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前兆



エンデヴァーさんが――轟炎司さんが離婚したと知ったとき、俺はまるで今までしてきたことが全て失敗したかのような、足下が崩れる感覚を味わった。
自分の人生に絶望していたときも、死にかけていたときもそんな感覚を覚えたことがなかったから、本当に動揺したしその場で倒れなくて本当に良かったと心底思った。
傍から見れば平均的な女性として生きてきて、死んでみたら紙面や画面越しではあるものの見知った世界。そこで私は鷹見啓悟――ホークスとして生きることとなった。最初は踏んだり蹴ったりだったが、運良く、いや、予定調和だったのかもしれないけれど希望を見つけてヒーローとして生きることを誓った。
前世からの引き継ぎというあまりにも反則な知識を使ってあれこれと寿命を縮めながら飛び回り、そうして訪れた平和。私も二十代後半になり、少しだけヒーローにも余裕がある世の中に満足していたとある日のことだった。

あまりにも重いので、本人にはもちろん、周囲にも漏らしていない私の憧れの人。エンデヴァーさん。原作に負けず劣らずエンデヴァーというヒーローが好きになってしまった私は――まぁ前世から好きだったのもある――あの人がどうやったら幸せになるかをよく考えていて、世界の平和も当然目指していたけれど、あの不器用な人の幸福を願っていたりした。
だから思い切り手を加えた。それが正しいかは分からなかったけれど、それが原作のエンデヴァーを否定することかもしれなくとも、それでも今この世界にいるエンデヴァーさんに少しでも『いい思い』をしてほしくて、偽善とエゴでかき回して、彼の家庭は世間一般的に「地獄」と称されるものではなくなったと思う。少なくとも私はそう思っていた。
子供たちは全員健全に育っているし、反抗期はあるものの親子間での恨み辛みも原作ほどではない。そして何より、奥さんとともに過ごしている。
そう、思っていた。私はそれをなんとなく会話から感じて、悦に浸っていた。家庭の中にあの人の姿がある、大切な家族とともにあれると勝手に想像していた。


「どうした、ホークス」
「……なんでもないですよ、ちょっとぼーっとしてただけなんで」
「ふん、気合いが足りんな」
「相変わらず厳しいですねーエンデヴァーさんはー」

久しぶりのチームアップ。離婚の話をキャッチしてからしばらくして行われたが、当然ながらエンデヴァーさんはいつもと変わりなかった。私はといえば、何も変わらない我らがヒーローの赤い炎を見つめて、出ない答えを探していたりしていた。どうすれば良かったんだろうなんて。無駄にもほどがある。

「そうだ、仕事終わりに一杯どうです?」
「……いいだろう」

一拍おいてからの承諾に、大げさに喜んでみせる。
いつもなら、お誘いに乗ってくれるのは二回に一回。今回みたいなエンデヴァーさんの地元なら確率は大幅に下がる。下がっていた、という方が正しいか。

「ノリいいっすね」
「待つ者もいないからな」

その発言に、思わず動いていた羽がピタリと止まる。やってしまった、と思う前にエンデヴァーさんの瞳がこちらを向く。熱に似合わぬ心地よさげなライトブルーに笑ったまま停止した顔をしている私が映る。

「どうせ知っているんだろう」
「あー……まぁ、はい」

見聞が広いもので、とは言えずに茶化さずに頷いた。そうすると、ふん、と鼻を鳴らされ会話が終わる。そこで何も言わないのがこの人らしい。

「んじゃ、これからは気にせずガンガン誘いますね」
「今まで気にしていたのか」
「そりゃそうですよ。これからは潰れるまで飲んでもらいますよ」
「お前にできるならな」

目を合わせずに、それでも返してくる言葉に安心するような胸がざわつくような。
私の知識の範囲では世界は平和になった。一応、役目は終えたという解釈もできる。けれど、この人がいる限りはと思っていたこの生活に、別の兆しが転がり込んできてしまった。全くの予想外、正直どうしていいか一番分からない。
それでも一緒に飯に行くという選択肢は外せるわけもなく、夕飯時になんの話題を話すか決まらないままへらへらと意味もない言葉をエンデヴァーさんへ投げつけた。


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