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違えた『約束』を貴方に

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図工の時間だった。
絵具を使っていて、家族を書こうという内容で私は勿論兄を書いていた。
A4の厚紙に兄を書いていく。小学生らしく、そこまでたいそうなものは描かずに。これでも前世の時の趣味は絵だったのだ。オタクっぽいだろうが、それでも小学生らしくない絵になってしまうから手を抜いて、寧ろどうすれば小学生っぽくなるかを研究しながら描いていた。それもそれで面白かった。

兄は赤が好きで、高校になってからはトレードマークのように赤いタートルネックを着ていたから、その部分を絵具で塗っていた。そうしたら、絵具が手についてしまって拭こうとしたのだ。

掌を見て、掌全体が赤い絵具がついてしまっていて、いつの間にこんなに汚くしたのかと驚いた。
図工用の雑巾で手を拭いたが、その赤は全く取れなくてペンキでも使ったかと首を捻った。
なんなのだろうと、手を顔に近づけて、くん、と臭いを嗅いだ。

そこからは、強烈な鉄の臭いがした。
臭いが頭に充満して、頭を内から激しく叩いた。まるで金槌を内から何度も何度も振り下ろされる感覚に、思わず頭を抱えて呻く。
どろっ、と手に何かがついて、気づけばどろどろと頭から血が出ていた。

そんなわけがない。
私は、怪我なんてしてない。

いつ、いつしたんだ? こんな怪我。いつ、こんなに手が赤く染まった?


そこからは、芋蔓式だ。
きっとただの幻覚だった。ありもしない幻想が記憶の箱からあふれ出て、ヒントを与えたのだ。
ふざけたことに、その箱には前世で経験した婚約者とのすべてが詰まっていた。


婚約者が私を庇って死んだ。
頭は180度以上回転していて、頭から大量の鮮血があふれて、塞いでも塞いでもあふれ出た。
左手の薬指には彼からもらった結婚指輪がつけられていて、それも一緒に赤く染まっていた。
彼の両親からは責められなかった。けれど、彼の妹からはあんたのせいで兄が死んだと泣きながら言われて、その通りだと思った。彼女は後で謝ってくれたけれど、謝る必要などないと思った。
葬儀をして、死に化粧をした彼は美しかった。あんなにひどい身体になっていたのに、綺麗に隠されて、花に埋まった彼はこのまま私と結婚式をしてもいいぐらい、綺麗でかっこよかった。
でも彼の体は燃やされて、私の手元には遺骨の欠片が残った。
身体を壊して、仕事もうまくいかなくて、私はその骨に縋った。
なんでいなくなっちゃったの。ずっと一緒だって、誓ってくれたのに。
私はそれを持って――首を吊った。
そしたら、彼に会えると思ったから、ずっと一緒だと思ったから。だって、誓ってくれたじゃない。

でも、彼には会えなかった。
私はまた生まれて――でも彼に逢えず生まれ変わったのだと気づいて、正気を失った。血塗れの体で泣き叫びながら――私は次に意識を取り戻す時には『彼』の記憶を封印し、そして『私』を忘却していた。
人は、自分の精神を守るために何かを忘れるということをする。
私は自分を守るために自分を、『彼』を忘れた。大好きな人。


両親が目の前で潰されたとき、父親の腕だけ残った光景を見たとき、咄嗟に私は忘れるという手段を取ったのだと思う。幼い精神はその現実を受け入れられなかった。
けれど、何かを忘れる代わりに、忘れていた何かが零れ落ちた。それが『私』だった。
ぽろりと出てきた都合のいい『健全な私』は善子として生きることとなった。
私は事件の影響で記憶を思い出したのかと思った。正解だが、元からあった記憶でもあった。ただ、自ら忘れただけで。『彼』の記憶は奥底に封印されて、死ぬまで現れない。そのはずだった。

けれど、人の記憶なんて曖昧だ。
ちょっとしたピースから、全てがはまってしまうなんて、よくあることだ。



気付けばA4の厚紙には、兄だけではない人間の顔が三つ描かれていた。
一つは母、一つは父、そして――一つは、見知らぬ顔だった。
ああ、いいや、違う。
家族に、家族になるはずだった。
ずっと、一緒にいると、約束してくれた。

「■■さん――」

愛してました。愛しています。
貴方に、逢いたい。


もう、叶わない。

『ずっと一緒にいよう』



嘘吐き。







私は、精神を可笑しくした。
だから、学校が終わって直ぐに犬用の首輪を買いに行ったし、10メートルもの長い鎖と南京錠を購入しランドセルに突っ込んでひぃひぃ言いながら近くのドンキに寄って、木の板と釘、それに手錠を何個も購入した。簡単な暗証番号着きの鍵も。
家のお金は私が管理していたから、それぐらいすぐに買えた。

それから、兄が返ってくるのを待って、じっと玄関で待って――もう部屋の準備は完了していた。後は兄が返ってくるのを待つだけだった――そしてやってきた兄に、なんて言ったんだろう。

正直、図工の時間の後からの記憶は定かではない。あまり覚えていない。
ただ必死で、もう大切な人に何処かへ行ってほしくはなかった。手の届かない、どこかへ。

きっと。
まだ、精神がおかしいんだろう。

学校からの帰り道、両手を見る。
綺麗な、幼い子供の手だ。もちもちとしている。
左手の薬指には指輪なんてはまっていないし、赤く染まってなんていない。
頭の傷だってもうふさがっているし、私は、善子だ。

「でも、きっと、どうせ、約束破るんでしょ」

指輪に誓ってくれたあの人だって、約束を破ったのだ。
一生かけて幸せにすると約束した、式場は二人で旅行にいった教会にしようと約束した、新婚旅行はハワイにしようと約束した、子供は二人か三人欲しいねと、でも何人だって立派に育てて見せると約束した、お互いの実家のちょうど真ん中に家を建てようと約束した、子供の面倒は私だけに押し付けないと約束した、料理は時折自分が作ると約束した、絶対に俺でよかったと思うようにしてみせると約束した。
沢山約束をした。いっぱい約束をした。両手で数えきれないほどの約束をした!

なのに!

「私を、置いて、逝くなんて……!」

酷い!!!

私は、また、大切な人に置いて逝かれる!!

そんなの、耐えきれるわけがないじゃない!


治らない。私の精神が、正常に戻らない。
大切な人を、また失うことになるぐらいなら。

――戻らなくて、いい。