- ナノ -

14,「……へ?」
「淵じぇえええええええる!!」

聞き覚えのある可笑しな単語を耳にして、ある人物の顔が夏侯淵の頭にパッと浮かんだ。
その顔は、人生の中でずっと見てきたものだが数十年前の、笑みではち切れんばかりの表情をして駆けてくる男のものだった。
現在のような、全く笑みを見せない、仏頂面というよりも無表情という方がピッタリと来る表情ではなく。
今ここで生きているんだと主張している顔をしていた。

「生江ッ、ぶほっ」
「うおおおお! 相変わらずのぽっちゃりフォルム! 流石俺の淵じぇる! なんて柔らかな腹なんだ! 俺は今トトロにへばりつくメイやサツキのような気分だ! 俺は! 今! 感動! して! いるッッ!!」

ふおおおお! と奇声を発しながら夏侯淵に抱き着く生江はただの不審者でしかない。
どうやら鍛錬でもしていたのか汗を流し息も荒く、それが気味の悪さを倍増させている。
夏侯淵は力の加減を間違えたのではないかと思われるほど強く抱き着いてくる生江にしばらく沈黙した。

「……生江」
「おう! 俺の淵じぇる!」
「戻ってくんのがおせぇよ馬鹿野郎!」
「ええええ! 淵じぇるが俺のこと馬鹿って言った! ひどい! ……しかしこれはこれで」
「なにがこれはこれでだ!! 俺がどんな想いしてたと……!」
「えっなになに淵じぇる。俺を想って泣いてくれたの? いやーんほんと淵じぇる天使だなぁ!! プリティーだよ! なんでだよ! お前もうオッサンじゃん! なのに魏の淵じぇるとかどういうことなの!? そんなところが大好きです!」
「生江もおっさんだろ!」
「えっ、俺がおっさん……えっほんとだおっさんだ。どうしよう淵じぇる」
「俺に聞くなよ!」

生江の相変わらずの会話量に怒りの言葉をくじかれながら、それでも夏侯淵は必死に怒りの形相をして見せる。
しかしそれさえも可愛いと満面の笑みでなんのためらいも無く言ってくるのだから、夏侯淵は徐々に怒りを霧散させていく。

「俺、淵じぇるの怒った顔も珍しくて好きだけど、やっぱり癒されるあの笑顔が一番好きだなぁー」

そうしてそんなことを思い出し笑いをされながら言われてしまい、夏侯淵は完全に怒りよりも別の感情に呑み込まれた。
嬉しい。一言で表せばそれだけだった。
何十年もの間、性格が裏表逆になってしまったかのような従兄弟を見ながら、夏侯淵はずっと心配していたし距離を取られたようで寂しさを感じていた。出会った当初はその突拍子もない性格に驚き頭が可笑しいと思っていたものの、話してみれば喜怒哀楽がはっきりしているし、思ったことは直ぐに言って、こちらがどれほど嫌な顔をしたとしても絶対に好意を伝えることをやめなかった。自分たちの何が生江の感性に触れたかはしらないが、どんな不利な状況になっても生江はなんの裏も無く夏侯淵たちの味方でいた。
そうして、ずっと笑って、時折予言のようなことを言いながら自分たちを陰ながら導いていた。
笑い声は煩くて、沈んでいる時の輝かしいほどの笑顔は鬱陶しいと思うときもあった。それでも、笑い声は生江がいつも通りであることの印であって、変わらぬ日常を思い出させてくれるものだった。輝かしいほどの笑顔はこちらの闇を取り去って心を和らげ、そうして笑みを与えるほどの力があった。
だからこそ夏侯淵は生江から笑みが消え、性格が変わったという話を聞いて病だと思ったし、生江の言った二十年後――平和になった世をずっと待ち望んでいた。

生江は笑って変なことを言って、そうして無類の信頼と好意を変わらず寄せてくれる。
馬鹿なことを言って、変にスキンシップが多くて、変人で、こんな年になっても子供のままだ。

「俺も、お前の笑った顔が一番好きだよ!」
「えっうっそ! 相思相愛!? 郭嘉に次いで二人目じゃん、俺モテ期!?」

無邪気に喜ぶ生江に夏侯淵の顔に笑みが広がる。
それを見て騒いでいた生江がニカッと笑った。

「そうそうその顔! この顔に張コウも郭淮も落ちたんだろうな!」
「落ちたってなんだよ落ちたって」
「そのまんまの意味だぞー淵じぇる!」

まるで犬か猫に対するように生江が夏侯淵の頭を縦横無尽に撫でるが、それを受けても夏侯淵の笑みは変わらなかった。
以前から背の高いこの男は夏侯淵を目の前にすると毎回こうしてくる。当初は嫌がっていたものの、その時の笑みが楽しそうで何よりも拒否するとまるで玩具を取り上げられた子供のような表情をするのだから仕方なく許可していたら、それが挨拶代りのようになってしまった。
そうして毎回

「これをお前の可愛い息子にもしてやるんだ!」

そう、子供もいないのに夏侯淵に言うのだ。
しかし、今回は違う。

「おう、してやってくれよ! 俺の息子は可愛いぜぇー!」
「そうか! もう夏侯覇がいるのか! 人間ハムスターだな!」

はむすたーというのがなんなのかは知らないが、どうせ生江の言うことだ。深く聞く気はなかった。
寧ろ意味の解らない言動をずっと聞いていていたい気さえしていた。それぐらい、生江に飢えていたのだ。
何十年待ったのか。ずっと待っていた。

「にしても夏侯覇は姜維とかと知り合いになるのかねー! でも蜀ないしなーでもなーどうなんだろうなーあー髭触りたかったなぁー関羽の髭髭ー首に巻いてマフラーにしたかったなぁー」
「関羽?」

夏侯淵の髭を触りながらそんなことをいう生江に夏侯淵は触られながらも首を傾げる。
周囲の目がそろそろ生江という姿をした不審者に対する緊張感で張りつめてきたが、そんなことは二人には関係がない。
夏侯淵は首を傾げながら指摘する。

「なら触らせてもらえばいいじゃねぇか」
「へ? 何言ってんだよ淵じぇる〜魏が天下統一してるってことは蜀の奴らは皆――」
「生江殿? 何をしていらっしゃるのだ?」
「……へ?」

今日はちょうど、生江が言っていた“蜀の奴ら”が都へ訪れる日だ。
当然こちらへ挨拶へ出向くだろうし、それに伴って髭を触りたいと言っていた主もやってくることだろう。
そうして狙ったかのようにやってきた彼らの一人が生江に声をかけてきた。
それに、夏侯淵は生江の豹変ぶりに驚くだろうとほくそ笑みつつ生江と共に目を向ける。

「なんだなんだ喧嘩か! 俺も混ぜろよ!」
「何を言っている翼徳。生江殿。久しいな」

そこには蜀の皇帝“だった”劉備と、その義兄弟である張飛と関羽がいた。

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