- ナノ -

十九「――貴方を、客将として迎えよう」


「――貴方を、客将として迎えよう」

撮影は進み、私は蜀に敗れ、そして呉へと招かれた。
撮影であるとはわかっていても、内臓が締め付けられるような感覚がする。
頬がこけ、髪色が白になっている自分を鏡で見ると、己の情けなさと対面するようであり、罪深さを実感する。だが、不満などない。なぜならばこれが私にとって相応しい姿だからだ。

私は孫権殿――の影武者との対話がメインだった。
だが、その台本には空白部分が目立つ。これまでも当事者しか分からぬ事柄は空白部分があることがあったが、ここまで多いところはなかっただろう。そして不味いことに私は孫権殿との会話を覚えていない。つまりあの影武者との会話を覚えていないということだろう。
だが、それでも撮らなければならない。どのような会話をするかは一向に分からぬものであったが――ただその時の自分を思い出し口を開けばいいのだろう。

「――于将軍」
「……何用でしょうか」

客将というなの敗将相手に、豪華と言える屋敷に、潤沢な食材と衣服。何もかもが足りている。
意味の分からぬ待遇だ。しかし、そうであったような気がする。そして私は、やはり困惑していたのだろう。
やってきた影武者――には全く見えぬ、何一つ変わらぬ私にとって孫権殿であったそれは、少しだけ笑みを浮かべながら孫権殿と変わらぬ声色で言う。

「そうだな、あえて言うのならば――貴方と話してみたいと思ったのだ」

言葉少なく話が進む。
私は元来から、言葉を多く話す方ではない。人を喜ばせたりするのも苦手だ。私には戦で戦果を挙げることしかできなかった。それも、今ではなくなってしまったが。
それでも孫権殿は私へと問いかけて、そして休まるかと聞いてきた。それに、すぐに答えが出なかった。この状況の中で休まることが出来たなら、私は真に恩知らずであろう。だが、持て成している相手にそのようなことも言えまい。
口を開こうとすれば、その前に孫権殿が休まるわけもない、と告げた。それにしまったと思いながらも、話が進む。
孫権殿も疲れが取れない、という話から自らの部屋で休むべきだと話した。

「ああ、なら于将軍もいかないか。よく疲れが取れる場所を知っているのだ」

そうすると、何故か共に行かないかと誘われ、邪険にすることもできずに頷いた。
頷いた後に、どこだそこはと撮影場所の心配をした。


結局場所は近場の牧草地となった。
緊急で見つけた場所にしては、よい場所だった。撮影の準備が進められる中で、その場に立って風に衣装をなびかせる孫権殿――の影武者の姿に、何故か懐かしい気分になった。

「美しい場所だろう。よく子供の頃は、兄や妹と来ていた」
「……ええ、美しいと思います」
「休まらないか?」
「いえ……」

撮影が始まり、孫権殿がこちらを見る。
日に照らされた姿は、本人としか思えなかった。柔らかな日差しに照らされる孫権殿は、冷たい体に染みわたるようであった。だがその温かさを感じる権利は私にはない。
目を細めた孫権殿は、一歩、二歩。と私から少しずつ距離を離す。なんだと思っていれば、背からその場に突如倒れた。

「な、孫権殿……!?」

思わず近寄れば、草むらの中で笑みをたたえる姿が目に映る。

「ははは! ふかふかするぞ、于将軍もやってみるといい」
「いきなり何を……」

あまりにも一国の君主らしくない行動。まるで子供だ。
呆れを滲ませていれば、孫権殿が笑みを顰めて言う。

「こうしていると、心の疲労を溶かしてくれるようなのだ」
「心の疲労、ですか」
「ああ」

孫権殿の瞳が私を見る。碧眼の瞳は、まるで碧い空のようだった。
何もかもを見透かしてくるような目だ。殿とは違った、恐ろしい瞳だ。

「呉は勇猛だが、同時に慈悲深い。あなたはここでそれに抱擁されても良いのだ」
「……ですが」
「許せないのなら、腰を落とすだけでもいい。心と体は繋がっている、どちらかが疲労していればどちらも欠ける」

心身の疲れは互いに影響する。それは確かにそうだ。
その瞳で見つめられ、伸ばされて手にどうすればよいか分からなかった。
ただ、君主である孫権殿の厚意を否定するのはならぬだろう、という意識が働き、伸ばされた手に手を近づけた。
指が触れた瞬間に、思い切り手を掴まれ、そのまま強い力で引き寄せられた。

「なっ」
「あはは!」

自分の驚きの声と、孫権殿の笑い声をききながら、草むらに膝をついた。転げるように腰までついて、怒りの前に草むらの柔らかさと温かさに目を瞠った。

「どうだろうか」
「……悪くはないかと」
「ふふ、そうか」

私の手を離した孫権殿が、嬉し気な声を上げる。
敵国の将を、こうして扱うのが面白いのか。なんなのか。
どうしてそこまで喜ばし気に出来るのか、全く意味が分からなかった。
ただ、侮辱したいがためにこのような場所にまで足を運んでいるわけではないというのは嫌がおうにもわかり、どのような感情を抱けばいいのかも分からない。

隣を見れば身体を横にし、目を閉じかけている孫権殿がいた。
彼は小さく口を開くと、私への言葉を言った。

「……于禁将軍、人の厚意を受け入れいだかれるというのは――」

続きの言葉は、あまりにも小さな声だった。
擦れており、きっとマイクには音が入らなかったろう。私の耳にも届かなかった。
届かなかったはずだ。だが、聞こえた。

――生きていいのではないかという、錯覚を覚えさせてくれる。

目を閉じた孫権殿の目元が、痛みを耐えるように歪む。
それに、日が眩しいのかと思い、少しでも痛みを覚えぬようにと身体を動かし、影を作った。


撮影後、起き上がった孫権殿――ではなく生江は、草原を眺めながら心は癒されたかと聞いてきた。
それが、どちらへの問いかけが分からずに。しかしただ事実を伝えた。
ようやくこちらを見た碧眼の瞳は、私を見ているのか分からない目で、しかし穏やかに笑みを浮かべた。
その姿が――どうしても孫権殿にしか私には見えなかった。

誰かの撮影を見に行くということは、今までなかった。
己の撮影だけを終えて、そのまま帰っていたからだ。だが、その時はちょうど孫権殿と影武者とのシーンだった。
なぜか足が赴き、二人の演技を見た。だがそれは、演技というには緊迫しており、そして必死だった。

「……憧れだったんだ、遠い、遠い、昔から」
『憧れだったのだ。ずっと、遠い昔からの』

そうだ。
過去のいつかに、あまりにも待遇が良いために、聞いてみたことがある。
いや、孫権殿からの対応が敗将にするものではなかったために、問いかけた事柄だった。

『なぜ、私によくしてくださるのですか』

それまでの疑問を、全てぶつけたものだった。
私はそこまでされる者ではない。けれど孫権殿は何度も私の元へ足を運び、そして話をした。
話が上手いわけでも、力があるわけでもない私に。

孫権殿は目を瞬かせた後に、困ったように笑い、そして言った。

『憧れだったのだ。ずっと、遠い昔からの』
『……それは魏で将軍としていたころの私では』

憧れ。確かにそれで説明はつくかもしれぬ。
だが、私はもうそうではない。常勝将軍と呼ばれたころの私ではない。戦に負け、戦場で命を散らすこともなかった敗将だ。
しかし孫権殿はいう。

『私は、貴方という人に惹かれたのだ』

なんだそれは。疑問を解くための問いかけも、更に謎が増えたのみだった。
碧眼の瞳は私を見つめる。そこには慈悲というものが浮かんでいるようで、胸が苦しくなる。

『だから、貴方を魏に戻す。必ず』

力強く、己に言い聞かせるように告げられた言葉に、私はただただ見つめることしかできなかった。
私はそれが、なされなかったことを知っている。
孫権殿が仰られていたことは、きっと私を『殿の元へ戻す』ということだったのだろう。私が克明に覚えていることは――孫権殿が殿を殺したということなのだから。