- ナノ -

違えた『約束』を貴方に

page.12 5−2

「お兄ちゃん、ごほっ、できたよ」
「お、おう。大丈夫か、善子?」
「へーき」

お盆を持ってふらふらと部屋に入る。
兄は私が『動かないで』といった定位置に戻っていて、その律義さに内心で感心した。
前のめりになった姿勢は私を慮ってだろうが、動くなと言われているためか、それとも両手がふさがれているためかそれ以上の動きはなかった。
ベッドの近くに勉強机の椅子を引っ張ってきてそこにお盆を載せる。

「はぁ、ごほっ……はい、食べて」
「でもよぉ、善子。お前から食べたほうが」
「いいから」

スプーンで口元へ持ってくると心配げな瞳とぶつかる。
それに熱に浮かされた頭の中で苛立ちが募る。イラつくイラつく、生理中の女子じゃないんだから。まだ私は生理は来ていない。
どうしてこの兄はこの状況下で私を妹として扱えるのか。おままごとだと思っているからか。
むかつく、むかつく。

スプーンを唇に押し付ければ渋々といった様子で口を開くので、それをリズムよく繰り返して反論をしないように食べさせ続ける。
あっという間に完食した兄に、今度は自分の分を食べ始める。
お茶漬けだが、私の分はほとんどおかゆだ。柔らかで暖かなお米が喉を通って――いかない。

「うえっ、げほげほっ」
「善子! やっぱ病院行った方が」
「うる、さいなぁ」

苛々が募って低い声で兄の言葉を遮る。
うまくいかなくていら立っている。子供っぽい。それはわかっている。
でもいいじゃないか。私はまだ子供だ、外見年齢は。
……知っている。中身は違う。私は前世で死ぬ前、立派な社会人だった。
情けない。情けなさ過ぎて涙が……。

「うっ」
「!」

自分の量は食べられる分だけ作ったつもりだった。
茶碗の半分にも満たない量で、いつもだったらすぐに食べ終わる量だ。けれど、熱というのは恐ろしい。
スプーンとお茶碗を辛うじてお盆において、口を手で覆う。
涙じゃなくて、違うものが出そうだ。

「善子、おいしっかりしろ!」

煩い煩い。それどころじゃないのに。
ずりずりと床を這って目の前にやってきた兄を揺れる視界で見る。
っていうか、動いちゃダメって言ってたのに。ほら、また約束を、破る。

この世界に絶対なんてない。
唯一あるのは、主人公が最強という事だけ。ほかは全部不確かで、全部理不尽だ。
馬鹿だ。馬鹿みたいだ。絶対でないものを恐れて、縋りついて。

「動いちゃダメ、って」
「あっ、けどよ」
「約束、破った――嘘吐き」

気持ち悪さでじわりと涙が溜まる。
兄が動揺してあたふたと忙しなく揺れているが、そんなことどうでもよかった。
なんで、私が風邪なんかひかなきゃならないんだ。
今は兄を監禁している身なのに、私が風邪をひいたら兄の世話ができないじゃないか。普通、こういう時は監禁されている側が風邪をひいたり、衰弱して弱弱しくなるものなのに。
兄に、ろくなものも作ってあげられない。
この兄は全くもって元気そうで、何一つ変わっちゃいない。もうそろそろ監禁生活も一週間になるというのに。

苛立って、私の目の前でどうすればいいのかと焦っている兄の肩を掴む。
風邪なら、この兄がなればいいんだ。私じゃなくて。

「善子、兄ちゃんな――」
「風邪、あげる」
「あ――? ッ!?」

黙って、という意味も込めて唇を目の前の人の唇に押し付けた。
触れてなくてもわかるぐらいにびくついた体を体重をのっけて押さえつけて、不意打ちだったためにわずかに開いていた口の隙間を口で覆う。
兄の頬がカッと熱くなる。ぼやけた視界の中で、目を見開いている兄が見えてなんとなく薄ら笑みが浮かんだ。
肩から両耳に両手を移動させて、キスをしやすいように顔を上げさせる。

「っ、善子……っ」
「おにい、ちゃん」

真っ赤な顔をしてこちらを見上げる兄に、そういえばキスなんて何年ぶりだろうと思う。
4歳までは記憶がなかったため、頻繁に親やこの兄としていた気がする。あぁでも兄とは唇はなかったかもしれない。ほっぺとかに可愛い子供同士の戯れのキス。
それでもこの兄はとても喜んでくれて、頬を赤らめて仕返しだ、とキスをし返してくれていた。
でも、なんでこの兄はこんなに赤面しているのだろう。そう考えて、そういえば彼の年齢を思い出した。そうだそうだ。彼は高校生なのだった。きっと彼はこれがファーストキスだったのだろう。可哀そうに、妹にとれてしまった。でも、家族だからノーカンではなかろうか。

ぼーーっととりとめのないことを考えて、また顔を近づける。
触れた瞬間、またビクリと揺れた体に初々しさを感じて犯罪を犯しているような気分になった。でもまだ体は小学生だし、妹だし、いいのでは――あ、妹だからダメなのか。

そうかそうかと一人で納得しつつ、触れた口を開く、舌を奥から出してペロリと兄の唇を撫でた。

「ッッ!?」

キスで風邪が移るなんて、信ぴょう性がない。よく漫画やアニメやドラマとかでその光景を見るが、実際移る保証なんてない。それなら、もっと確実性を追求した方がいい。
驚きにぎゅっと絞められた口元の境目を小さな舌で追っていく。カサカサとした唇に、シャンプーやリンスだけではなくて今度はリップもつけてあげなきゃいけないなぁ。
何度も行き来しても一向に口を開ける様子がないので、首元まで真っ赤になった兄に告げる。

「あへへ」

キスをしながら言葉にしたため、しっかりと発音できなかったが意味は伝わったらしい。
目元を歪ませた兄が、ゆぅっくりと、しかし確実に口元の力を抜いていく。少しして私の舌でも割開けるようになった唇に、舌を潜り込ませる。
硬い歯に触れて、閉じていたその歯も割開く。

「っ、ぁっふ」

苦しそうに口の端から声を漏らす兄は、もう色々と限界なのかいつもは鋭く尖っている目を固く閉じて、眉を八の字にしていた。
こう見ると、本当にただの高校生だ。S級ヒーローなんて肩書なんか全く見えない。髪を下ろしていることもあるのか、作品の中の一人のキャラクターであることを忘れそうだった。
いや、違う。彼はキャラクターなんかじゃない。私の兄で、唯一の家族で。

「っぅぇ」

だから、嫌だ。
勝手にどこかへ行かないで。勝手に離れないで。一人で去っていかないで。私の前から消えないで。
胃がぎゅるりと一回転したような感覚と、一気にのど元をかける感触に身を任せた。
どろぉっとしたものが喉元から口へと飛び出して、すっぱさが加算されて気持ち悪くなる。

「ッ、ぅっ」
「ぐっ、うぇっ……!?」

兄の苦悶の音が聞こえた。
喉から吐き出されたそれを、そのまま唇の繋がった兄の口内へと流し込む。
そんなに量はない。元々食べた量が少なかったから。でも、それでも胃液とまだ原型の残っているどろっとした固体を口に突っ込まれて、平気な人もいない。
案の定兄も目を見開いてぶるぶると揺れた。どうにかそれを両手で頭を押さえて、そのまま吐しゃ物を流し込む。
飲み込まない――飲み込めるわけもない兄の口内にそれは溜まっていく。げぼげぼと吐いていくのが辛くて、目から涙がこぼれた。気持ちが悪い。辛い、苦しい。
ぼろぼろと涙をこぼしながら流し込んでいれば、冷や汗を流していた兄がぎゅっと目をむつった。そしてゆっくりと兄の喉が動く。

ごくり、と飲み込まれたそれに本当にこの人は何をしているんだろうと思う。
もういいかと饐えた臭いにする口内から口を離そうとすれば、追いすがってきた兄に驚く。そして私の舌や歯をそのぐにゃりとした大きな舌で一周して口を離した。

それが何を意味していたか察して本当に律儀な人だと感嘆した。
私の口の中に残っていた吐しゃ物を持って行ったのだ。
辛くないわけがないだろう、必死に口を閉じて内容物を飲み込む姿を見て、どうしてそこまでやるのかと思う。
はぁはぁと疲れたので口を犬のように開けて息をしていた私は、全て飲み込んだらしい、口元を私か兄のものかわからない涎でテカテカさせた兄に聞いた。

「……おいしかった?」
「……ぉう」

まだ顔を赤くして、困ったように頷く兄は、正直頭がよろしくないのだろう。
涎でべしょべしょな口元を近くにあったテッシュで拭いて、兄の口元も同じように拭ってやる。
気持ち悪さはだいぶ良くなっていた。
私は満足していた。ここまですれば風邪も移るだろう。
私は満ち足りた気分だったので、鼻歌まで歌いたくなっていた。熱で頭まで浮かされていると理解しながらへにゃりと笑みを作った。
そんな私の顔を見た兄が、ポカンとした後に笑みを浮かべたので、本当にお気楽な頭をしているなぁと思った。