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十八「過去、生きた者らで過去の歴史を辿る映画を撮る。それにおぬしも参加せんか」


幼い頃、まだ十にも届かなかった時期に、私は過去の記憶を思い出した。
曹孟徳殿の軍に従軍し、厳しい規律で兵士を束ね、しかし樊城の戦いで敗北した。そして捕虜として捉えられた。最期は殿が亡くなった魏へと戻ることを許可され魏へと戻ったが、己の無様さに耐えかね、病に侵され死んだ。

その記憶は確かに過去であったが、私という者を作るには十分足るものだった。
中華で生まれた私は、できる限りの情報網を使い、殿を探した。会うことは許されないと思った。だが、それでも陰ながら殿にご助力できたならば。それが前世で私が犯したことの僅かばかりの贖罪となれるのならば。
社会人となり、ようやく殿を見つけることができた。殿はやはり人を惹きつけるお人であった。過去の見知った者たちを周囲に置き、大企業の社長としておられる姿は前世を思い出した。
それからは殿のものではない別会社に就職し、そこから僅かばかりであるが、助力できるように働きかけた。そうして自己満足に浸って十数年、しかしそれが明らかになる日が来た。
私の会社に曹操殿が直々にお越しになり、そして私を呼びつけた。どんな言葉を言われるだろうか、全身が軋むような感覚を覚えながらも目の前へ姿を現せば、予想外の事柄を突き付けられた。

「過去、生きた者らで過去の歴史を辿る映画を撮る。それにおぬしも参加せんか」


冗談かそれとも過去の罪を詰る意図か。しかし何であっても私が拒否するという選択はなかった。
役者が全て揃う顔合わせに足を運べば、そこには懐かしいにもほどがある面々がいた。話しかけてくる者もいたが、私からは話すことなど何もなかった。ただ、殿からの指示に従うのみだ。
宴会の席では、楽し気に振舞う者たちの気が知れずにその場にいることが苦痛だった。席を離れ、宴会場の外に座っていれば先ほど見かけた女が扉からこちらを見ていた。
話を聞けば、私と話してみたかったなどと意味不明なことをいう。宴会を楽しんでいるかと聞かれ、遠回しに楽しんでなどいないといえば、己もそうだという。私は半ば義務でここにいる。だがそうでないのならばいる意味もない。そもそも殿が仕掛けた娯楽は、参加は自由である。それを言えば、女は孫権殿の名を出した。
孫権殿。良くしていただいた覚えはある。しかし――何をどう会話をしたかなどは、全く覚えていなかった。
女の見た目からは孫権殿との血のつながりを感じさせる。息女かと思ったが、そうではないと強く否定され、ならばなんだと眉を寄せた。孫権殿とは双子であり、影武者役を演ずるという女は、確かに見た目は似ている部分はあるが、性格が大きく違うように感じた。
だが、話を聞いてみれば、女は過去の記憶を全て覚えていないという。
それに、思わず口が滑った。

「お前の主と交わした会話を、何故か覚えていない」
「……孫権との、会話を」
「良くして頂いたということは分かる、だが、私が覚えているのは――孫権殿が殿を亡き者にしたということだけだ」

そうだ。それだけはよくよく記憶に残っている。
孫権殿が殿を殺したのだと、そう記憶している。
焼き付けたかの如く記憶に残っているその事実はしかし、何でどう知ったかは分からぬままだった。
女の顔が僅かに引き攣った。悲しんでいるのか、それとも怒っているのか分からぬ表情で、女は絞るように問いを口にした。

「恨んで、いますか。孫権の事を」

人生を捧げた主君を、殺した存在を、恨んでいるか。
影武者であったという女からの視線は、酷く真っ直ぐでなぜか孫権殿を思い出させた。
見つめられるのが、何故か億劫になり目を逸らし、それからその問いに眉を寄せた。
私は、孫権殿を恨んでいただろうか。――どうだったか、思い出せぬ記憶の中でなぜか温かな陽気の感覚だけが残っている。


「ここにおったか、生江とやら」
「っ、そ、曹操社長」

思考が中断され、思わず目が引き寄せられる。
そこには殿がおり、女と親し気に話していた。女の名前は生江というらしかった。
生江と言葉を交わす殿は、どこか愉快気であった。
暫くの後、殿の視線がこちらを向いた。

「おぬしもここにおったか。戻るぞ、宴会も終いだ」
「……はっ、畏まりました」

それに未だ座っていた体を起こす。まるで画面越しの光景を見ていたような感覚から、一気に現実へと引き戻される。
そうだ、殿はここにいる。そして私も、殿の言葉を聞くことができる。
殿の後ろに付き従い、歩き出す。
ふと、背後から声が聞こえたような感覚がし、宴会場の扉が閉まっていく中で背後を見れば、生江がこちらを見ていた。どんな顔をしていたかは――なぜか見えなかった。なぜか、酷い罪悪感に駆られた。


自ら出る部分の撮影に呼ばれ、仕事に都合をつけて撮影場所へ足を運ぶ。
昼から撮影が行われ、夕方には終わるスケジュールだった。夕方ごろから雨の予報だったが、帰宅して仕事を進める時間はあるだろう。予報通り撮影終わりには雨が降っていたが、予報よりも強い雨脚であった。
スーツへと着替え、帰宅しようとしていたところで、広間にいた男――ではなく、女に声をかけられた。

「お、お帰りですか」
「……ああ、私が出る場面は終わった」

見た目は完全に――孫権殿だった。しかし声の高さや態度から、孫権殿ではなく生江という影武者役であると分かった。
ここまで似るものかと思ったが、元が双子だからこそのこれだろう。
しかし、何の目的があって呼び止めたのかと思っていれば、怯えているのか緊張しているのか、はっきりしない様子で尋ねてきた。

「あ、あの」
「なんだ」
「その、もし、この後に予定がないようでしたら、台本を覚えるのを手伝ってくれませんか……?」

眉が寄る。なぜそんなことを私が手伝わなければならない。

「……家で仕事をする予定だ」
「でも!……その、雨も強いですし」

仕事を理由に断ろうとすれば、先ほどまでとは打って変わり、声を張り、しかしすぐに音量が落ち込んで雨のことを指摘した生江に、眉を寄せつつ窓に視線を移した。
そこには、先ほどよりも若干雨脚が強くなったように思える様子が広がっており、今外に出れば持ってきた傘も意味のないものになるだろうことは明白だった。今の時間は4時半だ、5時には雨脚が弱まると予報していた。
眉間に皺が寄るのを感じながら告げる。

「30分のみだ。それ以上は付き合えん」
「っ、あ、ありがとうございます!」

その場の椅子で魚のように飛び跳ねた女に、何がそんなに喜ばしいのか意味が分からなかった。

練習台にさせられたのは孫権殿と影武者役が語り合う部分だった。
意味深な台詞の多い影武者役は、生江という女には合わないような気がしたが、台詞を喋りだすと、途端に生江はこの影武者役というものになっていた。まるで別人が目の前にいるような感覚に、違和感を覚えた。
私が台本を持ち、生江が台本を見ずに音読する。しかし孫権殿の台詞までを一人で回しているのを聞き、あまりにも非効率的だと孫権殿の台詞は私が喋ることとなった。それになぜか嬉し気にしていたが、意味が分からぬ。
しかし、互いに喋るように対峙していると、更に別人であるような感覚がした。

「もう間もなく乱世は終わるだろう」
「どうしてそんなことが言える?」
「既に準備は整いつつある、呉は幾多の苦難を乗り越えて強靭となった。まるで勇猛な虎のように」
「ああ、だが、問題は山積しているぞ。天下を一つにするには、まだまだ時が必要だ」
「一つか、それを果たすのならば、我々は道半ばで死ぬだろう。いいや、そもそもこの時代が終わるかもしれぬな」
「ならば何を持って乱世が終わると予言するのだ」

天下を一つに。それはどの国も達成することができなかったものだ。
だが、呉はその方法ではなく、別の手段を持って天下を平穏へと導いた。それは昨今でも称賛され、正義とされる事柄だった。
それを、このころの孫権殿はわかってはいない。だが、影武者であるというこいつは、それを知っているようだった。
だが、それをはっきりとは明言せず、そして呉の勝利を見据えているだろうに、泥を吐くように言葉を紡ぐ。

「……遠見さ、私には遠くが見える。――終わりが見える」

台本を見れば、孫権殿が影武者へと問いかけている。誰もが思う問いかけを。

「――どんな終わりが見えるのだ」

お前が見据える、終わりとはなんだ。
目線が交わった瞬間に、生江の顔が歪んだ。目元が細まり、痛みを耐えるような面持ちとなる。小さく口を開けたかと思うと、頭を左右に振り、僅かな沈黙の後、目を瞑りながら口を開いた。

「沢山の、終わりが見える。夢を抱き、望んで果てた人々の姿が浮かぶ。誰もかれもが報われず、誰もかれもが誰かへと夢を託して消えていく。ああ、私には――」

その目が開かれる。瞳孔の開いた瞳は、どこを見ているか分からぬ目でありながら、確かに私を見据えているように思えた。

「お前の、終わりも見える」

苦し気に吐き出されたその言葉が、孫権殿にではなく、私への言葉のようにしか聞こえずに瞠目した。


しっかり30分の稽古の後、帰ろうとすれば緊急警報が発令されていた。
外は土砂降りを通り越し、嵐の形相となっており、道も川の決壊によって塞がれ、電車も止まっているような状況となっていた。
家に帰宅し、撮影によってできなかった分の仕事を行うという予定は全て不可能となった。
施設の玄関からは、暴風と雨が激しくガラスをたたく音が聞こえ、雷の音が響いている。それに、いつかを思い出した。
兵の大半が雨に溺れ、戦闘もできずにただ殺されていく。あの時の光景だ。

「台本の打ち合わせ、ありがとうございました」

過去の光景を凝視していれば、横から声がかかり現実へと意識が戻ってくる。
誰かと思えば、先ほどまで台本の読み合わせをしていた生江だった。

「その、引き留めてしまってすみませんでした。……けど、この30分前に出て行って、この雨で大変な目に合わなくてよかったとも、思います」

恐る恐るという風に謝罪をされる。しかし、すぐに引き留めてよかったともその口が言う。
それにふと、生江の噂を思い出した。
この撮影では、何人もの人物が怪我や事故、病に倒れかけている。それは生前に起こった事柄に起因していることが多く、それらは予想できることもあれば、できないこともある。それを生江という演者が危ないところで助けているというものだ。
実際の現場に鉢合わせたことがないために、ただの噂かと思っていたが。

「ええと、その、本当にすみませんでした! お、お詫びにまた後で何か――!」
「お前は、体調が悪いのか」
「へ」

間抜け面でこちらを見る生江に続けて言う。

「読み合わせの最中に、苦痛を伴う顔をしていただろう」
「え、あ……そう、ですね。頭が痛くなって……」
「自己管理はしっかりとしろ」

そういうと、困惑しているような、喜んでいるような形容しがたい顔をして見つめてくる。
生江は謝罪をしようとしたようだが、それはお門違いというものだ。この雨の中、帰るために出て行ったとすれば私は仕事という以前の話で酷い目にあっていたことだろう。ネット環境がないはいえ、施設にいれば何かしら作業ができる。
それよりも、自分の体調管理を優先するほうが先だろう。孫権殿の影武者だからか、こやつも撮影シーンは多いように感じる。
何も言わない様子に耐え兼ね、去り際に口を開く。

「私は持ってきたノートパソコンで出来る限り仕事をする。お前は直ぐに睡眠をとれ」
「あっ、まっ、そ、その! 私ポケットWi-Fi持ってるので、つ、使ってください!」

追いかけ、目の前に立ってさえ来た生江に、どうしてそこまでするのかと思う。

「……では借りさせてもらうが、使用代金は払うぞ」
「いや、いらな――は、はい」

要らない。などと言おうとした目の前の者を睨むようにすると、すぐに撤回した。
それでいいのだ。何事にも、対価は必要となる。
すぐにでも持ってくる、と言う生江にそれよりも自分の支度を優先しろと指摘すれば、慌てて控室へと戻っていった。
おかしな女だ。なぜ自分よりも他人を優先するのか。理解不能だった。