- ナノ -



国体はそれぞれの県で色々な学校から選手が選別されるため、その選手たちのポジションや連携練習のための期間が設けられている。うちは皆山王なのであまり必要はないが、その準備期間を含めると神奈川にいる期間は一週間ほどとなる。
そして記念すべき一日目だが――想像通り観光やら何やらと言っている暇などない怒涛の一日となった。
学校で借りていた施設でフォーメーションの確認、一回戦で当たる学校への対策、ポジションの確認とこれぞ山王バスケ部といった具合で、三年目だというのに感嘆してしまった。記憶が戻ってから感情が豊かになったと自覚するぐらい感受性が上がったため、去年も経験していることだというのに新鮮に感じてしまう。
大部屋で夕飯を食べ、そのまま布団を敷いて雑魚寝する。これだって何度も経験しているのに、なんだか嬉しくてソワソワしてしまう。ああ、なんだか感性が小学生に戻った気分。今生の小学生でもこんな感性していなかったが。
皆で行った風呂もかなり大きかった。ホテルが大きい分、面積も広く露天風呂まであって沢北と一緒にはしゃいでしまった。
と言っても今日はスケジュールがガチガチだったため風呂もそこまで楽しめなかった。サウナもあったが入れずじまい。

――というわけで、ただいま深夜十一時。抜け出して風呂に入ってこようと思う。
別に規則違反とかではない。流石に何時までに寝ないといけないとか、修学旅行のような独自ルールはない。まぁ、暗黙のルールみたいなものはあるが問題を起こさず戻って来ればいい。
そんなわけで二つあるうちの部屋の鍵を一つ頂戴し、こっそりひっそりと音を殺してタオルや上着などを持って部屋を出ていく。
幸い物音で起こした人はいなかったようで、途中深津の日本語なのか怪しい寝言が聞こえて肝が冷えたが無事部屋を脱出することができた。なんだか達成感がある。手にした上着を着物の上から羽織ってフードを被る。別にやましいことをしているわけではないが、もし監督に見つかっても違和感なく視線を逸らすための大事なアイテムだ。いや、本当に悪いことはしていないのだが。
風呂が掃除のために閉められる時間はあるが、人が外出する昼の時間に実施されるという説明書きを見たため、今は空いているだろう。
貸切だと嬉しいんだけどな。などと思いながら軽い足取りで風呂場までの階段を降りていった。

「おおっ、貸切」

思わず歓声が出て、慌てて口を塞ぐ。
ぱっと見、脱衣所には誰もおらず、置かれたカゴにも衣服などが置かれている箇所なく、人がいる様子はない。
盛り上がる気分を抑え、かごの中に衣服を入れていく。タオルを腰に巻いて、いざゆかんと風呂場の扉を開いた。

「やっぱ誰もいない……」

顔がにやけてしまうのを手で抑える。こういう特別感に高揚するのは何年振りだろう。楽しくなる感情も含めて嬉しくなってしまう。
簡単に体を流して、早速風呂に入ろうとする。腰に巻いたタオルは今度は頭にかける。やはり風呂場の正装はこれだろう。
熱いお湯に足からゆっくり浸かっていく。体に染みる熱が、じわじわと全身に広がって、表面からじんわりと内側までを暖めていってくれる。
感嘆の息さえも飲み込むほどの気持ちよさに、一人忘我の心地よさを味わう。ああ、抜け出してきてよかった……。
お湯の心地よさにぼうと浸っていると、がらら、と後ろから音が聞こえた。すぐにわかった、扉の開閉音だ。
やはり同じことを考える人はいるもので、俺のように貸切空間を楽しみにきたのだろう。だが残念だな、俺が既に邪魔をしている。この貸切空間が終わってしまうのは残念だが、少しでも味わえたことに感謝しよう。
温まってきた体を浸らせ、頭を空っぽにしてゆったりと流れる時間を味わう。
こんな時間、今生では初めてかもしれない。
人生をあまりにも楽しまずに生きてきてしまったなと思うが、同時に今の時間があまりにも幸福に思える。
――と、背後から人の気配を感じた。
風呂に入ろうとしているのか、と緩む体をゆっくりずらそうとする。別にここから入らなくてもいいとは思うが――。

「ッうぁあ!?」

その瞬間だった、わずかに開いた脇に何かが突っ込まれ、それを起点に真上に引っ張り上げられたのは。

「え、は!? な、なんだ!?」

完全に油断していて何一つ対処ができなかった。唯一できたのは宙ぶらりんになった体の中でもさらにぶら下がる男の象徴を手で覆い隠すぐらいだろうか。なんだそれなんでそれしかできねぇんだ嫌すぎる。
咄嗟に首を動かしてみれば、脇から出ているのは人の腕だった。腕! ということは、人が俺を持ち上げているのか!
いや、それ以外に持ち上げられていたら怖すぎるけど、人でも怖い、怖すぎる!!

「おい、ちょ、離してくれ!!」

何がどうして他人に持ち上げられるなんて状況になってるのか全く分からないが身の危険しか感じない!
っていうか筋力あるな俺一応八十キロ近くあるぞ!?
浮いた足先が湯船を蹴る感触に、相手の身長まで高いことが知れて更に焦る。なんだこれもしかして雪男とか? 風呂場に? んなわけあるか!
どうにか体を捻って視線を向けようとすると、黒目が信じられないほど近くにあってビビり散らかした。

「ひ、うわ、え、さ、桜木!!??」

黒目にビビってた俺がどうにか捉えたのは、赤い髪色、鋭い眼光。それはあまりにも至近距離だったが見間違えるはずもない、SLAMDUNKの主人公桜木花道だった。
え、なんで俺主人公に風呂場で全裸で吊られてるんだ!?っていうか主人公は服きてるし!!
あまりの意味不明さと理不尽さに混乱を通り越して錯乱しかけていた時、桜木が脇から腕を移動させて胴体にガシリと腕を回した。
え! なに!? 今度は何!?
腹を圧迫されるレベルのそれにカエルを潰したような声が出つつ、次の行動に息が止まった。
胴体に腕を回すことで宙に俺を固定した桜木は、今度はどうしたことが俺の腕を引っ張り始めた。
股間を死守していた右腕を!!

「は!? おい! マジでやめろ!! なんで!?」

錯乱を通り越して涙腺が緩んできた。人ってどうしようもなくなると涙が出てくるんだこんなところで知りたくなかった何これ誰か助けて。
潤む視界に何もかもがどうでも良くなり後頭部での頭突きをかましてから足を払って湯に落とすイメージが頭の中で瞬くが、瞬時に却下される。彼はインターハイの山王戦で背中を痛めているはずだ試合にも出られないのだから完治しているはずもない、そんな彼に危険なことなどできるかでもマジでもう無理力強い腕引っ張らないでェ!!

「……ほんとに……なに……」

それが最後の心の叫びだった。というかもう泣き声ですよ。半泣きになりつつ抵抗虚しく腕を引き剥がされましたよはい。
ここまで暴れたのにビクともしないどころか安心感さえ抱かせるしっかりとした抱え方で引き剥がした腕を見つめる桜木――腕?
その鋭い視線の先は、なぜか腕……というか二の腕に注がれていた。いや、引き剥がした先を見られたらマジで湯船に叩き込んでたかもしれんがそれはそうとなぜ二の腕……?
本気で理解出来ずに、ただ無抵抗にぶら下がっていると、今度はぐるりと体が回転した。
うげぇ今度はなんなんだもう泣きそうだよ俺は。

「やっぱりお前……」
「なに、なんなんだよお前……」

この感覚、インターハイでの山王戦を思い出す。忌々しきあのスポーツマンゾンビ……。
思考が空へ飛んでいく寸前、桜木が口を開く。

「血濡れのブラッドウルフだろ!」
「……はへ」

なん、それ……なんか不良マンガの二つ名みたいなの……。
しかしこちらがなんだそれ……という顔をしているだろうに彼は信じて疑わないような真っ直ぐな目をしてこちらを睨みつけている。
ええ、なに……ブラッドウルフ……?
動かない頭をどうにか起動させる。血濡れ、ブラッドウルフ……不良の二つ名みたいなやつ……。
泥水のような脳裏に、豆電球がピンと灯る。あかりに照らされた周囲は不良が倒れ、血が流れていて、そこに立つ一人の青年――。

「……俺の事、か?」

ぼんやりとした記憶の中、相手の不良がそんなことを口にしていたような気もする。
血濡れのブラッドウルフ――当時は二つ名なんて心の底からどうでもよかったし、なんて呼ばれるかなんて欠片も気にしていなかった。ただ殴る相手がいれば良かったから。
だが、今は――。
パ、と光が灯るように明るくなった表情に目を丸くする。

「やっぱりあんたなんだな!!」
「へ、あ、いや……」

今更人違いですとは言えないような明らかに上がったテンションに、抱き上げられながら困惑する。人違いとは言えない、言えないが言わせて欲しい。
なんだろうこれ、どうなってるか訳わかんなすぎて怖すぎるよ……。



とりあえず貸切とはいえ風呂場で抱き抱えられながら話をする趣味はなかったので――しかも全裸――場所を移動し、脱衣所の長椅子に二人で腰掛けることになった。なぜ。
しかし湯船に浸かっていた俺を引き上げ確保したことにより桜木はびしょ濡れもびしょ濡れだった。俺もそれなりに暴れたし。それも見ていられなかったので、浴衣を借りて桜木に着替えてもらった。フロントに人がいて良かったよほんと。あと浴衣を快く貸してくれるところで更によかった。
そんな訳で脱衣所――なぜ脱衣所かといえば、人がいないし誰か来ても直ぐに分かるからなのだが――で彼の話を聞くことになった。
曰く、恩人の。

「……つまり、桜木が中学の時に不良に囲まれていたところを俺を助けて」
「おう」
「それが実は家で親父さんが倒れた時のことで」
「うむ」
「助けられた桜木はそのまま病院へ向かったが、その先で既に救急車で親父さんが運ばれていて」
「ああ!」
「話を聞いてみたら桜木を助けてくれた不良が呼んでくれていて、それが俺だと……」
「おうよ!」

キラキラ輝く瞳で見つめられている。めちゃくちゃ輝いている。凄い星空みたい凄い。
しかし……なんというか、記憶が、ない……。という訳では無いのだが、めちゃくちゃに曖昧でなんとも言えない。
確かに……引越しをする直前になんか赤い頭の青年を助けた気もしないでもなくもない……確かにその後不良を動けなくした後に適当に歩いていたら扉の空いた民家を見かけて、玄関に倒れている男性がいたからこれまた玄関にあった電話で救急車を呼んだ気も……ただ面倒事に巻き込まれたくなくて救急隊に家族じゃないからと言ってその場を後にした気もする……。
よくそんな衝撃的なこと忘れてたな、みたいな出来事だが、言われて思い出しても漠然としている。マジで記憶思い出すまで――特にバスケを始めるまでの記憶が曖昧模糊としていて信用ならない。興味のないことは覚えていないと言うが、ここまで来ると病気を疑う。
と、そんな自分の記憶に対する疑惑はいいとして――彼を助けた、か……。

「あー、と」

ふんふん、とシッポを振っているような幻覚さえ見える主人公君に、なんと言っていいのか言葉が詰まる。
未だに本当に自分がそんなことをしたのか釈然としないし、そんな目を向けられる相手でもない。けれど、申し訳ないがそれよりも。

「なんで俺がそいつだと思ったんだ?」
「ぬ? ブラッドウルフか?」
「あ、ああ。その、妙な二つ名の……」
「妙とはなんだ! カッコイイだろ」

む、と眉尻を上げる桜木に、ええ、と声が漏れる。カッコイイかそれ……?
しかしそれよりも先程の答えだ。どうして俺だとバレたのか。

「あの人のトレードマークはフードだったからな! あんたがフードしてる姿を見て、ピンとしたんだよ!」
「え、それだけか?」
「あとは風呂場で確認した二の腕だな!」

ああ、そういえば桜木の過去の話に気を取られて風呂場での事件を忘れてた。マジであれは事件だから出来ればやめて欲しかった。
しかし、二の腕。
自分でも気になって桜木が風呂場で確認していた二の腕を見やる。着物の袖を肩までめくると、筋肉の着いた腕が出てくる。

「ほら、ここだ!」
「……怪我の跡?」
「あんた、俺を助けてくれた時、ナイフ持ったやつに切られてただろ? 病院の人も、あんたが腕に怪我してたって言ってたしよ」
「……」

……その時だったんだこの怪我できたの。
いや、まじで、本当に覚えてない。確かかなり出血を伴う怪我をして父からこれ以上ないほどに心配されたのは覚えているが、あれってその時だったのか。
正直、昔に関しては痛みについての記憶はほぼない。痛覚がなかったんじゃないかと思われるぐらい、痛みに関しての思い出はなかった。
ついでに、バスケ部時代も痛みの記憶は無い。
いやこわ……痛覚思い出してよかった……。
十センチほどの二の腕の内側にある跡を眺めながら、内心でため息を着く。
いそいそと裾を戻して、桜木を見やった。
未だに顔の明るい青年は、ここで人違いと言っても納得はしてくれないだろう。そもそも俺も色々話してしまったし。
坊主頭の後ろを軽く撫でて、それならと白状することにした。

「確かに、桜木が言ってる奴で合ってると思う」
「だろ!」
「けど、その事、誰にも言わないでくれないか」
「ぬ?」

首を傾げる桜木に、内心でまたため息を吐いた。彼にでは無い、過去の自分へ、だ。
まさかこんな形で対面することになるとは。一生、墓まで持っていくと決めたばかりの過去の自分に。

「昔、不良だったことは秘密にしてるんだ。ヤバいやつだったし、今の仲間には絶対知られたくない」
「ぬ……」

頼む、と頭を下げる。
聞いてくれるだろうか、頼まれてくれないと困る。彼らと疎遠になるのは嫌だ。せっかく出来た仲間で、大事な友達だから。

「ジジョーはよく分からんが」

ぽん、と肩に手を置かれて様子を伺うように顔を上げた。そこには真面目な顔をした桜木がいて、彼はひとつ、大きく頷いた。

「恩人の頼み事を引き受けねぇ理由はねぇ。あんたの昔のことは、俺とあんたの秘密だ!」
「桜木……」
「それから! 俺はあんたに感謝してんだぞ。あんたのお陰で親父も助かった」

ずっと礼が言いたかったんだ、そう口にされたかと思うと、赤い頭が下がる。

「ありがとうございました」

そうハッキリ言われた言葉に、思わず固まってしまった。あの桜木が、頭を下げて礼を言っている。
それに、ようやくことの大きさがわかった気がした。SLAMDUNKでは桜木は父を失っているようだった。それがなくなった。桜木の家族は生きている。
それはきっと、彼にとってとてつもなく大きなことだったのだろう。だから風呂場であんな行動をしたし、この言葉は、たぶんだが、ずっと言おうと考えていた感謝の言葉なんじゃないか。

「……親父さんが無事でよかったな」
「……おう」
「ありがとな。わざわざ礼を言ってくれて」
「……ぬ」

顔を上げた桜木が、少しだけ目を泳がせる。そんな彼に笑いかけると、目を瞬かせた後に、二カリと笑みを見せてくれて、なんだかとても嬉しくなった。
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