- ナノ -

王の話
我が兄は、幼い頃から非常に優れていた。3つ離れた兄は、私の記憶にある頃から様々な知識を使い、あらゆるものを創造していた。時には病人を治す術を、時には新しい商売を、時には新しい必需品を。まるで仙人のように何もかもを知っている兄は、同時に何もかもにおいて正しかった。
賢いものにはそれ相応の知識を、鈍いものにはその者に足りるだけの恵みを。
世の理を理解し、有るべきものを選別する。
だからこそ兄はその知恵を世に広めようとはしなかった。その知恵が人の世を幾らか幸福にすれど、新たな争いの種になることを知っていたからなのだろう。兄は幼き頃から争いや戦を毛嫌いしていた。戦いで勇を競うは男子の花。そう思っていたわしは兄に問うたことがある。
その時に兄はこういったのだ。

「理性で制御できぬ争いはただ歴史を後退させるだけだ。地が荒れ人が減る。そのどこに惹かれよというのか」

そう己が発明した紙に木簡の文字を映しながら顔色一つ動かさずに応えた兄は、この世の誰よりも賢い子供だったのだろう。いいや、時折兄は人と同じように成長するだけの仙人なのではないかと考えることがある。
世を睥睨し、知恵なき人を憐れむ姿はまさに仙人そのものだ。
だが、なぜその仙人のような者が人の子としてそこにあるのか。常々疑問だった。

兄はひたすらに正しかった。間違った知識を振りかざす大人を知恵で矯正し、知恵なく悩む者に恩恵を与えた。だが兄の興味のあることといえば、新たな知識と実践だけだった。書簡を読み漁り、己が知識を形にする。人に興味はなく、ただそこに在る知識だけを欲していた。
己がまだ知らぬ知識を得るために人としてそこにいるような人であった。
だが――兄は人らしさもあった。人が助けを請えば憐れみ、それを助けた。
そして――知識を欲した者の中で、選ばれたものだけに知識を与えた。僅かな者たちだけであったが、その中にはわしもいた。誰よりも兄から知識を得たであろう自覚はある。家族という枠組みに頼り、出来るだけ兄の側にいるようにした。礼儀を徹底し、兄に呆れられぬように精進した。
兄の知識は、身近なものからまるで理解できぬ別世界のようなものまで幅広かった。兄の言葉が、知っているはずの言葉であるのに理解できないことも多々あった。
それでも兄は私に知識を与え続けてくださった。私が理解できぬ箇所は私の頭が及ぶ範囲は事細かく教え、そうでない部分は知らなくともよいと断じた。

「お前は大物になる」

兄は時折、知識を授ける中でそういった。
兄がそういうのならば、そうなのだろう。だが大物というものが、どういったものなのかは私は分からなかった。だが、官職を得て政を動かす人物になることを、あの兄が大物というだろうか。いいや、もっと大きな何かを行う人物を大物というのではないか。
だが幼いわしはそれが何かは分からなかった。
しかし推挙された際に、同じく推挙されていた兄に共に行きましょうと告げた。だが兄はそれを良しとはしなかった。お前だけで行けと、私はここですることがあるのだと。あの兄がそういうのだからそうなのだろう、そう分かってはいたものの、自分と共にしてくれないのかと心苦しく思ったことを覚えている。
そうだ――わしはいつの間にか、兄を知恵を持つ恐るべき仙人のような方というだけではなく、心のよすがにしていたのだ。この方にずっと学んでいたい、この方と共にいたいと。
しかしそれは甘えだ。そしてわしの未熟さを兄はとうに理解していた。

「お前は未だ幼い。己が不足を知り、そして磨け。惑わされるな。そして時が来た時に……迎えに来い」

兄からの教えは常に重みがあった。
だがその言葉は今までのどれ程よりも重かった。しかし共に、慈しみがあり、兄がこの世で動く希望があることを示していた。
わしは兄に見放されてはいない。寧ろ期待をされているのだ、と感じると同時に兄の活躍を思い興奮した。それがいつになるかは分からない。だが、いつの日か。
わしは兄の期待に応えるべく苛烈なほどに職務に当たった。
そして一つ事が落ち着き、実家へと戻った際、わしは驚くこととなる。

「兄様、その顔は」

兄の口元には髭があった。今までは不衛生であり非合理的であると言って憚らなかった。それに習ってわしも必ず剃るようにしていた。兄は少し顎をなぞった後に、わしを見ながら言った。

「不衛生で合理性に欠ける。だがこの時代は威厳というものが宿る、それも非合理的だが――僅かならば、それもまた必要なこと」

そう言った兄の手がわしの顎に触れる。見つめられた時に、お前もだ。と言われていると悟った。
兄は過去を嫌う。意味のない迷信を、無駄な習慣を。その一種だと断じていたそれを受け入れるということは、この時代を受け入れるということなのだろう。
それに兄がこの時代での生を受け入れるのだと理解した。わしが大物になると予言するように、兄もまた世を変える大人物になるのだと。そして……あの時の言葉、わしに『迎えに来い』と。
巷では既に漢の終わりが近いことを皆が噂していた。悪徳の徒である十常侍、民衆が起こした争いである黄巾の乱。国の瓦解は、後僅かまで迫っていた。
だからこそ、わしは準備を始めた。武を磨き、仲間を得た。夏侯惇と夏侯淵、曹仁。こやつらは既に兄を知っていた。だからこそわしと共についてきた。
兄ならばこの世を変え、そして楽園へと導くであろう。その舞台を整えなければならない。

そして時は来た。
皇帝を人質とした悪逆の徒董卓を討つべく檄文が発せられた。今ここ以外で、いつ我が兄が世に出るというのだ!
だが、迎えに行った先、兄は私を見てどこか神妙な顔つきをしていた。

「兄様?」
「ん、ああ。なんだ?」
「どこか上の空だったようですが」
「ああ……お前も立派になったものだと思っていただけだ」
「私など兄様に比べればまだまだです」

兄に倣い、髭も生やした。
元譲たちからはようやくかと言われたが、ようやっとわしも兄に認められたということだ。
兄がわしの顎を摩る。いつか己の髭を触ったようにされ、喜びが湧いた。
だが、兄の顔色は晴れない。

「どうかされましたか?」
「……髭を生やすようになったのだな」
「はい。今までは剃って参りましたが、兄様が生やしておりましたので」

やはりどこか思う部分がある表情をなさる兄に、わずかな不安が浮かびあがる。わしはまだ兄に認められていたわけではないのか。

「似合いませぬか?」
「いや、男前になったな」

すぐに来た返答に、思わず頬が緩む。兄の前ではできるだけ賢い顔をしようとするが、兄のまさに仙人のような言葉や知識に驚き、時折与えられる褒美に思わず顔が緩んでしまう。
だが、兄の顔はやはりすぐれない。今は昔の様に喜んでいる場合ではないと感情を平淡にし、兄に向き直る。兄もすぐに本題を口にした。

「それで、私を迎えに来たとは?」
「はい。この度袁紹の檄文にて董卓を討つこととなり申した。我らが軍の大将に兄様を頂戴したいのです」

私の言葉に兄の息が止まったのを察し、背にわずかに冷や汗が流れた。

「吉利、もう一度言ってみろ」
「はっ……我が軍の大将を、兄様にと申しました」

圧を感じる声に、固く手を握った。兄は、愚かなものを見るとまるで鬼のようになった。それがわしに向けられることはなかったが、常々恐ろしく感じていた。兄の様子にではない、兄に『見捨てられた』様子にだ。今、それが己に向けられている。だが、だがここで引いてはならない。
口を固く閉ざし、圧に耐える。だが、兄から放たれた言葉に突き放される。

「断る」
「っ、何故です! 兄様ほど上に立つに相応しい方はいらっしゃいません! 今ここで董卓を討てば、次の統治者は兄様となったも同然でございます!」

そうだ。ずっとわしはそれを夢見てきた!
聡明なる兄が天下を平定する、それが世の幸福ではないか! それをなぜ。
兄様はそれを受け入れたのではなかったのか! 兄様言ったはずだ、わしに迎えに来いと!
思わず語尾が荒くなる。その様子に目が細まり、鋭い眼光がわしを射貫いた。

「黙れ曹操」
「っ」

その言葉一つで身動きが封じられる。
恐ろしさに心の臓腑が掴まれ、耳元で鼓動が鳴り響いた。
兄の言葉には力がある、それはまやかし等ではない。人を動かし力を与え、そして奪う。それを術ではなく己が知恵で行う。

「戦はお前が合っている。私は血を流す場にいることは出来ん」
「しかし……!」

兄が戦を嫌っているのは知っている。それによって文明が破壊されることを忌諱しているのも。
だが、今の世は戦にて世を治めなければならない。国が一度瓦解するのだ、作り直すためには力がいる。
首を横に振る兄に考え直してほしいと口を開こうとすると、烈火のような言葉が飛ぶ。

「くどいぞ、そのような時代遅れの場に私は合わんと言っている!」

それに言葉が詰まる。ならば、貴方はどこで生きるのか。貴方が表に出ることは、この時代ではやはりないというのか!
先を見る英知を持つその人は、しかしわしの目を見て続きを紡いだ。先ほどまでの勢いが嘘のように、しかしその力強さはそのままに。

「お前ならばこの乱世を収めることが出来るだろう」

その言葉に、息をするのを忘れた。
兄は――兄は、わしに天下を治めろというのか。
考えたことは、確かにあった。兄ではなく、自らがこの天下に名を響かせる。だがどう想像をしたとしても兄を超える国を創ることは出来ない。王は兄であるべきだ。そう理解せざるを得なかった。
卓越した知識にそれを実現する行動力、そして人を魅了する人格。そのすべてが兄にはあった。
その兄が、わしに天下を治めろという。
兄がまっすぐにこちらを見る瞳に、ようやく理解が及び、静かに息を飲んだ。
兄は、わしに迎えに来られるのをお待ちくださっているのだ。
中華を平定し、兄の知識が思う存分実現できる場を用意しろと仰っている。
大物になるとは、兄は恐ろしい。世を収める人物を、ただの大物と片付けるか。だが、そんな兄だからこそ。

「なれば――貴方様が満足する世を、差し上げましょう」

お待ちくださいませ。この曹孟徳、必ずやこの世の全てを兄様に。
すぐ、迎えにまいります。

prev next
bkm