- ナノ -

その子供は、聖母にて6
どんなことがあっても、時間はひたすらに進んでいく。止まることなどない。
あの後、朝日が昇ってお互いに起きる時間になって、シャワーを浴びた。クレイさんは痛み止めを飲んで、私はといえば、クレイさんに圧縮された右手が動かなくて、彼に物凄い顔をされてしまった。
結局彼は大学を休んで私を病院にまで連れて行ってくれた。
お互い何を喋るでもなく、病院の待合室で待つ。その中でぽつりと彼は呟いた。

「ベッドを買って帰ろう」

それに、少し黙って、いらないよ。とだけ返した。
手の治療をしてもらって、病院から帰るときにホームセンターにクレイさんは足を止めた。
でも私が「夕飯の材料を買おう」と言ったら、無言でまた歩き出した。


何をしていても、何を考えていても、時間は刻々と変わらず進む。
私とクレイさんが少し気まずくなったとしても、いつもどおり夕飯は作るし、一緒にお皿は洗うし、相変わらず一つしかないベッドで一緒に眠る。
そうしていくと、最初はぎこちなかった空気も元に戻っていく。

数週間もすれば元通りだ。
ただ違うのはクレイさんがどんな時でも必ず痛み止めを飲むことを欠かさなくなったのと、私も彼が痛み止めを飲むのをちゃんと確認するようになったこと。
それから、熱さに呻く頻度が少しだけ減ったことか。

更に時間は過ぎ去った数か月後、スクールで一枚のプリントが配られた。
その内容を見て、どうしようかと少し悩んだ。それは、家族が参加できる授業参観のプリントだった。

クレイさんと暮らし始めて、もうしばらく経つ。
けれど、当然私たちは家族ではない。でも、だからといって赤の他人というわけでも、ない。
プリントをじっくりと眺めて、一つ息をついた。


家路について、彼のことを考える。
渡すべきだろうか。渡さないほうがいいだろうか。
そもそも、忙しいのだからこれないと思ったほうがいいはずだ。なら、渡しても意味がない。けれど、後から知られても、彼は苦い顔をするかもしれない。

赤く染まる空を眺めながら、ぼんやりとどうしようかと思考を巡らせた。

アパートの前について、リュックから鍵を取り出そうとした時に、目の前から音がした。
驚いて顔を上げれば、そこには開いた扉と――奥からこちらを見る笑顔のクレイさんがいた。

「く、クレイ? なんで?」
「今日は早く帰ってきたんだ。ほら、入って」
「う、うん」

珍しい。というより、初めてだ。私が帰ってくる前に家にいるなんて。
何かあったのだろうか。研究がとてつもなくうまくいったとか? 驚きながらも言われるがままに家に入る。扉の鍵もクレイさんが閉めてくれた。
あまりにも珍しい事態に、若干ぎこちなくなる。支度を整えてなぜか待っていたクレイと一緒にリビングへと入っていった。

「……えっ」
「ガロ」
「これ……」
「誕生日おめでとう」

リビングは、綺麗だった。
簡単にではあったけれど飾り付けがされていて、机の上にはケーキがおいてあって。
生活感はあったけれど、こんな楽し気な雰囲気になったことのない部屋に、しばらく固まってしまう。
どうにか意識を取り戻してクレイさんを見上げれば、優しく微笑んでいてあっけにとられた。

「……クレイが、これやってくれたの?」
「ああ。凝ったものはできなかったけどね」

そういって少し眉を下げる彼に、言葉が出なかった。
そうだ。今日は、誕生日だった。
私がガロ・ティモスとして生まれた日。すっかり、頭からすっぽ抜けていた。
家が燃えて、前世を思い出して、両親がいなくなって、彼と生活するようになって。いつしか上書きされるように忘れてしまっていた。
目の前がチカチカと瞬くようだった。
甘い香り、部屋の装飾。家の中、お母さんが笑顔を向ける。早く帰ってきたお父さんがプレゼントを持ってくる。胸がいっぱいになって、笑っていた。
いつしかの光景だ。あの日、全てなくなった過去だ。

思い余って、クレイさんに抱き着いた。
そうはいっても、身長差が歴然で、足元に抱きつく形になってしまったけれど。

「ありがとう、クレイ……。俺、すっごく、嬉しい」

本当だった。本当に嬉しかった。
色々なことが起こる中で、忘れてしまっていた優しい、大事な記憶。
思い出させてくれたクレイさんに、感謝しかなかった。
少し、苦しい。けれど、それよりももっと嬉しいのだ。

「本当に、ありがとう、クレイ!」

顔をあげて、彼を見る。
少しぼやけた視界の中で、彼がこちらを見ているのが分かった。
彼は私に手を伸ばして、そのまま片手で器用に抱き上げる。そのまま、いつもの席に座らせてくれた。

「喜んでくれて、僕も嬉しいよ」



蝋燭に火をつけて、電気を消して、歌を歌って、火を消した。
前世を含めて、全てで懐かしくなって、胸がいっぱいになった。
ケーキを頬張りながら、こういう時に食べる甘いものはどうしてこんなに美味しいのだろうと思う。

ケーキを食べ終わって、一息ついて。
クレイさんは一つ切り出した。

「プレゼントなんだけど、ガロが欲しいものがよくわからなくてね。本当は事前に用意したかったんだけど、ガロに聞こうかと思って」
「プレゼント? そんなの気にしなくてもいいのに」
「誕生日といったらプレゼントだろう」

確かに、何か足りないと思っていたら、それか。
でも、わざわざ飾り付けをしてくれて、わざわざケーキを買ってきてくれて。もうすでにこんなに嬉しいのに、これ以上というのもなんだか気が引ける。

「なんでもいいんだ。欲しいものを教えてくれないか」
「なんでもいい……」

欲しもの。尋ねるクレイさんに、暫し頭を悩ませる。
物欲がないわけではないけれど、欲しいかといわれると首を傾げる。
そこで、ふとスクールのプリントを思い出した。

「あ」
「思いついたかい」
「え、いや、欲しいものっていうか……」
「言った通り、なんでもいいんだ。僕がプレゼントできるものだったらね」

ニコリと笑うクレイさんに、逡巡して椅子のすぐ横に置いてあったリュックに手を伸ばした。
ごそごそと探して、お目当てのものを取り出す。
少し見つめて、やはりやめようかと思ったら、クレイさんが身を乗り出していて思わず隠すように胸にプリントを引き寄せた。

「それは?」
「えっと……クレイが聞きたいことじゃないかもしれないんだけど」

伸ばされた手に、引っ込みがつかなくなりプリントを渡す。
すぐに目を通したクレイが、内容を読み上げた。

「『授業参観』……」
「……家族が参加していいんだって」

それに、クレイさんが口を噤む。
やっぱり、見せるべきじゃなかった。後悔を感じ始めたところで、しかしどうしようもない。
せっかく誕生日を祝ってくれたのに、クレイさんを嫌な気分にさせたかったわけじゃない。

「僕は」

薄っすらと目を開いた瞳の色は、空の色と夕焼けが混ざったような独特な色合いだった。
文字を見つめて囁くように言葉を紡ぐ姿は、どこか冷たさを感じる。

「ガロの家族ではないよ」

でも、冷たいのは、自分を守っているからではないだろうか。

出会った時から思っていたが、彼の瞳の色は特殊だ。
赤だったり、青だったり。そうして今みたいな、空色だったり。
バーニッシュであるせいなのか、彼の瞳の色はその感情によって変わるようだった。しっかりとそれが意識的にわかったのは少し前だ。
怒りや苦しみを感じると、彼の瞳は赤くなる。今は――なんだろう。

「……じゃあさ」

この数か月で、私は彼の傷を少しでも癒すことができただろうか。
癒すなどとはいかずとも、支えになることはできているだろうか。
少しでも重い枷が軽くなってくれただろうか。心休まる家にできているだろうか。
正直自信はない。なにせ、彼にとって私はつらい存在だろう。けれど、誓ったのだから、共に暮らすことになったのだからやるしかない。

これが正解かどうかは、分からない。
寧ろ、更に彼を傷つけることになるかもしれない。
でも、きっと。
いつかは前を向いていかなければならないから。

「クレイと家族になりたいな」

見開いた彼の瞳は、美しい色をしていた。

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bkm