- ナノ -
すぐさま踵を返し、藪の中へ逃げた。
けど、駄目だ。追いかけてくる。殺される。殺されちゃう。
嫌だな、殺されたくないな。きっと私の獲物を持って行ったっていう事や、私を的確に狙ってきたってことは、私が襲撃すると分かってたんだろう。
私をおびき寄せたんだ。やっぱり、殺すほどじゃないけど、怖い人たちだ。
しかも一人囮にするなんて、あれで死んでいたらどうするんだろう。

ああ、駄目だ。頭がぐるぐるする。必要ないことまで考えてしまう。
とりあえず逃げなくては、腹が痛い。でも逃げなきゃ。

殺されちゃうのは嫌だ。生きていたい。この世界にもっといたい。
男が二人。やっぱり私の皮を剥ぐためにおびき寄せたんだろうか。お肉まで食べてもらえない。折角殺されるのに皮だけ剥いでぽいなんて私は嫌だ。
殺すのなら、ちゃんとアイヌ人たちみたいに全部食べで、全部覚えて敬意を払ってほしい。

とりあえず逃げなきゃ。でも、逃げ切れるかな。回り込まれて殺されるかも。人間は頭がいい。
どうしよう、痛い、どうしよう、どうしよう。

そうだ。あそこの藪に隠れよう――どうしようもない時は――。







「冬眠中の羆も魘される悪夢の熊撃ち」。そう男は恐れられていた。
白髪交じりの初老の男は、仕留め損ねた大羆を追っていた。獲物の鹿をあえて持っていくことで、自分たちの領域へおびき寄せ、テントに近頃助けた谷垣という男を置いておくことで、そちらに注意を集めさせた。
結果は上々、羆は予想通り臭いを辿り自分たちの狩場へやってきた。だが、最後の一手――羆が谷垣へ向かって爪を振り下ろす所で予定違いが発生した。
羆が一瞬だけだが躊躇したのだ。その瞬間に発砲してしまい、急所をわずかに外れてしまった。
一発を外せば命取りだ。死を連想しつつ、その後も銃を発砲した男の方へやってくると考え、一発しか打てない十八年式単発銃に銃弾を入れようとしたところ、そちらを一瞬だけ見やった後に逃げ出したのだ。

臆病な羆だったのかと銃弾を銃に入れ、そのまま逃げた羆を追う。
羆の行う行動を、男はよく理解していた。伊達にこれまで二百頭以上の羆を狩ってきたわけではない。
藪に隠れ、こちらを襲う手段を窺っているか――こちらがどこかへ行くまで息を潜めているつもりか。
藪に塗れた場所に入った羆の足跡は曖昧だ。しかし通り抜けた後や音から羆の居場所を割り出す。
一つ大きな葉が茂った藪に、羆が入った後を男は発見した。
血の跡もある。

だが――僅かな違和感を感じた。男は何かは分からなかったが、僅かに近づけばそれは直ぐに分かった。

「っ――」
「人間の声、だと?」

銃を下ろさずに身長に近寄る――そして、藪を一気に足でけり上げた。

「――これは、一体どういうことだ」
「っ、は」

そこには、血に塗れた身体を丸めながら怯えた目で男――二瓶鉄造を見る幼いアイヌの少女がいた。


「おい、熊にやられたのか」
「っ、ち、違ぅ……」

怯えた様子の少女に銃を下した二瓶は、周囲を確認しつつ少女へ膝をつく。
既に周囲には羆がいるような痕跡はなかった。恐らく逃げてしまったのだろう。
追うことは困難だと考え、二瓶は少女の傷口の状態をみようと手を伸ばした。

「ッ、こ、殺すの……?」
「何を言ってる。傷口を診せろ、血を止める」
「た、助けてくれるの?」
「死にたいのか?」
「……死にたく、ない」

これだけ喋れているならそれほど深い傷ではないのかもしれない。
そう思いながら、怯えながらも目線を逸らさず言葉を発する少女を見る。
こんなところに幼い少女が一人でいる。その可笑しさに内心で首を傾げながらも、少女が押さえ込んでいた腹の傷の腕の手を退ける。
そして、そこにあったものに驚きの声を上げた。

「銃創、だと?」

酷く血が滲むその傷口は確かに銃創だった。二瓶が見間違えるわけもない。
服を捲り上げてそれは確信に変わった。確かに少女は撃たれていた。
思い返すのは自分が追いかけていた羆だ。丁度少女と同じような部位に銃弾が当たった。
そこまで考え、馬鹿なことを考えたと思考を切り替える。傷は深い。下手をすれば直ぐにでも死ぬ。
手を尽くしたとしても生き残る可能性は高くない。それならば一思いにするのも一つの手だった。

「――たすけて」

吐息のように漏れた声に、二瓶は顔を顰めた。

「……助ける。気を張っとれ」

二瓶は少女へと手を伸ばした。

たすけて