それから両親はたくさんの試合を見せてくれた。
中継があれば一緒に見て、一緒にビデオショップへ行き借りてきて、選手について書かれている記事や雑誌を渡してくれた。
選手はたくさんいたから、全てが全てカブが映っているものではなかったけれど、彼はホウエン出身の珍しい選手で、その実力で一気に勝ち登り今ではこの地方――ガラル地方でジムリーダーをしているということでよく話題に出されていた。
カブを見つけた時から私の泣き癖は嘘みたいになくなり、両親はとても喜んだ。
今でも死んでしまったことへの悔しさや悲しみはある。けれど全てがなくなったわけではないと知って、泣いてばかりではいられなかった。
カブが生きてる、存在している。そして、今でもトレーナーとして努力して戦っている。それならば、私だって生きていかなければならないじゃないか。
そうすれば、もしかしたら、いつか。
いつか、カブと出会って。そして、私ですと、告げられるかもしれない。
これは夢物語だ。私は死んだ、彼の前からいなくなった。死人が口を出すことはもしかしたら許されることではないかもしれない。けれど、私という意識は確かにキバナという『私』としてここにいる。
死んだけど、生きている。私という存在はここにある。今でもカブのことが、好きだ。
前世とは何もかもが私は違う。そもそも男であるし、子供だし、ホウエン地方の人間でもない。けれど、けれど。諦めが、つかない。
もし、もしカブが受け入れてくれるのならばと浅ましくも願ってしまう。
死んでから数年しかたっておらず、まだこの人生を受け入れ切れていないからこその戯言かもしれない。だけど、もし、彼がまだ他の誰か、愛する人と一緒になっていないというのならば――。諦めたくない。
そう思いながら恋焦がれ、画面越し紙越しの彼を見つめ続けて2年が経った。
「キバナ、聞いて驚くなよ!」
「え? 何ー? 何かあるの?」
驚くな、と言っても何の要件かは分かっていた。今日は私の誕生日、つまり父が言っているのはプレゼントのことだろう。
しかしわくわくはしている。なんて言ったって去年の誕生日プレゼントはカブがいるエンジンシティのジムユニホームだったのだ。その時はそんな素晴らしいものがもらえると全く思っていなくてはしゃぎまくって壁に顔面をぶつけたのをしっかりと覚えている。
母親がすすすと近づいてきて、私の両目を後ろから手で塞ぐ。父親が何かとりだしたのか、軽い音をさせながら何かしている。
大きいものではなさそうだ。去年のようなユニホームとかではないのだろう。なんだろうか、ドキドキしてしまう。
「キバナ、見てみて」
そっと覆われていた手が外されて、視界が開ける。
そこには、何かを差し出す父がいて、その手には何か長方形の紙があった。
紙? とよくよく見てみれば、それは何かのチケットに見えた。その瞬間、ドクリと心臓が高鳴る。じっと文字を追ってみればそこには「ジムリーダーカブ、オフィシャル特別観戦チケット」の文字が。
咄嗟に顔を上げて父の顔を見やる。そこには自信たっぷりの父の顔。次いで母親の顔を見る。嬉しそうににっこりと笑った顔がそこにあった。
そのチケットが現実のものと知り、私は精神年齢からは考えられない、歓喜の奇声を上げたのだった。
オフィシャル特別観戦チケット――この文字は、あまりにも重要だった。観戦は勿論彼のポケモン勝負の観戦という意味だ。しかし『オフィシャル特別』――つまり、公式から販売された特別特典の付いているチケットということなのだ。
公式ファンクラブで、激戦を潜り抜けなければ手に入れられないチケット。それがこれなのだ。確かに最近父がパソコンに付きっ切りのことが多かった気がするが、こういう事だったのか。
特別特典というのは、試合後に実際に選手に会えるということだ。つまり、目の前で、カブに会えるということ。
この2年間、直に彼を目に納めることができていなかった。チケットが競争率が激しくて当たらなかったのだ。ただの一般人である私が彼に会いに行けるわけもなく、ずっと遠くにいる彼を思って活躍を見つめてきた。
けれど、直に彼を拝めるだけでなく、握手をしたり、話をしたりできるチケット。それがオフィシャル特別観戦チケットなのだ。
観戦チケットを貰って、観戦当日までずっとそわそわしっぱなしだった。
それを両親に微笑ましく見守られつつ、私は精一杯身だしなみを整え、当日を迎えることとなった。
「すごい……」
やってきた会場は熱気にあふれていて、そして皆楽しそうだった。
屋台なども沢山出ており、前世で言うところの野球場の観戦とかそういうものを思い出させられた。ただ子供連れが多いからか、それとも警備上の都合かお酒などは出されていなかったけれど。
会場の熱気にやられて、私はもう終始熱に浮かされているようだった。
そしてそれは、相手の選手とカブがコートに現れたところで絶頂になる。
本当に両親はプレゼントのために頑張ってくれたのだと痛感した。手にしていたチケットの席の位置は、ちょうどカブの後姿がよく見える位置で、定位置に着くまでには正面の姿もしっかり見ることができた。
研ぎ澄まし、集中した表情は昔よりも磨かれているように思えた。大人になった表情は、私の知らない面だった。鋭い眼光に、昔とは違うユニホームで歩くその姿。
ああ、カブだ。
そして、私の知らない彼だ。
寂しい、苦しい。彼と同じように年を重ねられなかった自分が。一人で進んでいる彼が。後ろを振り向かない彼が。同時に、叫びたくなるほどに嬉しい。彼が無事に年を重ねていることが。順調に進んでいる彼が。前を真っ直ぐに見つめている彼が。
自分との違いを痛感しながらも、彼の成長に眩暈がするほどに感動した。
『勝者、炎のジムリーダー、カブだぁ!!』
アナウンスの熱い声が木霊する。勝利した彼が浮かべた表情に、胸が煩くて仕方がなかった。
私は両親に手を引かれ、コートへと続く通路を歩いていた。
特別観戦チケットは観戦後、選手の準備が整い次第、選手と実際に会えることになっている。
私以外の子供たちや他のファンの人々が廊下を歩いていく。私はというと、もう胸が煩くて頭がぼーっとしてどうしていいか分からなかった。
どうしよう、会ったら何と言おうか。そもそも私は満足にしゃべれるのか、目すら合わせられなさそうだ。
頭がの中が煮詰まって、さまざまな考えと過去の記憶がよみがえってきては消える。
しかし時間は無常には過ぎ去っていく、コートへの距離は縮まっていく。そしてついに、照明に照らされたコートへとやってきたのだった。
コートの中で、変な汗を流しながら彼を待つ。
他のファンもそわそわと憧れの人物の到着を待っていて、両親も楽しみだね。と会話を振ってくる。当然、それにこたえる余裕はなかったけれど。
ああ、そりゃあ楽しみだ。彼と会えるのだ。死に別れ、もう会えないと思っていた彼と。こんな運命のようなことがあるだろうか。嬉しくてもうすでに心臓が爆発してしまいそうだ。でも、昔の彼と全然違っていたらどうしよう。ガラルに来て何年も経つし、話してみたら別人になっていたら。そもそも何を話せばいいのか分からない。彼のことが好きだ、けれど私はもう『キバナ』だ。ナマエじゃない。私だと伝えたい、けれど伝えられない、その勇気がまだ私にはない。そもそも伝えることがいいことなのかさえ分からない。
どうしていいか分からないまま、コートにいた人々がわっと沸く。
思わず上げた顔の先には、入り口から歩いてくる彼の姿があった。彼はスタッフに誘導されて輪の形になっていた私たちに近づくと、頭を九十度下げた後に口を開いた。
「今日はお越しいただきありがとうございます。エンジンジムジムリーダーのカブです。よろしくお願いいたします」
カブの畏まった挨拶に、一瞬の沈黙がおり、その後思い出したように歓声が沸き上がる。
ビックリするほどに変わりのない彼に、少しだけ拍子抜けした。そうだ、彼はこういう人だ。
先ほどまで感じていた不安が、喜びにとって代わられていく。なにも変わらないわけじゃない、勉強したであるガラル語でしゃべる彼は私は知らない、ファンに囲まれて慣れた風な表情を浮かべる彼も知らない。けれど、知っている彼だ。
「キバナ、カブさんだよ」
「うん。……カブさんだ」
ようやく母の言葉に返事を零す。ああ、生きている。大好きな彼が、そこにいた。
彼は丁寧にファンへの対応をしていって、順番に平等に接していた。
どれをとっても好感が持てる。惚れた欲目なのかもしれないが、それでもファンにこうしてしっかり対応してくれるのは優しい選手と言って違いない。
そうして、当然だが私にも順番が回ってくる。
私は大好きな人を目の前にして、緊張で固まっていた。
「大丈夫? お話しできる?」
母が私の背中を押して、カブへと近づけようとする。
彼はファンを順番に回っていって、今は私の目の前にいた。けれど両親の元から離れられない私を気遣って母親が背を押してくれたわけだった。
私はその力のお陰てようやく一歩前進して、彼を見上げた。
ガラルの男性と比べれば背の低い彼も、まだ七歳の私と比べればとても大きく、私がやってくると膝を追って視線を合わせてくれた。
「えっと、こんにちは。今日は来てくれてありがとう」
少しだけ戸惑いながらも、声をかけてくれる彼。近くて聞こえる声に、頭が酷く揺さぶられる。
声が僅かに低くなっただろうか、私の気のせいかな。ガラル語うまいな、優しく声をかけてくれる、嬉しい。
久しぶりに、こんなに間近で顔を見た。ああ、いや、逆に前世では恋仲ではなかったからこんなに近寄ってくれる機会はなかったかもしれない。
少しだけ皺が増えただろうか、けれど全然若く見える。確か、もう三十代だったか。でもそんな風には見えない。
頭の中で思考がぐるぐると回り、何も言えない私にしびれを切らしたのか、父親がほらと肩に手をのせる。
「握手してもらわなくていいのかい」
ああ、そうだ。スタジアムに来る前に父と話していた。カブ選手と握手をしてもらって、以前の誕生日にもらったユニホームを着ていくから、そこにサインをもらおうって。
ドキドキと高鳴る胸を左手でぎゅうと抑えながら、どうにか口を開く。
「あの、あのっ……あなたの、ふぁんです」
「そうか。ありがとう」
「あ、あの、握手、してくださいっ……!」
「もちろん」
どうにか手を伸ばすと、手を取って力強く握ってくれる彼に息が止まった。
身体中が熱くて仕方がない。なのに、彼の手の方が熱い気がしてどうしようもない。手が大きくなったのだろうが、いや、私が小さくなっただけか? 人肌を感じて、生きていると感じる。目の前に動いて喋って、触れる彼がいる。どうしようもない、涙が出そうになる。
――好き、好きだ。
今でも好きだ。大好き。抱きしめたい、抱きしめてほしい。あの時の大事な話を聞きたい。私だと言いたい。
諦めきれない、彼が。死んだとか、男だとか、子供だとか、そういうのはもう全部どうでもよくなってしまった。
諦めたくない。好きでいたい。
けれど。
「あ、の」
「どうしたんだい」
一つだけどうしても知りたかった。
それによっては、私はこの気持ちとの向き合い方を変えなければならなかったから。
彼のことが、大好きだ。だからこそ、知らなければいけないことがあった。
振り絞っているからか、小さな声の私に彼が顔を近づけてくれる。その姿に、必死になって言葉を紡ぐ。
「好き、な」
「うん」
「好きな人は、いますか」
小声過ぎて、聞こえなかったかもしれない。周囲のざわめきに消えてしまったかもしれない。
握った手を必死で握り返して尋ねた言葉、歯を食いしばって彼を見る。
彼は驚いた表情をして、けれどそのあとに薄い、けれど優し気な笑みを浮かべて口を開いた。
「うん。いるよ」
そのあとのことは、正直覚えていない。
気づいたら、彼がちょうどコートを皆に見送られて出ていくところだった。
彼の後姿を眺めている。私の服にはいつの間にか彼のサインがされており、あれほど熱さを感じていた手は冷え冷えとしていた。
照明に照らされた彼が去っていく。私の前からいなくなる。一度も後ろを振り向かずに、堂々とした足取りで。
それがどこまでも悔しくて悲しくて、声をかけて止められないことが苦しくて、止めてはならない事実が辛くて、同時にそれらすべてに感謝して。気付けば涙がホロリと流れていた。
好きな人がいるといったときの彼は、本当に好きなんだろうなという顔をしていた。元女の勘だ。これは間違いない。
だから、私は自分の想いに蓋をすることに決めた。
彼にいい人がいないのならば、想っている人がいないのならば、諦めたくないと思っていた。けれど、一緒に幸せになりたい誰か、なれる誰かがいるのならば話は別だ。私は彼のことが大好きだ。愛している。だからこそ、幸せになってほしい。
死んでしまった過去の女、そして生まれ変わった男の子の私。カブが今、恋している相手。どちらが彼が幸せになれるかと言ったら考えるまでもないだろう。
ああ。初恋は実らないものとは言うけれど、それが転生越しに証明されてしまうとは。夢があるのかないのか分からない。
その日は家に帰って、ベッドに入って。そのあとに久しぶりに大泣きした。
慌てた両親がやってきてどうしたのと聞いてきたから、大好きな人に会えて嬉しくて涙が止まらないといったら、私が泣き疲れるまで一緒にいてくれた。ああ、幸せだなと思うとともに、今の人生を精一杯生きようと決意した。
そうだ。いい加減、前を向かなければ。好きな人の幸せを感じられたのだから、もう私も進まなければ。
けれど、この恋だけは。貴方を想っていた気持ちだけは大切にさせてほしい。
気付かれないように、誰にも知られないようにずっと心に秘めておくから。
カブさん、私の憧れの人。大好きでした。だから、幸せになってね。