- ナノ -

二十『曹操を■■■■■、この■■』


私が撮影する最後のシーンとなった。
馬に乗り、日も登りきらぬ朝方、魏へと出立する。
魏、呉、蜀の最後の大戦で、魏の敗北し、殿は亡くなられた。私はそれを噂で知っていた。
見送りは屋敷で世話になった少数と――遅れて孫権殿がやってきた。
護衛もつけずに、屋敷の者も驚いていたが、納得した表情をしている者もいた。それほど、孫権殿は私に目をかけてくださっていた。今や、孫権殿との会話で、忘れている記憶はなかった。だがどれも、影武者との会話などではなく、確かに孫権殿との会話だったと鮮明に覚えている。

馬に乗る私に、孫権殿が近づいてくる。

「……この日が、遅くなってしまってすまない」
「いいえ……。長らくの厚遇、感謝いたしております」

馬から降りようとすれば、制される。
なればと馬から礼を取れば、僅かに歪に見える笑みが朝日の中で見えた。

「また、会いに来てくれまいか」
「……ご縁がございましたら」

そうはならないことは知っている。誰よりも知っている。
私は魏に戻り、殿の墓を見て己の無様さと惨めさに耐え兼ね、病に倒れ死ぬ。
ならば、もう孫権殿と出会うことも、ないだろう。私は死に、この者の望みをかなえることはできなくなる。
孫権殿は、縁があることを願っている。と告げた。
それに、私は今、無体なことをしているのだと悟る。それは、過去では思いもしなかったことだった。今ならわかる。この者は、会えぬことを察しつつも、それでも会いたいと願っていた。

従者が歩き出す。呉を離れる時が来た。もう二度とこの地に足を踏み入れることもない。
孫権殿から目線を離し、朝日を見つめる。柔らかで、温かな国だった。
だが、私はそこで休まることも、身を横たえることもできず、ただ厚意を無駄にした。
馬が歩き出そうとした直前に、腕を強く掴まれ、引っ張られる。
重心を崩した乗り手に、馬が嘶きを上げる。どうにか落ちずに済んだところで、耳元で声がした。




『曹操を殺したのは、この私だ』




脳に直接響いた声に、目を見開く。
息が止まり、煩い心音が身体を支配する。
そうだ――私は、呉の去り際に、孫権殿に腕を掴まれ、耳元でその言葉を聞いた。
突然の言葉に、脳が理解を否定し、しかし確かな事実に混乱した。
魏の君主を倒したのは、呉の君主だ。大戦は曹操殿の死を持って終結し、争いのない三国鼎立の世となった。
その言葉は嘘ではない。だが、なぜそれを口にしたのか。

「私が去り際に言った言葉は、意味がなかったようだ」

しかし、孫権殿の柔和な声に正気に戻る。
耳元で聞こえた声は、先ほど脳で響いた固い声とはまるで違っていた。
それと同時に、脳に響いた言葉は、耳元で発せられたと思っていただけで、私が勝手に脳で再生した言葉であったことを悟った。
過去とは違う言葉を紡いだ孫権殿に、煩わしい心音に悩まされながら視線を向ける。

「于将軍。今生では、曹操は死んでいない。貴方の主君は、生きている」
「……曹操、殿が」

当然のことではあった。
演者が過去の出来事に応じて危機に面することは知っていた。だがそれは事前に防がれていた。この者の手によって。
そしてそれは殿も同様であった。大戦時の撮影において、建物の柱が直撃しかけ、しかしそれを影武者が助けた。
そのシーンは歴史としては異なっているため使用されることはない。だが――曹操殿は、確かに生きている。
それを、私も言伝に聞いた。慌て殿の様子を見に行けば、心配ないと笑いかけてくれさえした。それにどこまでも安堵していたはずだ。
孫権殿はその碧眼で私を見やる。飴玉のような、美しい色合いだった。

「于禁殿」
「孫権、殿……」
「呉へ来た後の撮影が始まってから、だんだんと顔色が悪くなっていっていた。病院で一度診てもらってくれ。曹操も、苦し気にしている貴方を見るよりも、変わらぬ常勝将軍の姿を見るほうが嬉しかろう」

孫権殿の言葉に何も言えずに口を噤む。
孫権殿との撮影が始まってから、だんだんと睡眠時間が削れ、食事が口を通らなうくなっていっていた。どうにかせねばと思っていたが、見破られていたとは。しかし病院へ行くのも、己の未熟さを認めるようで忌諱していたことも確かだ。
孫権殿は僅かに微笑む。

「なぁ、于禁殿。私に、また会いに来てはくれないだろうか」

少しだけ控えめに、しかし確かな懇願に、耐えながら口を開いた。

「はい……。必ず」
「……ありがとう。待っている」

ゆっくりと離された手に、名残惜しさを感じた。
ああ、私は――きっと、身を横たえることはできなかったが、この暖かさに溶かされてはいたのだろう。
だからこそ、前世で聞いたあの言葉でも、この方を殺すために生きたいとは、思えなかったのだから。

馬に揺られ、朝日が昇る中、目の前がぼやけた。
前世では殿が死んだという、殺されたという純然なる事実。そしてそれに対して、殺した者を恨めぬ自分への不甲斐なさからだった。だが、今は違った。片手で顔を覆いながら、ただただ感謝した。