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違えた『約束』を貴方に

page.26 『約束』

新しい家の玄関の扉を開くと、目の前が真っ赤に染まってそのまま体が潰された。
怪人かと思えば、そんなわけもなく。いつものトレードマークの赤いタートルネックを着た兄が私を抱きしめていただけだった。
流石S級ヒーローという力で抱き締められて、正直肺が潰れそうだ。

「お、にいちゃん。くるしっ」
「はッ! す、すまん善子!」

パッと身体を離されて、荒い息が出る。
ゲホゲホと咳き込んでから、心配げにかがんで目線を合わせている兄に向って言う。

「いきなりどうしたの」
「そりゃあこっちの台詞だ! 最近、帰ってくんのがおせぇ!!」
「うるさい! お兄ちゃん声大きいんだから目の前で叫ばないでって前から言ってるでしょ!」
「ご、ごめん」

まるで叱られた犬のように声を収めて謝罪する兄は、なかなか教育の賜物で言い返さないようになっている。
言い訳は無用。とりあえず先に謝る。それは社会に出れば必要になってくる処世術でもある。けれど兄は短気でとりあえず気に入らない相手には突っかかるから悪いことをしたら謝るというのを習慣づけるぐらいがちょうどいいと私は思っている。
しゅんとして、なんだかリーゼントも若干元気なさげになった兄にしょうがないな。と持ってきたバットを構える。

「じゃーん」
「バット?」
「……お兄ちゃんの真似」
「ッッ! お前ッ、善子、お前ってやつは……!」

と言っても、正直前世がある身だとイチローの真似である。
しかし兄にとっては感涙ものだったらしく、口を手に当てて瞳を潤ませている。こう見ると、三白眼の黒目が大きく見えて可愛らしいものである。錯覚だけど。
さて、とどめの一発である。

「私、お兄ちゃん強くてかっこよくて大好きだからお兄ちゃんのお嫁さんになるー」
「善子!!! 絶対、幸せにするからなッ!!!」

だから煩い。
また懲りずに大声をあげて、痛いほど抱き着いてきた兄にやはり頭が弱いなとため息をつく。
あと、兄妹は結婚できないのでただの妄言である。更には幸せにするのは私だ。
まぁ本気にはしていないとは思うけど。
でも、正直誰かと結婚するつもりはない。だって私の薬指にはすでに結婚指輪がはめられていて、それはきっと一生取れることはない。血にまみれたエンゲージリング。一生とけない呪いという名の叶うことのない約束。

「あっ!善子!」
「何?」

そろそろ痛いから離して、といおうとした時に兄がバッと距離を開ける。
顔は笑みに彩られていて、どちらかというとただの青年っぽい柔らかい笑みだ。

「おかえり」
「……ただいま」

返事をしても、笑みを浮かべながら待っているような兄はその場から動かない。
帰ってきた時と出ていくとき、習慣にしてしまっているものがある。兄がドラマでやっているのを見て勝手に採用して、私はそれは普通は夫婦がやるものだと拒否したが、兄がどうしてもというからOKを出してしまった。
別に、その時に条件に出されたお菓子のせいではない。というかお財布は私が握っているのだからそういうのは関係ない。

兄の折り曲げている足に手を置いてずいっと顔を近づける。すると右の頬をこちらに向けてきたので、ちょっとイラっとして、意地悪をすることにした。

「っな」
「ふふ」

パッと両手で兄の顔をつかんで正面を向かせて、その唇にキスをした。
以前と違ってカサカサとしていない唇は、ちゃんと私の上げたリップを使っている証拠だった。
目を見開いて、口を金魚のように開閉させて徐々に顔を赤らめていく兄は、本当に初心というか、純情というか。こんなので彼女が出来たとき大丈夫なのだろうか。
寧ろ私で慣らした方がいいのだろうか……。いや、犯罪だな。やめておこう。
両頬をつかんでいる手から、兄の顔がどんどん熱を帯びていっているのが伝わる。

さて、いつ回復するかなと見守っていれば、視認できない速さで両腕をつかまれてビクついた。
頬を赤くした兄は必至の形相で叫ぶ。唾飛んでるよ。

「い、いきなりそういうことするんじゃねェ! 流石の兄ちゃんでも、お、怒るぞ!」
「……ごめんね?」
「うぐっ、お、おう。ちゃんと謝れたなら、兄ちゃん怒らねぇ」
「うん。ありがと」
「ぐっ……」

兄よ、どうしてそんなに妹に弱いのか……。
ちょっと心配になりつつ、首を傾げるポーズはやめる。妹は将来兄が悪い女につかまらないか心配ですよ。まぁそういう女に限って大体こういう兄みたいな男気あふれた相手のカッコいいところ見ちゃってマジ惚れするんだけどね。善子知ってる。

この兄は相変わらず約束を守ってくれないし、ヒーロー活動をし続ける。傷だらけで帰ってくることもあって、きっとこれから本編が始まって酷い怪我を負うこともあるんだろう。
けど、原作知識があるというのはいいものだ。知識のある所までは兄がちゃんと帰ってくると信じられる。

「お兄ちゃん。来週、学校の歌唱発表会だから、絶対見に来てね」
「おう! 楽しみだな!」
「……うん」

たぶんだけど、兄はまたヒーロー教会から要請を受けて怪人を倒しにいってしまうんだろう。
約束を守らない人。それで後で私に怒られて謝るんだ。それで、帰りに甘いものなんて買ってきたりして。
でも、それに対して失望はしない。だって仕方がない、彼は約束を守るんじゃなくて、まず信念を守っているのだから。だから私は彼を信用できないけれど、耐えられる。
でもずっと耐え続けるなんて辛いから、いつか兄の隣、いや、前に立って兄を守れるようになりたい。
私の歪な信念を貫けるように。

「バッドお兄ちゃん、好きだよ」

家族愛、もしかしたらあの人と重ねてそれ以外のものも混じっているかもしれない。
だって、ちょっとだけ似ている。顔は思い出せないから、それ以外になってしまうけれど。
血に濡れて、薬指に指輪のはまった手を伸ばして頬に触れれば、兄が笑ってその手を包み込んでくれる。
ああ、大切な人。唯一の家族。失いたくない。
失ったらきっと、私はこの世界だったら怪人に変貌してしまうんだろう。
そう、ならなければいい。そうならない未来を思い描く。

包まれた手が暖かくて、様々な記憶がよみがえる。
色んな約束をした前世、色んな約束をした一週間。
全て果たされずに、終わっていった。

でも、それでも。
目の前にこの人はいる。兄は、ちゃんといてくれている。

「俺も好きだぜ。善子」

いつまでも、この笑顔が見ていられますように。

ポタリと兄の頬と掌から赤い滴が落ちる。

さよなら、愛しい人、愛しい両親。
死んだときに、今度こそ逢いましょう。