発覚
一年半なんてあっという間だ。まるで矢のごとし。 数年前までは一秒一秒が死線を潜るような日々だったので、あまりにもスローに思えた時もあったが、そんな時期から解放された今ではふと思い出してみたら一日が終わり、一週間が終わり、一ヶ月が終わり、半年が終わっている。 そうこうして足場が崩れるような衝撃的な出来事から一年と半年が経って、私はなぜかエンデヴァーさんとほぼプライベートでも付き合うようになっていた。一応、活動拠点は離れているはずなのだが、仕事やらでなんだかんだと食事に行ったりする機会に恵まれていた。ちょっと前には娘さんへの誕生日プレゼントを一緒に選ぶなどして、雑貨を眺めながら自分の状態が分からなくなってぼうっとしてしまったりした。 遠い存在だったあの人、No.3に上り詰めて近くなったような気がして、No.2になって落ち着いたと思ったら、今はなんだか近すぎる。ふとしたときに目が潰れてしまいそうで肝が冷えてしまう。
満たされた腹をさすりながら縁側から夜空を見上げる今もそうだ。ふと今の状況を思い出して心臓がきゅっとした。 初めてエンデヴァーさんに自宅へ誘ってもらってから、食事に誘うと二回に一回は家で、という流れになってお邪魔させてもらっていた。なんだかんだ言って自宅にあげてもらったのはこれで七回目。自分でもキモいと思うが、来るたびに『何回目』と数えてしまう。そして一緒に仕事の後などに過ごさせてもらうのは十四回目。一年半で考えると、一月に一回は会っている計算になる。最初の頃は夕飯だけごちそうになって帰っていたりもしたが、今では初回のように夕飯後は轟家に泊まらせてもらっている。最初の時は本当に心臓が止まるかと思った。 もしやこれは――友人、という立場に収まっているのだろうか。それとも、気の置けない若造ポジとか。 そうならば、いやまぁ、どんな立場でもあの人の関係性の中に入れるのなら吃驚するほどに嬉しいが、なんというか。どうにも心臓がきゅっとなる。嬉しくて、幸せすぎて現実が信じられない。 本当はあの人に、少しでも、私のエゴでしかないけれど、幸福を感じてほしかったのだが――これではこちらがもらうばかりだった。
今も適当にコンビニで買った夕飯とつまみと酒で乾杯して、酒のおかげかそれとも自宅だから気が緩んだのか、いつもの硬い表情がどこか柔らかくなったのを見て、耐えきれずに「暑くなっちゃったんで冷やしてきます」と縁側へと避難したところだ。 そよぐ風に、口実では在ったものの確かに火照った頬を冷やされてそっと息をつく。 夜空には少しの雲と、光る星と輝く月があった。情緒なんてあってないような人種だが、綺麗だと思う。
「月、綺麗ですねぇ」
心地の良い風に口が緩み、思ったことがそのまま口からこぼれ落ちる。 テレビもついていない空間で、私の声だけが通っていった。ふと気がつけばエンデヴァーさんがお酒を飲む音も聞こえないことに気づいた。 すると、エンデヴァーさんが机にお猪口を置く音、畳に手をつく音、衣擦れの音、そして畳を踏みしめる音が聞こえて、エンデヴァーさんが立ち上がったのを察する。身体をひねって背後を見やれば、予想通りすぐ近くにエンデヴァーさんがいた。 首を反らせて視点を顔へと移した、その瞬間に大きな手が伸びてきて驚きに目が見開かれる。
「え、あ、ちょっ」
頭を捕まれたと思ったら、そのままぐりぐりと頭を撫でられて――揺さぶられるとも言える――おかしな声が上がる。人肌にしては少し高い温度、少し荒れた肌の感覚。髪の間を通る節くれ立った指。そのどれもに翻弄され、咄嗟によい言葉が出てこない。 そのまま数秒もみくちゃにされ、ボサボサになった髪を残して手が引かれた。前髪に塞がれた視界の間。エンデヴァーさんがどんな顔をしているかは窺い知れなかった――いや、私には見ることができなかった。 今、このときほど自分の目の良さを恨んだことはない。 頭を捕まれる前、見上げた先で一瞬だけ視界に映ったあの人の顔。
「冷えん内に中へ戻れ」 「……分かってますよ」
エンデヴァーさんの言葉に、軽く返す。返せたと思っていたけれど、変な調子ではなかったろうか。それでも、それ以上に取り繕うことはできない。幸い、エンデヴァーさんは後ろを振り向かずに元の位置へ戻っていったから、さっさと視線を夜空へ移す。 空には相変わらず綺麗な月が浮かんでいて、周囲の静けさに似合っている。五月蠅いぐらいに鼓膜を揺らす心臓の音が煩わしかった。 ああ、月は綺麗だ。本当に、そういうつもりで言ったんだ。それは、もちろんあの人も分かっていただろう。世間で知られる、とある文豪が言った二つ目の意味なんて、そんなものあの人が認識していたかも不確かだ。いや、知っていたとしてもこんな若造の言葉、気にもしないだろう。 だが、ならなんであんな顔をしていたんだ。 あの人には似合わない、あんな、切ないなどという言葉が当てはまる表情なんて。
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