- ナノ -

その子供は、聖母にて5
クレイさんに保護されてから、数か月。
お互いの呼び方が変わったり、私がスクールに通うようになったりしたけれど、それ以上の変化は特にない。クレイさんは相変わらず研究が大変そうだし、私は相変わらず夕飯を作っている。
変わらないといえば、私はこの家に来てからずっとクレイさんと同じベッドで寝ている。
クレイさんは何度か新しいベッドを買おう、と提案してくれた。けれど私はそれらを全部袖にしてしまっている。その時の理由は「まだ一人で寝るのが怖いから」とかにしていて、そういうとクレイさんは少し眉を下げてその提案を取り下げてくれた。

勿論一人で寝るぐらい朝飯前だ。伊達に前世生きていない。
罪悪感を感じつつ、それでも彼と一緒のベッドで眠りについているのは理由がある。

いつも通りに夕飯を食べて、おやすみの挨拶をして一人ベッドに横になった。
クレイさんはもう少し研究の内容を精査してから寝るらしく、リビングで書類を広げているのだろう。広いベッドに一人で横になって、目を閉じる。
そうすれば心地よい眠気が襲い、そのまま意識は途切れて行った。

「――」

ふと、耳に入ってきた音に意識が覚醒する。
薄く瞼を開けば、目の前には広い背中があった。いつものようにそれを理解するとともに、聞こえた声に、耳を傾けた。

「っ、――ぃ、あ、つぃ」

呻き声。それは熱を訴えるもので、切実で、苦痛にあふれている。
身体を起こしてクレイさんを見てみれば、身体を縮めて顔を歪め、浅い息を繰り返しながらうわ言のようにそれれを繰り返していた。
額に幾つもの汗が浮かんでは流れている。

ベッドから降りて、洗面所へ走った。
二枚タオルを水で濡らして、そのまま寝室へと戻る。
魘されるクレイさんのところへ言って、片方は左腕の痛々しい傷口が見えるそこにかけてやり、もう一枚のタオルで汗の流れる額や首筋を拭う。

「…っ、は。ぁ……」

ずっとそうしていれば、いつしか呻き声は吐息になり、浅かった息もどうにか正常に戻っていく。
左腕に乗せていたタオルを回収すると、熱いぐらいに温度を持っていて、目を細めた。
こんな光景が、週に一度は訪れる。こんなことをして、何になるかは分からない。けれど、私は彼が一人で魘され苦しんでいるのを放って一人ベッドで寝ることはできなかった。

彼が一体、何をしたっていうんだろう。



クレイさんはいつも、寝る前に薬を飲んでいる。
その薬は痛み止めで、なくなった左腕が痛むのだそうだ。でも、薬を飲めば問題ない。そう言っていた。
所謂幻肢痛というものなのだろう。側面ではなくない左腕が痛むなら、そうなのだろう。
本来、幻肢痛は痛み止めでは治療できない。そこに肉体がないからだ。痛みを発する原因は特定されておらず、心身症に属する。なぜ詳しいかといえば気になって調べたからだ。
しかし、彼は痛み止めを飲むと症状がなくなるらしい。それもまた思い込み、心の動作の一つなのだろう。けれど夜のあの症状を見ている身としては、本当にそうなのかと少し疑っていた。

でも、やっと今日それが本当なのだと知った。

「ッ、ぁあ゛ッ! い、ぎッ……!」
「クレイ、クレイ! しっかりして……!」

意識があるのかどうかさえ分からない。ひたすらに正常な人間が発するとは思えない音を喉から出して身もだえる彼に、全身から汗が噴き出した。

今日のクレイさんは本当に疲れているようだった。作った食事もろくに取れないぐらいで、寝不足でクマが酷かった。食事よりも睡眠の方が必要だ判断して彼を無理やりベッドに押し込んだのだ。
それが間違いだった。認識が甘かった。何を見てたんだ自分は。

いつもより大きな声に驚いて飛び起きたら、このざまだ。

どうにか声をかけて意識を向かせようとしてみても、呻き声というよりも悲鳴というのが当てはまる声に遮られ彼には届かない。

「ァ、ぁああ゛、ぃや、だ、ィ、ぐァ……!」

右手が左腕の肩口を掴む。
苦しみの音と共に、右手が硬く握られ、肩口の骨が軋む音が響いた。
驚いて息をのむ、人からしてはいけない音だ。
慌ててクレイさんの頬を叩くが、固く瞑られた瞼は開くことはなく、ただ拒絶を示していた。

「クレイ……」

こんなの、見ていられるか。
拳を固く握った後に、左肩を掴む指先に手を伸ばした。
あまりにも強い力に、眉間に皺を寄せた後に、その指を無理やり一本引きはがす。
腕全体は無理でも、指一本ずつなら両手でいけばどうにかなる。
僅かに開いた空間に自分の右手を滑り込ませる。途端、同じように押しつぶされるが、側面にクッションが入ったことで先ほどよりは力はましになった。
勿論、クレイさんの腕力だ。骨が折れそうに痛いが、これぐらいだったら全然耐えられる。

「ひ、ィ、ぐぁ……ぎ、ァああ゛!」

痛いのか、熱いのか。悪夢を見ているのか、あの日の光景を見ているのか。
分からない。けれど、彼が苦しんでいることだけは本当だ。
苦痛に歪む表情は、泣いているようにも思えた。
その彼を頭を包むように抱きしめて、潰されていない左腕で彼の頭を撫でた。
声をかけても起きないのなら、彼が起きるまで待たなければならない。救急車を呼ぶことも考えたが、彼はバーニッシュだ。下手に検査をされてしまったら、どうなるか分からない。

汗に濡れた髪と、断末魔のような声を聴きながら、ただただ言葉をかけ続けた。

「痛いね、辛いね。大丈夫だよ、俺が側にいるから、大丈夫、大丈夫」

聞こえていなくてもいい。ただ、私がそう言っていないと胸が苦しくて仕方がなかっただけだった。


数時間たって、窓の外が明るくなったころ。
クレイさんの悲鳴は小さくなり、荒い息をしながら、固く掴んでいた手の力を少しだけ弱くした。
それに抱きしめていた腕を少し離して顔を見る。
苦痛で消耗し、焦点の合わない目をしているクレイさんがそこにいた。

「が、ろ……?」
「……うん。そうだよ」

舌足らずに名前を呼ぶ彼に、作ろうとしていた笑みが作れずにただ返事をした。

「まだ、痛い?」

私の言葉に、僅かに目を見開く。合っていなかった焦点がようやく結ばれた。
クレイさんが咄嗟に、というように左肩から手を退ける。

「痛く、ないよ。大丈夫」

笑みを作ろうとしたその額に、汗が流れ落ちる。
薄く開いた目の色が、燃えるように赤くて、また抱きしめた。薄い胸板に押し付けられたクレイさんが、腕の中でビクリと揺れる。

「っ、ガロ?」
「覚えてるかな、俺が退院するときに言ったこと」

――クレイさんは英雄かもしれないけど、辛くなったら誰かに頼ってね。痛いのを、我慢しないでね。苦しいのに、笑わないでね。

別に、覚えていても、いなくてもどちらでも構わない。
でも、知っていてい欲しい。

「苦しい時は、泣いてもいいんだよ、クレイ」

我慢には、限界がある。耐えるのには苦痛が伴う。
痛みは心を蝕んで、いつしか罅が亀裂に代わり、その心を砕いてしまう。
それぐらい、私にだってわかるよ。クレイさん。
一人で抱え込まないで。貴方はまだ若いんだ。いくらでも未来があるのに、潰そうとしないで。寿命を削るように研究にのめりこまないで。自分を追い詰めすぎないで。
――苦しいのに笑うのはやめて。

祈るように頭を撫でる。
クレイさんは何も言わなかった、身動きもしなかった。
けれど、ほんのわずかに右手が震えていた。


「……痛いね、辛いね。……大丈夫、俺が側にいるから、大丈夫、大丈夫……」

ただそうやって、日が昇りきるまで呟いていた。

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bkm