- ナノ -


弐拾壱


他の部員に遅れること数十分。ようやく着替えが終わったが、もう見るからに怪我人になってしまった。やはり頭に包帯巻くと仰々しい。
しかしガーゼを取り替えるために取られた時に、めちゃくちゃ怒られてしまった。
頭はどうやら治療のために坊主頭をさらに刈った上で針で縫っていたらしい。まぁ、簡単に言うと切り傷はどの傷よりもグロデスクになりがちだ。
そんな傷をみたものだから、みんなに揃って怒られた。だから見た目ほど――と思ったが言うのはやめておいた。少し嬉しかったから。
黙ってお叱りを受け、包帯を巻かれて何故か安静にしろと椅子から立つことを許されなかった。そこまでじゃないのだが。

「松本、こっちへ」
「はい」
「親御さんが来ている」
「……え」

そうして授与式まで時間を潰していた時だった。監督が現れて、そんなことを言ったのは。
親御さん――俺の場合、母はいない。だから一択に絞られる。

「様子見に来てくれたのかな」
「心配してるピニョン。早く顔見せてあげるピニョン」
「松本立てるか? ……松本?」

様子を見に来たって、今日は仕事のはず。わざわざ休んでこっちまで来たのか?
元々神奈川に住んでいたとはいえ、引っ越し先は地方から違う。そこからこっちまで?
押し黙っていると、野辺が膝を折って顔を覗き込んできた。

「どうした。顔色悪いぞ」
「え、体調悪いんすか?」
「事情説明して少し待っててもらうか?」
「いや……平気だ」

立ち上がって、肺に溜まった息を吐く。
体が重い。泥沼にいるようだった。それでも待たせられないと一歩踏み出そうとすれば、横から深津の顔が現れた。

「無理するなピニョン」
「……無理はしてない」
「顔色最悪ピニョン。……親御さんと何かあったピニョン?」

少しだけ躊躇で間のあいた問いに、図星ゆえに言葉が詰まる。
何かといえば、ここ数年は何もない。普通の親子関係であれたと思う。突然帰宅して驚かせたりはしたものの、亀裂などはない。
ただ、今の状況であの人の前に出なければならないのは気が重かった。
傷だらけで、俺も人を傷つけたすぐ後。昔の、嫌な日々が蘇るようだった。
どんな顔で会えばいいのだろうか。あの人はどんな顔をしているのだろうか。どんな目で、俺を見るのだろう。
だがその恐怖は、口に出すものじゃない。

「何もねぇけど……馬鹿やったから、会うのが怖いだけだよ」

そう言って笑いかければ、深津は少し黙った後に軽く腕を叩いた。

「泣いても慰めてやるから、早く帰ってくるピニョン」
「……んだよそれ」

深津の物言いに、少しだけ、作った笑いではない笑みが浮かんで、僅かに気が軽くなる。
でも、そうか。俺は――ここに帰ってきていいんだな。彼らは、俺を待っていてくれるんだな。

「すみません、遅くなりました」
「……いや、それより体は平気か?」
「はい。大丈夫です」

気遣ってくれる監督に問題ないと返し、彼の後ろを着いていく。
歩いていった先は、施設にある個室の一つで、そこに父がいるのだろう。
叱られるだろうか、失望されるだろうか、悲しまれるだろうか。そのどの表情も想像するのさえ嫌で吐き気がする。

「入るぞ」
「はい」

監督の声に頷く。監督は扉を叩いて、扉を開けた。
開いた白い扉の先。そこには個室に置かれた長机と、その前に置かれた椅子がある。その椅子にスーツを着た少しくたびれた男性が座っていた。
顔つきは俺に似ている――いや、俺が彼に似ているのだ。眉や輪郭なんかそっくりで、否が応でも彼と親子関係であると理解出来る。
父は慌ただしく立ち上がると監督の前に来て、軽く頭を下げた。

「忙しいのに連れてしてもらってすみません」
「いえ、次の予定まで余裕があるので大丈夫ですよ」
「そうですか」

ほっと息をついた父は、少し監督から視線を逸らした後に「息子と二人にしてもらってもいいですか?」と尋ねてきた。当然了承した監督は、授与式の時間を告げて部屋を退室する。
その足元を俯きながら最後まで見つめていれば、目の前に影がさした。

「……稔」

発せられた名前に、もういっその事以前のように土下座をしてしまおうかと迷う。前はただ必死だったけれど、あの時のようにすれば、彼も混乱して有耶無耶にしてくれるのではないか、と邪な想いが漂った。
直ぐにその考えを振り払う。ちゃんと向き合わないと――この人に。

「ごめん、父さん……」

怪我をしてごめん、試合に出てごめん、また暴力を奮ってしまってごめんなさい、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。
目を見て謝らなければと重い首を上げる。その先で、肩に手を置かれて体が震えた。

「試合、凄かったな」
「試合……?」
「大活躍だったろ。途中から見てたんだよ。稔がどんどんゴールを決めて、凄くカッコ良かった」

そう、優しげな声色で褒められて、混乱する。ゆっくりと目線を上げれば、父さんが微笑んでいた。
記憶の中、暴力に走る前にとてもよく見ていた表情だった。父性に溢れていて、嬉しいと、幸せだと伝わってくるような。肌がチクチクとして、胃が重くなる感覚。
それを素直に受け取れなくなって、逃げ出した。愛していると言葉にせずとも伝えられるそれらに耐えられなかった。

「……傷だらけだな」
「あ、え、と……」
「襲われたって聞いた。喧嘩したのか?」
「し、てない、けど……後輩が、殴られて……それで、結局」
「……そうか。病院に行って傷のこと聞いたよ。それまで、耐えてたのか?」
「……うん」

彼はそっと肩を押して、そのまま包むように抱きしめてきた。身長は俺の方がもう高くて、首元で父の声がする。

「喧嘩をしないで偉いな」
「……」
「けど……稔がこんなに傷だらけになるんだったら、やり返してやれなんて思ってしまった。稔は頑張って耐えてたのにな」
「……父さん」

なんと返せばいいか分からず、ただ呼びかけるしかできなかった。
父さんは背中を撫でて、よく頑張ったな、と労る。ああ、変わらない。この人は、優しすぎるのだ。喧嘩をしてきた息子を叱るのではなく、訳を聞こうとする。しでかしたことよりも、体を心配する。そう、ただ一度だけだ。彼が、俺を怒鳴りつけたのは。
しばらくそうしていて、父さんが距離をとった。それに従って俺も離れる。
肩に置かれた手はそのままに、父さんを再び見やれば、素敵な笑みを浮かべていた。
……素敵な笑み?

「ところで稔」
「え、う、うん」
「父さん。昨日先生から連絡もらってな。稔が入院したって聞いて慌てて神奈川に来たんだ」
「え?」
「着いたのは朝でな? タクシーで病院について軽傷だとは聞いていたけどもうハラハラしならが受付まで行って、病室に行ったんだ」

ぐぐ、と肩を掴む力が強まる。
全身から冷や汗が流れる。どうしよう、思い当たる節しかない。朝の病院、タクシー、病室。

「そうしたら病室がもぬけの殻でな? トイレやら休憩室やらを探し回ったけどどこにも居なくて、病院から堂本という方から電話ですって言われて出てみたら試合会場に居るって」
「あ、あの、それは――」
「稔?」
「すみませんでしたッ!!!!」




――父さんは監督から電話をもらい、試合に出たいと抜かす息子に頭を痛めながらも了承してくれ、慌てふためきながら病院で退院手続きをして、費用などを払い、病院で渡された湿布などの医療品を持って試合会場まで来てくれたそうだった。試合も途中から観戦し、試合後は監督に医療品を渡して落ち着いたら会わせて下さいと頼んでいたらしい。
我が父ながらなんとできた人なのだろう。土下座する勢いで謝って許して貰えたが、今後は絶対に連絡を入れるようにと厳命を受けた。絶対に守ります……。
父は無理をしないように、とはっきりいってそのまま会場を後にした。仕事を休んできていたし、少し祖母の顔も見たいからと。
俺が祖母が試合を見に来てくれていたことを話すと父さんはとても喜んでいた。祖父のことも聞いたと告げて、近いうちに共に線香をあげに行くことになった。

父さんが去って、ロッカールームへと一人で戻る。父さんがこの場にいて、試合まで見ていたなんて信じられなかった。父さんは仕事で忙しく、試合を見に来たことは一度もなかった。俺もあの人に見て欲しいと思ったことがない。
けれど、ああして褒められるのは、嬉しかった。

扉を開けて中に入ると、待っていたかのように沢北たちがこちらを向く。
彼らの元へ歩いていって、たどり着くと深津が尋ねてきた。

「どうだったピニョン?」
「……相変わらずだった」

そう、何も変わらない。本当に優しくて、思慮深くて、何より家族を愛している、聖人のような人だった。
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