- ナノ -

01

実は私、今記憶喪失なんです。といって信じてくれる人はいかほどだろう。
正直それを証明する術さえ失っているので、おそらく見た目も相まって冗談を言っている子供と認識されてしまうだろう。そう、私は今どうしたことか中学生から高校生ほどの少年なのだ。
しかし記憶喪失なのになぜ少年であることが「どうしたことか」なのか。それには別に深くもない理由がある。なんか滅茶苦茶身体に違和感があるからだ。主に男性器とか主に年齢とか。股にぶら下がっているそれがなんとも慣れないし、年齢も少年とは思えない知識を持っている。簡単に言うとオタク的な腐女子的なあれなのだが……。そういった知識が今の状況をおかしいと訴えてくる。とはいっても自分の家の住所まで忘れている記憶喪失なのでおかしいからといってそれを証明することはできないのだが……。

さて、目が覚めたら少年で記憶喪失だった私だが、実は衣食住には苦労していない。なぜなら私の身を保障してくれている男性がいるからだ。彼は倒れている私を拾ってくれたらしく、目覚めてから一ヶ月ずっと世話を焼いてくれている。最初は驚いたし無礼にも警戒してしまったが、悪いように扱われるわけでもなく、私の状況を詳しく説明してくれた上、家に住むことを提案してくれた。
警戒を解いた後は警察に行こうかと思っていることを告げたが、どうやら彼は警察に伝手のある職業らしく手を貸してくれるという。どんな職業かはふわっとしか教えてもらえなかったが彼も警察関係者とのことで、公務員らしい。免許のような物も見せてくれて見慣れないながらにしっかりとした身分証明書に目を瞬かせてしまったのはよく覚えている。なにやらヒーローなんとか、などと書かれていたカードもあったのだが、ヒーローなんとかについて聞いたら驚いた顔をして別の証明書を見せてくれた。もしかしたら何か別の会員証のようなものだったのかもしれない。ヒーローというのがなんとも子供っぽいが、大人になっても子供の心を忘れないのは良いことだと私は思う。私だって幼心はいつでも持ってるからね! 今はマジで子供だけど!

しかし一ヶ月も家の中で過ごしていると少し気が滅入ってくる。
私を保護してくれた男性――鷹見啓悟さんからは、もしかして何かの犯罪に私が被害者として関わっており、外に出たらまた目をつけられる可能性があるから、私のことが何か分かるまで外には出て行けない。といわれてはいるのだが……。理由は理解できるが、それでも鬱屈とした気持ちはどうにもならないもので。
一歩も外に出られないどころか、テレビや新聞などで外の状況を知れないのは辛いものだ。

『退屈させてごめんね。色々持ってきたから、これで暇を潰してて』

別に、やることが何もないわけではない。本や携帯ゲーム機、カセットなどは鷹見さんが申し訳なさそうな顔で驚くほど大量に持ってきてくれた。鷹見さんが用意してくれた私の部屋にはそれらが敷き詰められておりあと半年は閉じこもっていられるであろうぐらいだ。
が、やはり外の空気は吸いたいもので……。窓も防犯対策ということで元々はめ殺し式で作られたアパートらしく窓すら開けられない。換気扇があるから空気の流れが悪いわけではないのだが、気分的な問題だ。

『今日も収穫なし。でも大丈夫、俺がなんとかするからね』

鷹見さんが帰ってくる時間はいつも遅い。土日も家にいることはなく、この一ヶ月で仕事に出て行かない日はなかった。けれど早朝や深夜に必ず私の元へやってきて今日の成果を教えてくれる。
できるだけ私も起きているようにしているのだが、鷹見さんは『無理しないで』と言ってくれるため時折ベッドの中でうつらとしながらそれを聞く。
安心させるように頭をなでながら、優しい口調で伝えてくれる鷹見さん。元々子供が好きなんだろう、とても丁寧に私に接してくれる。あまり一緒にいる時間は多くないが、それでも目に見える形、目に見えない形で私を支援してくれているのが分かる。
そんな彼がいてくれるからこそ、こんな状況でもそれほど不安を感じずに過ごせているわけだ。元々が楽天家と言うこともあるのだろうが。
半分夢の中にいながら、鷹見さんの柔らかなそれを聞きつつ、再び眠りの中に戻っていく。私はその時間が嫌いじゃなかった。まるで親に愛されているかのような少し特殊な安堵感。全くの赤の他人の彼に感じるのはおかしいとは思うが、それほどに彼は愛情深いのだ。
彼の背には赤い羽根が生えている。それは個性と呼ばれるものらしく、私は妙に感じつつあっても違和感は覚えてなかった。まるでフィクションのようなそれは、しかし彼にあっていた。そういった個性という特徴は色々な人が持っているらしく、しかし私は特に何かできるわけではなかったし、彼にそれを告げれば個性がない人もいる。と聞かされてそうなのかと納得した。彼の背の羽はまるで天使のようで、愛情深い彼にぴったりだと思ったのは秘密だ。

今日は一日一冊を読んでもまだまだ読み終わらないであろう本の中から、上下に別れている一冊目を読んでいた。そうは行っても八割方読み終わっていて、もう少しで一巻目が終わるところだ。
ミステリー物かつコンビ物。探偵役と助手役のいるいわゆるシャーロックホームズとワトソンのような関係性の二人が主人公だ。信頼し合える二人が事件に巻き込まれ、探偵の推理や先回りもむなしく犯人は更に一歩先を進んでいく。それでも食らいつき、ついに犯人の目星がつく――寸前のところだ。
ページをめくる指に力が入る。小説はいまの現状を忘れさせてくれるから好きだ。ゲームも入り込めるものは好きだけれど、セーブや戦闘中の敗北などで現実に戻ってくると窓を見上げてしまったりするので小説の方が没入にはいい。

『まさか、この僕がここまでもてあそばれるとはね』
『分かったのか、犯人が……!』

探偵と助手が犯行現場になった一室で犯人の名を一つ一つ事件を解きほぐしながら導いていく。
どんどんと核心に迫る二人に、固唾を飲み込み次のページへと誘われた――そのとき、まるで小説のように女性の悲鳴が響き渡った。


それからのことは鮮明に覚えてはいるのだが、どうしてそうしたのかはあまりはっきりしない。
ただ女性の悲痛な悲鳴が聞こえてきて、私はパニックになってしまった。だってこの一ヶ月、そんなもの……というか隣人の声さえ聞こえたことがなかったのだから。
思えば、その悲鳴はとても小さなものだったかもしれない。壁に阻まれて彼女の大きな声は矮小なものになってしまっていたのかも。それでも、私には聞こえていたのだ。
驚いて小説を取りこぼし、咄嗟に助けにいかないと。と思ったのだ。なんて言ったって私はスマホなど持っていないし、この家にはどうしたことが電話がない。固定電話がない家もスマホが布教しているならば珍しくもないかも知れないがこのときばかりは恨んでしまった。
私はそのまま玄関まですっ飛んでいって――外への扉が開かないことに驚愕した。鍵は開けたのだ、けれど開かない。そのとき私は扉が壊れていると思ってがむしゃらに開けようとした。もう、腕力で。
けれどどうにも開かなくて、パニックのせいかなんなのか怒りさえ湧き出てきて、腕がどうなってもいい! と思いっきり力を込めたら――手から炎が出た。
いや、もう吃驚どころではなかった。え、なにこれ? え? 死ぬ? と思った。けれど不思議とそこまで熱さは感じずに、寧ろ私を助けるようにドアノブと扉を溶かしたそれにとりあえず考えることを放棄して外に飛び出したのだ。

そこで見たのは特徴的な青の髪色の女性と、その女性の目の前にいる髪の毛がハリセンボンのように尖った男性だった。一瞬、何かのドラマの撮影かと思った。が、周囲にはカメラはないし、女性は腕から血を流していたのでその考えはすぐに消え去った。
それからはもう、全て勢いだった。手は燃えたままだったので、その手を握りしめてハリセンボン男に突撃した。がむしゃらでどんな風に動いたかは忘れてしまったが私の振りかぶった拳はそのまま男の顎を打ち抜いて男は廊下の天井へぶち当たりハリセンボンの髪が天井へ突き刺さり、てるてる坊主みたいになっていた。顎はちょっと痛々しい感じで火傷みたいになっていた。
男は全身から力を抜いており、傍から見ても気絶しているのが分かったので、ようやくそこで私は正気に戻った。しかし自分のしたことが信じられず呆然としていたら、女性の人が恐る恐るといいった風に話しかけてきて、それでようやく状況を整理することができた。

「あの人、私の元彼だったの。ストーカー気質でいやになって。それでちょっと前に別れてアパートも変えたんだけど……」
「そうだったのか。災難だったな」
「あはは、私の見る目がないっていうのもあるけどね。でも、君がいてくれて本当に良かった。じゃなかったら私、死んでたかも」
「縁起でもないな、けど、怪我がなくて良かった」
「ふふ、君のその口調って癖なの?」
「あっ、すまない。その、癖です」
「いいのよ。命の恩人だもの」

緊張が解かれたせいなのか、饒舌な彼女は色々と事件の経緯のようなものを教えてくれた。口調で笑われてしまったが、これは鷹見さんが私が敬語を使うのをよしとしなかったせいなのだ。いつもの口調が次いで出てしまった。気を悪くされなくてよかったが……。
しかし彼女は私がここに住んでいることを知らなかったらしい。というかそもそも鷹見さんの姿も見たことがないとか。ここはなかなかセキュリティーの高いマンションのようで、隣の物音も聞こえないし、生活サイクルが違うためか鷹見さんを目にしたことがなかったらしい。
私というと、久しぶり――というか記憶上初めて――鷹見さん意外と話せて不謹慎ながら喜んでいた。扉も壊して彼女は怖い目にあってしまっているが、それでも人と話すというのは嬉しい。彼女も良い人だし。男は気絶してはいるものの一人でいるのは怖いということで、警察に通報して警察が来るまで彼女と話していることになった。

「ヒーローもこんなところには来てくれないだろうし、本当に死ぬかと思った」
「ヒーロー?」
「ええ、ヒーロー。そうだ、君は誰が好き? 私はやっぱり地元のヒーローだし、ホークスが好きなんだけど」
「いや、ヒーローというのはどんなものだろうか。いや、正義の味方というのは分かってるんだが、何かの作品とかか?」
「え? うそ、知らないの?」
「ああ、その、実は記憶喪失なんだ」
「記憶喪失!? え、ヒーローのことさえ忘れちゃってるの?」
「そう、みたいだ。そんなに有名なのか? ヒーローというのは」
「もう有名どころの話じゃないって! 芸能人とは比較にならないレベルだよ!」
「滅茶苦茶有名なんだな……」
「そりゃそうだよ。君ってニュースとか見ないの?」
「家にテレビがなくて……」
「ええ!? テレビないの? じゃあ新聞とかは? スマホとか、いくらでもあるでしょ」
「新聞も取ってないみたいだ。スマホも持ってない」
「ええ? 君って高校生ぐらいだよね。学校は?」
「行ってない」
「……えっと、ご両親は?」
「その、分かってない。今は保護してもらってるんだ」
「保護……」
「家に住まわせてもらってる。警察関係者だから、何か分かったら教えるって」
「……」

難しい顔をして押し黙った女性。そんな彼女を横目に、私は何かが喉元で引っかかっているような感覚に頭を悩ませていた。ヒーロー、そう、ヒーローだ。そんな非現実的な存在がここにはいるのか。
非現実的で、フィクションのようだ。しかしなんとなく、それを知っているような気がする。私の返答のせいで女性を困らせてしまっている気はしつつも、今はそれどころではなかった。
これが分かれば何か――何か思い出せるような、重要な――そうだ、彼女は、彼女の好きなヒーローは……。

「生江さん!」

ばっと響いた声に、思わず意識がそれる。目線を向けた先には仕事着を身につけた鷹見さんがいた。

「あ、たか――」
「どうして外に……!」
「え、あ、すまない。扉を壊してしまった」
「壊したって、どうやって……」

名前を呼ぶ前に飛びかかられるように抱きつかれ、憔悴した様子で問いかけられる。隣の女性が驚きの声を上げた気がするが、今は鷹見さんだ。あまりにも焦っている様子の彼に、なんとなく私も胸がざわついた。
鷹見さんが視線を向けた先は、私が溶かしたドアだ。鷹見さんに自分の個性のことと扉のことへの謝罪をしようと口を開く。扉を溶かした時はパニックで考えが至らなかったが、私の個性はきっと炎を出すことなのだろう。個性が判明した――しかも少し危険な個性だ――し、お世話になっている彼に報告、そして住まわせてもらっている家を破壊した事を謝罪しなければ。
そう思って名前を呼ぼうとした時に――

「た、かみ」

こちらを見た瞳が、あまりにも鋭くてそれ以上声がでなかった。
敵意、殺気――そういったものではなかった。けれど、その目はまるで親の仇でもみるようなそんな切迫した緊張感があった。ビクリと身体が震えて、初めて彼を怖いと思った。
そう思った瞬間、身体がふわりと浮いて玄関が見えた。それに私は覚えがあった。彼は背の羽を一つ一つ操ることができるのだ。その羽で先ほどのように飛ぶこともできるし、一枚ずつ動かして物を運んだりコーヒーを入れたりを同時にすることもできる。今、私は彼の羽に持ち上げられ、別の羽が家の扉を開けてそのまま玄関へ連れられているところなのだ。

「ま、」
「ごめんね。大人しくしていて。危ないから」

反論を許さぬ冷たい彼の声を聞きながら、扉が閉まるのを見つめていた。


羽はそのまま私を自室まで勢いよく連れて行き、ベッドの上に優しく下ろした。自室の扉は閉められて、慌てて鷹見さんに話を聞こうと扉を開けようとしたところで扉が動かないことに気づいた。
この自室に鍵はなかったはず。そうすると――鷹見さんの羽が扉を抑えているということなのだろうか。
結局私は鷹見さんが帰ってくるまでの間、自室で待つことしかできなかった。

時間は過ぎて時計の針は深夜を示していた。女性と話していたのが昼過ぎごろだったから随分と時間が経った。

ミステリー小説の続きを読む気分にはなれなかった。あと一ページで真相が分かる……。けれど、私はその真相を知ろうとは思えなかった。ミステリー小説というのは、読者も謎解きをすることができる。誰が犯人か、どのようなトリックを使ったか、それらを読者は読み解きながら楽しむこともできる。
私もそうやって読み進めていた。このトリックを使ったのではないか、犯人は探偵の動きをよんで行動したのではないか――だからこそ、犯人も誰なのかを推理しながら読んでいた。
当たり外れはいいのだ、真相を知るところでどんでん返し、もしくは考察通り。そこで全てが解けるのだ。
そして真実を知る一歩前、探偵は徐々に謎を解いて行っていた。この行動が、このトリックが、導き出す一つの答え。ページをめくって、導き出された答えを照らし合わせる。その工程を、私は踏むことを恐れた。

――設置されていないテレビ、置かれていない電話。とっていない新聞。はめ殺しの窓、中からも開かなかった扉。全くの世間知らずの自分。鷹見啓悟さんの、素性。

ここは、私の現状は推理小説じゃない!
小説とは合致しないし、置かれている環境は全く違う。
けれど、推理する過程は、同じだった。疑わしい状況、環境、外に出て初めて気づく違和感。
失われた記憶、思い出せない訳。進展しない状況。警察関係者と名乗る、彼。

「生江さん」
「っ」

いつの間にか開いていた扉から、見知った陰が入ってくる。
背後の光に照らされて、薄暗い室内で彼の陰だけが真っ黒に浮かび上がる。

「話を聞きました。女性を助けたんですってね。さすがです。けど、ダメですよ。貴方にとって外は危ないんですから、勝手に出て危険な目にあったらどうするつもりだったんですか」

一歩、また一歩と室内に侵入してくる彼に、唾を飲み込んだ。嫌な汗が首筋に流れる。
彼を、彼を信頼している。信用している。これは本当のことだ。彼は本当に私によくしてくれている。信用しないわけないじゃないか、だって私には彼しかいないのだから。

「扉まで壊して、全く、目が離せないですね。手のかかる人ですよほんと。ああ、怒ってないですよ。今度はちゃんと耐火性の扉にしておきますからね」

柔らかな口調、優しい言葉。包み込むような、全てを先回りするような言動、行動。

「大丈夫ですよ。心配しなくても」

ベッドの前までやってきた彼は、にっこりと微笑んでいた。壁に背をつけていた私に更に近寄るように、ゆっくりとベッドに乗り上げてくる。目と鼻の先になった彼の瞳に、息が詰まった。

「俺がずっと、見てますから」

いつものように髪に触れた手が、そのまま頬まで滑り落ちてくる。
まるで壊れ物に触るような手つきに、なぜか――なぜか酷く泣きそうな気分になった。


『犯人は、君だよ。僕の親愛なる助手』

きっと、ミステリー小説の探偵は、泣きそうな顔でそう言うのだろう。
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