- ナノ -

この首筋を捧げよう
ギリシと真っ暗闇の中で棺の軋む音がする。
脆いようで頑丈なそれは久しぶりに受けた重みに悲鳴を上げるも、かすかな音をさせただけで騒々しくはない。
地面深く、文明の明かりも蝋燭の光も月光さえも届かない地下の部屋に心わびしいほどの音を立てたその棺は、そうしてまた沈黙を保つ。

棺に音を立てさせたのは、やってきた者の最低限の自己主張だった。
何故ならばこの部屋の主はとっくの昔に彼が来たことを察知していて、それを踏まえたうえでここまでの侵入を許し、なおかつここまでの接近を許しているのだと理解しているのだから。
そうしてそれをさせた張本人はただ棺の中に納まり、目の前に覆い跨る彼をただ見ていた。
こんな行動にでた彼の全てを見通しているかのように、こうなることを知っていたかのように、いつもどおり中身の見えない表情をして彼を眺めている。

そうしてすべての事を自らの意志で行った彼自身は、目の前にいる何も変わらない表情の吸血鬼と呼ばれる化け物を見て、こちらもいつもどおり笑っていた。
笑うというより微笑んでいるのか、達観したような柔らかな微笑でいつも彼が自らの主(インテグラ)に仕えているときによく見られる表情だった。
しかしどこか目はいつもより細められており、その瞳に浮かぶ色はどこか濁り――この暗闇にあっても輝いている。
その色は狂気に溢れているようで、実際、それと抑えきれぬ些かの興奮で彩られており、それは見ている側にとっても美しいとさえ感じられるものであり、現実に覆い跨られている吸血鬼自身もそう感じていた。

そうして長い沈黙のなかで、ようやく彼は問うた。

「こんばんわ。どうした、ウォルター」

彼にしては至極当然の質問で、それに答えるのが相手の為すべき事項だと考えていた。
だが、それと同時にこの執事はこんな質問には答える意味も持っていないだろうとなんとなしに理解していた。

彼は、目の前にいる、どこか美しくも狂おしい色を帯びた執事が思っているような人物ではなかった。
それは彼自身が自らに下している判断だが、長年同じ組織で動いてきた同僚として、彼は自分のことを買いかぶりすぎていると昔から分かっている。
ならば、こんな突拍子もない行動も想像が付く、こんな行動に至った思考は、残念ながら分かりはしないが。
内心、吸血鬼であり、もはやこの世界最強の化け物ではないかと理解するものには理解されている彼だが、この状況に叫び出したいぐらい動揺していた。ついでにパニックもしていた。
何故なら彼はその薄ら笑みの鉄仮面の下に、へたれ、怖がり、泣き虫といった、人としては当然の感情を持ち合わせていたからだ。
しかしそれは彼の数百年前のちょっとした暴走と、その後の展開で仲良く彼の内深くに潜められることになり、薄ら笑いバージョンの鉄仮面が出来上がるわけなのだが。
残念ながら目の前の執事である彼は、そんな数百年前から彼を知っているわけでも、そういう経緯を聞いたことがあるわけでもないので、知りもしないこと。

そういうわけで内心の嵐のような感情に追いついていない彼は、今の状況に驚くことも出来ずにただいつもどおりの薄ら笑み。
この数百年で培ってきた冷静に判断できる思考の半分で、どうにか言葉を紡ぎ出している状況だったりした。

そんなどこまでも人のような彼だが、能力はもちろん吸血鬼、それも“最強の”という言葉がつくほどの力を持つ彼は、この暗闇でも易々と目の前の彼が、いや、この屋敷全体が認識できた。
だから彼は見た、目の前の執事が笑みの色を濃くするところを。

「こんばんわ、アーカード。今日は少し、」

目の前の執事は、アーカードと呼ばれた彼の想像とは逆に、すんなりと答えを口にする。
そうしてそのとき、更に細められた目と深く刻まれた笑みと共にできた皺に、彼にぞくりと興奮と似たような感覚が過ぎった。

「お前に血を吸ってもらおうと思ってな」
「血を? 私に? この吸血鬼の私に、血を分け与えるというのか」

馬鹿をいうなと暗に伝えるような口調と言葉で、変わらずおかしな笑みを浮かべる執事に彼は問う。
こうなると、彼の頭はぐるぐるのぐちゃぐちゃで、もうどうしていいか色々分からなくなってきていた。
だってそうだ。今まで同僚で、最近復活して久しぶりという感覚もないまま出会い当然のように老いていて、その彼から行き成り夜這いされて血を吸うだと?馬鹿げているにもほどがある。
血を吸うとは、命を分け与えるということ。血は命の代価だ。それを分け与えるとはその自らを売ること――しかも執事が言っていることは、きっとそれだけではない。きっと、吸血鬼自ら執事を吸血するということなのだろう。
それならば、その後の結果は見えているはずだ。この屋敷にいるのなら、このヘルシング家に使えているのならとっくの昔に理解しているはずだ。吸血された非童貞・非処女が、例外もなくグールになるということを。
童貞や処女は吸血されても、自由意志を持つ吸血鬼となる。自らの意志は化け物ながら残るわけだ。しかしグールは違う。グールとは紛れもない吸血鬼の手先だ。意志をなくし、みすぼらしくも腐った姿を曝け出しながら母体のためだけに動く人形のそれだ。

だが、目の前の執事はなんといった?自らそのグールになる?
それはこの後の人生を、いや今まで生きてきた半生をすべて棒に振る行為と同じようなものだ。人間としての尊厳を失い、化け物の、しかも下級のゴミになりさがる。
元ゴミ処理係がそのゴミになるとは、笑い話にもなりはしない冗談だ。

真っ暗な空間でこちらが見えているのかも怪しい、昔の記憶とは違う、随分と老いた執事をやはり薄笑いを貼り付けたままに会話をする。
それは遠まわしに阻止するための言葉だったはずだが、片や、人の情を欠いた不気味さや愉快さしか感じさせない冷たい薄笑いをしながら混沌の瞳で彼を見つめる吸血鬼。
その気遣いは彼でなくとも伝わることなどないだろう。

「本気か?」
「あぁ、私が冗談をいうとでも?」

むしろ冗談のほうがよかったといえないのは彼が本気で困惑しているのと、ただチキンなため。
狂喜の色で瞳を染める相手に、強く出られないただの哀れな化け物なのだ。
しかし、それだというのに彼は不可思議な感情を抱いていた。感情というより衝動、不可思議というより生理的な、それ。

人としての生命活動があるはずがない彼の体が、疼く。
口から涎が出るように、目の前の“もの(彼)”が欲しくなる。

それは既に生理現象だった。
彼が吸血鬼となり、人の血を吸う。それは当然の行為であり、そうしていなければ生きていけなかった。
だから、彼は何百、何千、何万の命を吸ってきた。
鋭く変化した犬歯を突きたて歯を首筋へ抉り、吹き出す血を躊躇いも無く汚らしく啜った。
その食餌は、化け物の彼にとっては麻薬のようだった。それはそうだ。人と同じような欲求がなくなった変わりに、分かりやすい欲求が吸血鬼には植えつけられるのだ。
“食”それは血を吸う行為。それは、酷く愉しく旨く美味だ。

ゴクリと喉が鳴る。
随分と老けたものだ。半世紀も前は生意気な子供だったというのに。
言葉遣いも荒い執事、そして人間として最強と謳われていた。そうして更に成長するにつれその力と技術は増していった。
彼が使う鉄線は美しかった。縦横無尽に広がるその線に逃げられる敵などいなかった。
身体を締め付け、四肢を切り去る。手加減をしなければ一瞬の出来事に死さえ気付くことはできない。

それを私はどれほど恐ろしく思ったことだろうか。
彼からの好戦的な視線は常に感じていた。幼い頃はただの興味本位だったのだろう。しかし時間が経つにつれそれは殺意に変わる。
針で心臓を刺されるようなそれに、どれほどビクついていただろうか。日常に、仕事中にふと感じるそれに、どれほど体が疼いたことか。
その視線の鋭さの、なんと美しきことか。

彼は美しかった。その鉄線は見事で、その瞳はぎらついていた。
そうして彼は老いた。顔には皺が刻まれ、筋肉は衰え、視力は弱くなった。ならばその鉄線の切れ味も落ち、その視線の鋭さも濁ったことだろう。
ああ。だが、彼は昔よりも、何倍も、何千倍も、何丁倍も、美しくなってしまった。

彼は老いた。彼の身体は衰えただろう。しかしその姿勢は変わらず、その鉄線はいまだ手にあり、その視線の鋭さはその半生で得た落ち着きや礼儀、背徳や道徳、絶望や希望で濁りを交え、更に美しく輝いている。

彼は思う。酷いことだと。
こんなもの、食べてくれといっているようなものだ。
目の前の執事の首元は既にはだけている。ここへ来る前に解いておいたのだろう、ネクタイが解れ、ボタンが開けられている。
そこから見える白人特有の白い肌が、吸血鬼である彼を誘っているようで、酷く官能的だ。
それもこれも計算済みなのか。柔らかに笑う彼に問うことはないが、それさえも老いたことで得たものだ。それを感じると、やはり老いた彼のほうが愛しく思える。

無意識に手が伸びる。
手袋をしたままのその手は、暖かさを一切持っておらず、氷ほどに冷たい。
しかしそれを拒むことは一切なく、むしろ待ちわびたように微笑み続ける執事に、彼はその手をその首筋に滑らせた。

つう、と指先がその線をなぞる。
くらり。と滑らせている本人のほうが頭が揺れるような気がした。
いつもこうだ。私はとても、欲に弱い。吸血鬼としてのそれは当然しかるべきなのかもしれないが、私としてはどうにかしたい事柄だった。
今回は尚更だ。執事の言うとおり飲む気など一切ない。一切ないはずだというのに、このまま首を強引に開かせ噛み付いてしまいたい衝動に駆られている。
欲に負ける。そうなれば、私は私でなくなる。理性など放り投げて、本能で行動する本当にただの吸血鬼になってしまう。
いや、本当に辛いのはそうして欲に負けたとしても、理性が残るところか。意思は残るのだ。欲に負けたとしても、本能で動いているとしても、思考は正常に働いて、そうしてその思考を元に本能で行動する。それが一番辛い。
へたれや弱虫怖がりは引っ込むくせに、理性は残るとは何事なのか。

だから、吸血鬼は彼の血を吸えないのだ。
本当で吸うのなら後々後悔すればいいだけの話だ。しかし彼は彼の意思で欲に負け、そうして執事の血を飲まなければならない。
それは酷く背徳的で、強い誘惑。

ゆっくりとなぞった指が頬に到達して、そのまま顔を手の平で包み込む。
昔は赤面ぐらいしていたものだが、今では余裕の笑いよう。
それが憎く、そして愛しい。

「グールとなってどうする? お前は完全に私の言いなりの腐った人形になるのだぞ」
「そのつもりさ。そのぐらい知らないとでも思っているのか?」
「なら何故だ。お前は長年の野望も成就することなく、お前自信の全てを失うことになるというのに」
「ックック」

耐えられずに笑う。
彼が聞くこと全てが今まで自らが悩んできたことをそのまま言い当てている、その事実が今になっては酷く面白いことだった。
今までだったのならば、苛立ち殺意を投げかけるだけだっただろう。
しかしと彼は思う。彼は、気付いてしまったのだ。
彼は、昔から考えていた。吸血鬼のことを。最初はただの警戒だったのかもしれないし、好奇心だったのかもしれない。
だが、いつの間にかそれに取り付かれていた。魅了されていた。そうとしかいえない状況になっていたのだ。

そうして、ここまできてしまった。
薄い笑いだけを浮かべ続ける吸血鬼。それを見て、20年前となにも変わらないと歓喜する。
私は老いた。この半世紀で、体は衰え、力と技術は落ちた。しかし、彼は変わらない。何も、何一つ変わらないし変われない。

そうなれば、いい加減気付くものだ。
このままでは置いていってしまうと、このままでは置いていかれてしまうと。
なら、たどり着く答えなど一つしかない。

彼と、同じになればいい。
それが、どんな結果になったとしても。どんな法外な利息がついたとしても、それが、次の日に滅びるものだったとしても。
彼と並べればいい。彼とまた同等になれれば、こんな吸血鬼を打倒できるほどの肉体が戻ってくれば、それだけでいいのだ。
しかし目の前の吸血鬼は、夜這いまでしたというのになかなか手をつけない。
それは、私の内面をのぞき見ているからか、それとも、そうした上で手をつけないのか。まさか躊躇しているとでもいうのだろうか。

だが、それがどうしたというのだ。そんなことは、もう関係がないのだ。

「それが、どうした」
「ウォルター?」
「それがどうしたというのだ。ただグールになるだけだろう?
 意志を失い、動き回るだけの貴様の手先になるのだろう。
 そんなのはご免だ。真っ平ご免だ。
 私は、私の意志でお前に吸血しろといったんだ。
 私の意志で人間をやめるといった。
 ならば、私はただのグールになどならない。なるはずがない。
 意志がなくなるというのなら取り戻す。貴様の手先になるのならその糸を私の糸で切ってしまおう。
 私は私の意志で化け物になるのだ。分かったか?アーカード」

何かが吹っ切れたように言い切った執事は、その笑みを消していた。
ああ、そんな真剣な表情は、あのころと変わらない。
吸血鬼は笑みを潜めた。自らの意志で、笑みを潜め、目の前のウォルターを見た。

老いた彼は美しい。
その首元は暗闇のなかでも白く光って、赤が綺麗に映えるだろう。
元とはいえゴミ処理係、そうして人間最強の男の血は、どれほどのものだろうか。

そうして、私は先ほどのウォルターの言葉を何十にも頭の中で繰り返し、何回も噛み砕き理解し、そうして笑った。
薄ら笑いなどではなく、本心の、愉快で愉快で愉しくて楽しくて嬉しくて仕方なくてでた、自然な笑い。

嬉しい。嬉しいよ。ウォルターがそんな、馬鹿げたことをいってくれるなんて。

「く、クックククク、ただのグールにはならない? 意志を取り戻す? 手先になどならぬ?
 ックックッククク 面白い、面白い!!ありえないほど馬鹿な話だ、だが、気に入った」
「馬鹿なものか、真実になるのだ」

私の目玉は、きっと今狂喜に溺れていることだろう。
酷く愉快そうに、そうして壮絶に笑う目の前の吸血鬼は興に乗ってきたといわんばかりに気分が高揚している。
私の顔から手は離さずに、むしろ近付く勢いで笑い続けている。

ああ、そうだ。早く、早くしろ。でないと、あの方がやってきてしまう。

私と同じ狂喜で濡れるその瞳は、私を誘っているかのようで、これからくる結果に胸が鳴り響く。

「なら、その首を差し出せ。お前のすべてと共に投げ出せる覚悟があるのなら」
「そんなもの、とっくの昔に持っている」

そのために、お前を起こしたのだから。

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