- ナノ -

目撃



いつからだ。いつから、あの人はあんな顔をするようになったんだ。
いくら記憶を探っても分からない。あの日あの時が初めて目にしてしまった瞬間だった。そのはずだ。私は、あまり褒められたことではないがエンデヴァーさんをよく見ている。だからあの人の表情の移り変わりや特定の癖、ヒーロー活動での動き方などある程度は分かっているつもりだ。だから、あの面持ちはあれが初めて、少なくとも私の前では。
けれどそれは『私の前』での話だ。私がエンデヴァーさんを視界に入れていないとき、あの人だけが私を見ていたとき。私がいくら羽を一つ一つ動かせて振動から情報を読み取れたとして、その表情の変化前では読み取れない。背を向けていた私をあの人がもし見ていたとしたら。あの月が綺麗な夜に、背後で静かに黙っていたあの人がどんな顔をしていたか分からないように、エンデヴァーさんが今までどういう表情で私を見ていたかなんて判らない。

隠していたのかも知れない、それともただ今まで態度に出ていなかっただけか。
それとも、私の思い違いだろうか。あれはただ親しい同僚に向けるだけの顔であるのかもしれないし、家族のいなくなった家で寛ぐ己の子供と同じほどの男に感じた哀愁だったのかもしれない。
そうであってほしい。――そう思うと同時に、そうで会ってほしくないとも強く思う。
胸の中を黒い煙のように侵食していく困惑、動揺、嫌な気配。
自分は、人の好意には敏い方だった。そう思っていた。だからこれまでそれを利用してきたし、便利だとさえ思っていた。周囲の感情を読み取れない不器用な人を、大変だとさえ考えていたこともある。
けれど、あの人の視線から感じ取ってしまった何かに、その全てが逆転した。敏いことは知らなくてもいいことを知ってしまうことだ。ヒーローとして生きるのには最適だったはずの自慢が、今になって私を全否定しようとしてくる。怖かった。


「エンデヴァーさん、血が」

あれから何ヶ月が経ったろう。一ヶ月か二ヶ月か――時間の流れが速くて月日さえも曖昧だ。
エンデヴァーさんとはあれから数度、チームアップで顔を合わせることになった。相変わらずの仏頂面で、いつもと何も変わりなかった。それが有り難くて、そしてゾッとした。顔を合わせているのに、ふと目線をそらした先で、どんな表情をしているか把握できない。以前だったら、すっと浮かんできたエンデヴァーさんの顔が、煙に巻かれて想像がつかなくなっていて、目逸らすことが恐ろしくなった。
だからこそ、嫌に小さな変化にさえ気づく。
ささくれなのか、活動中の傷なのかさえ判らない指についた赤色を発見して口に出してしまった。エンデヴァーさんは訝しげな顔をして、目線の先に目をやって漸く気づいたらしい。

「傷の内にも入らん」
「まーそうかもしれないですケド」

どうやらささくれではなかったらしい傷は、ポタリと一滴だけ血を地面に垂らす。
それに胸がざわついて、仕方なく腰につけたポシェットからとあるものを取り出した。

「どーぞ。応急処置ってことで」
「……そんなもの持っていてどうする」
「そりゃ、パトロール中に転げちゃった子にあげるんですよ」

そういう気遣いが支持率が高い理由でしょうね。なんていいながら絆創膏を手渡した。
実際その通りだ。市民と触れあう機会が多く、子供にも有り難いことに好かれているのでよく集まってもらうし、パトロール中に迷子や危険な目に遭いそうな子を保護したりすることもある。子供は痛みにも敏感だから気を紛らわせるためにこういうものは所持している。絆創膏なら幅もとらないし見た目だけでも血が見えなくなるから誤魔化せるのだ。
エンデヴァーさんは眉間に何本も皺を寄せてから、ゆっくりと絆創膏を指でつまんだ。手を離せば、眉間の皺はそのままに手元に近づけて数秒見つめてから包装部分を取り外しにかかった。
避けるチーズみたいに二つに裂いて、中の絆創膏を使う仕組みのそれ。だが、エンデヴァーさんは身体が大きいとおり、当然指も太い。つまり、なかなか絆創膏を取り出せない。
珍しい光景を眺めていれば、エンデヴァーさんの眉間の皺が更に寄って、炎の火力が大きくなったのを見やって、再び手を伸ばした。

「俺やりますよ」
「む」

不服そうな顔はしたものの、自分では時間がかかると判断したのか私に絆創膏を戻す。絆創膏などいらん、というかと思ったがそんなことはないようでペリペリと薄い包装を剥がす私を見てきている。少し不安になって見上げれば、眉間の皺はなくなったものの、いつも通りの表情をしたエンデヴァーさんがいて内心ほっと息をついた。

「んじゃ貼りますんで」

爪の横あたり、一センチぐらいスパッと切れたようで赤いがじわじわとしみ出していた。エンデヴァーさんから借りた炎柄のハンカチで軽く患部を拭いて、剥がれにくいように丁重に貼り付ける。

「ま、応急手当なんて、後でちゃんと消毒してくださいよ」
「分かってる」

帰ってくる言葉もいつも通り。
エンデヴァーさんの視線は、私じゃなくて人差し指に貼られた絆創膏に注がれていた。感触が気になるのか親指で何度か擦るように確かめている。
と、背後で警察が私を呼ぶ声が聞こえて振り返る。ヴィランを捕まえただけで終わりではない。状況を聞くためだろう、呼ばれた先へ行きますと言おうとエンデヴァーさんを見ると、顎を行けと指し示される。りょーかいです、と羽を使って軽く方向転換して進んだ先で、手に持ったままのハンカチの存在を思い出した。

「エン」

二文字で途切れた言葉の先は、無理矢理口の中に押し込めた。
振り返った先で、見た光景が恐れていたものだったから。
まるで自分の子供たちでもみるような優しげな瞳をして、指先を見る人は。つい先ほどまで離していた人とは別人のようだった。どっと汗が噴き出して、その場から逃げるように飛び去った。



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