げ出していたので人への被害はなかったが、私の心は恐怖に染まった。本当に、悍ましい体験だった。
だから、私には残念ながら期待という素敵な言葉は当てはまらなかった。むしろ、日常的に役立つ個性があると知って何故私はそういった個性でないのか、危険ではない個性を持たなかったのかと心底落ち込んだ。

私は「個性」出現に対して、全く現実味を持っていなかった。そして恐ろしさに打ちのめされた。一つでも「常識」の中にそういった(例えば人には異能が必ずと言っていいほど芽生える)刷り込みがあればあそこまで恐れず、そしてその後の受け入れも早かっただろう。
しかし僅かにもそれがなく、私は数日間ずっと怯えていた。そんなとき手を差し伸べてくれたのが八木さんだった。
人のよさそうな顔をしていて、少し筋肉質なとても背の高い男性。彼は私を知っているようだった――これは勘なのだが……。どこか懐かしそうな目で私を見たのだ。慈愛や憐れみのようにも映った。けれど私にとってどれでもよかった。彼は今までの人々とは違って、ちゃんとした熱があったのだ。瞳の奥に、私を人として見ている色があった。

そして彼との会話から「この世界」の常識を学んだ。勿論、悟られぬように。
変なことをしたら、また何かされると思ったのだ。あんな体験、一度で十分だった。
思えば、そういったところも変にずる賢い子供だった。教えてもらった年齢は13歳。どこから導き出したかもわからないそれは、しかし中学生の年齢で、これまたなんとなくしっくりとこなかった。
なぜかと言われると困るが。……なんとなく、学業・勉強等への必要性を感じなかったからだ。
学ぶということに対しての興味はある。しかしなんというか――今更、という思いがあった。よく、分からないが。
しかしこれは当たっていた。学力検査で私は高校卒業レベルの学力はあると証明された。
それに、どちらかというと、自分の身の振られ方――その後の生活の方が気になっていたのだ。住居、金、仕事。そういった物事が頭から離れなかった。中学生で義務教育を受けていたのなら住居や金について考えても仕事について具体的に考えることはないだろう。

そう、違和感といえば身体の知識に関する違和感もだ。
私は、一人称は「私」としているが男だ。しかも、13歳だというのに随分体つきはしっかりしている。身長は流石に中学生、といった背丈なのだが、厚底ブーツを履けば高校生でも通せそうだ。
そういった体つきなのに、私は嫌に女性の身体について詳しい。やましい意味ではなく、例えば――生理について。
平均的には月に一度訪れるそれに関しての対処に詳しすぎる。販売場所、つけ方、捨て方。痛み、薬。それ以外にも、女性的な諸々。
しかし、だからといって今の自分の身体に違和感があるわけでもない。男性器については、まぁあって当然だとも思う。同一性障害というわけではない――と思う。今のところ、男性にも女性にも欲情や恋愛感情というものを抱いたことはないのではっきりしないが。

そして何よりはこの思考回路だろうか。自分自身のことなのに『中学生ぐらいの子供はこんな考え方をしない』と強く思う。
そこには歪な『私が■■■だったころは』という謎の裏付けがある。
だが――今より過去の記憶は私にはない。気持ちが悪い。
テレビなどによる刷り込みなのか。けれどこれは精神が落ち着いてから早々に感じたものだった。

私の中に、歪な「答え」がある。
何か大きくボタンが欠け間違えられた何か。
別に――本当はただ普通に記憶を失っているだけなのかもしれない。それが一番いい。
私のこの考え方も、思春期特有の黒歴史みたいな、思い込みが生んだ痛い妄想。そう確信を得たい。でも、身体を虫が這いずるような焦燥がそうではないと強く訴える。
……どっちにしろ、目を覚ました時のこともある。よくわからない病院。説明されない理由。与えられた名前、触れられない元の苗字。
八木さんはそれを口にしようとはしない。関連する何かを口にすると、ピリッとした緊張感が走るのを知っている。
彼もあの場にいた人だ。きっと思い出させたいのだと思っていたけれど、最近はそうじゃないのかもしれないと思い始めた。
そして彼が仮にそう思っているのなら、私が思い出すことは私に有益なことではないのかもしれない。もしかしたらまた、あの病室へ逆戻りかも。
それは絶対に嫌だ。だから、私はせこく生きる。
この日常を手放したくない。八木さんと一緒にいる安心感を得ていたい。けれど、湧き上がる焦燥を落ち着かせないといけない。

ひっそりと気づかれないように、できるだけ知られないように。この違和感を、困惑を。恐怖を。
慣れたふりをしよう、この世界の住人のふりをしよう。孤独を隠そう。
私は記憶を失ったただの中学生。身寄りのないところを八木さんに引き取られた男の子。今のところはそれでいい。

「火華君、ただいま」
「おかえり。八木さん」

仕事が激務らしい彼だが、疲れを一つも出さずに挨拶をする姿に、いつも通りに笑って迎え入れる。
肩にかけていた鞄を受け取って目を合わせると、どこか安堵したような色が目じりに浮かぶ。それを知らぬふりをして、少し目じりを上げた。

「手洗いうがい、ちゃんとしろよ」
「ああっ! そうだ。言われないとつい。おいしそうな匂いがするからそっちに気を取られちゃうよ」
「まったく。いつもそうだな八木さんは。風邪ひいたら大変なんだから、しっかりしろよ」
「ははは! 私は風邪なんかひかないよ!」

胸を張って声高に断言する八木さんに子供のようだとため息をつく。実際、彼が風邪をひいているところを見たことがないのは事実だけれど。
少し笑いかけて、気を張り直し彼の固い背中をたたく。いたっ! と多さげさな声をしり目に、鞄を持って廊下を歩く。

「ちょ、火華くん〜」
「行動は迅速に。飯が冷めるぞ」
「それはいけない!」

バタバタと脇を通り抜けて洗面所へ入っていく姿を見て、今度こそたまらず笑みが零れる。
八木さんに見られていないしいいだろう。と思ったのが悪かった。視線を感じて急いでそちらへ顔を向ければ、八木さんがこちらをじっと見つめていた。
と思ったら、へにゃりという音でもしそうなほど顔を破顔させる。

「っ、早く手洗いうがいしてこい!」
「はーい!」

思わず大声で叱りつければ、満足でもしたかのように洗面所へと姿を消した八木さんに、ギリギリと歯噛みをする。
一つため息をついて、リビングへと入っていった。
こういうやり取りが八木さんに会うと頻発する。精神年齢が可笑しい疑惑のある自分としてはこういうのは凄く恥ずかしい。馬鹿にされている、わけじゃないのはわかる。彼なりのコミュニケーションの仕方なのだろう。
仕方がないと思う。恥ずかしいけれど。
そういう顔をしてやる。ああ、そういう顔をするのが私のちっぽけなプライドを守るために必要なのだ。
言わないけれど、言えないけれど。こういう日常が、私の求めるもので。

「洗ってきたよ! わざわざ待っててくれてありがとう。火華くん」
「たまの帰りぐらい待つよ。居候の身としては」
「居候じゃなくて家族だって言ってるだろ〜!」
「はいはい父さん。さっさと食べろよ」

手洗いうがいを済ませた八木さんが食卓の椅子を引いて腰を掛ける。
彼はたくさん食べるから、帰ってくる日には大量に夕飯を用意する。ぺろりと平らげる姿はなかなかに爽快だ。まぁ、私もかなり食べるのだが。
父さんと呼ばれた八木さんは「お兄さんじゃないかな…」と首を傾げながら言っているが、彼は自分の年齢を分かっているのだろうか。若々しいのは認めるが。
二人で手を合わせて「いただきます」と声を合わせる。
自分専用で購入してもらった茶碗を手に取り、白米を一口。うん、いい炊き加減だ。
ちらりと八木さんを見てみれば、おいしそうに口におかずを放り込んで頬を膨らませている。

「おいしいよ、とっても! 上達したね!」
「いつも作ってればね」
「それでも凄いよ! 天才だな君は!」

料理で天才なんて言われても嬉しくないぞ。みたいな面で聞き流す。
そう、別にそんなこと言われなくたって喜んでるさ。だってそんなに嬉しそうに食べてくれるんだから。
独りぼっちの私を助けてくれた人。私に隠し事が多い人。どんな人だっていいさ、きっと悪い人じゃない。
ずっとこうしていられるとは思わない。だから、こんな幸せが得続けられるようにいろんな努力をしよう。
数年後、私の目の前にいるのが貴方でなくても、いい。
だから、大好きな尊敬する人。私は貴方に伝えぬ秘密を抱える。
私の「筋道」を隠す人。私を探る周囲。憔悴する心。そのどれもが「知らなければ」という思いを増長させる。私は知らなければならない。私という「人」を、真実の記憶を。

でも、望むなら、いつかあなたの秘密と私の秘密を伝え合って、そのうえでこうして美味しい食事ができれば、私はきっと幸せだ。

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