- ナノ -


拾肆


駅の構内を歩きながら、ぼんやりした頭で考える。
まるで夢を見ているようだった。こんなことが起こることがあるんだと、心底思う。
人生の変化は、SLAMDUNKの記憶を思い出したところが頂点だと思っていた。それ以上に、何か変わることなんてないと思っていた。
けれど、俺の人生は意外と誰かとつながっていて、一生許されるはずがないと思っていた人に許される日が訪れた。

「松本さん、大丈夫っすか?」
「……あ、ああ」
「なんかずっとぼーっとしてますよ。体調悪いとか?」
「いや、違うんだ。すまん、眠いのかもな」

目の前で振られた手に、どうにか現実に戻ってくる。
そうだ、沢北がいるんだった。早く二人でタクシーに乗って帰らないと。
二人でタクシー乗り場を探し、駅から出る。
看板の地図を確認しつつ、タクシー乗り場がある方面へと足を進める。出てきた入口とは別の入口の側にタクシー乗り場があったらしく、駅を回り込むように歩いて行く。
歩いている途中、少し薄暗い道が見えた。チラリと目を向けると、柄の悪い不良なのかチンピラなのか分からない集団がいて、回り込むのは良くない判断だったと足を止めた。それなりに明かりがあり、人通りがあったことで油断していた。

「松本さん、どうしたんすか?」
「いや、一旦戻ろう。構内から――」
「マツモト?」

背後から聞こえた声に、咄嗟に振り返る。そこには三人の男たちがいて、見るからに素行不良が伺えた。
しかも、手には何に使うのか鉄パイプまで握られている。
しかし、なぜ俺の名前に反応したのか。
一人の大男がぐいと距離を近づけてくる。それに沢北の手を引いて後ろに下がろうとしたところで、後ろからも気配を感じた。

「見つけたのか?」
「うわっ」

沢北が驚きの声を上げる。後ろには、先ほど薄暗い道でたむろしていた男たちがやってきていた。
咄嗟に沢北の手を引っ張って壁側に距離を取る。しかし距離はそれほど存在しない。壁を意識しながら、逃走経路を確認する。

「言われてみれば似ちゃあいるが……」

こちらの顔をジロジロと見てくる相手に睨み返しつつ、沢北の背を叩いて、やってきた駅の入り口側へ背に矢印を書く。
目を忙しなく瞬かせた沢北がこちらを見るが、それに視線は返さずに背中を優しく叩いた。
相手の数は、最初の三人と後からやってきた三人。たむろっていたのは五人ほどなので、まだ二人いると考えた方がいい。安全にこの場を去るのは難しそうだし、ここで時間を食うのもいい案とは言えない。話の通じない相手というのはどこにでもいる。
ならばそもそも相手にしなければいい。

「行け!」
「ッす!!」

声とともに思い切り背を押せば、猛烈なスタートダッシュを決める後輩。
その脚力に思わず笑いそうになりながら、同じくその背を追うように走り出す。
相手はろくに反応もできずに視界の外へ遠ざかる。待て! と聞こえたが無視をして、沢北に指示をして駅の中へ逃げ込むように告げる。

「あっちからタクシー乗って――ッガ!?」
「っ、松本さん――!?」

背中に何かがぶち当たったような衝撃が走り、重心が崩れる。
そのまま前のめりに肩から地面へ転がって、同じように地面に落ちたそれに何が起こったか悟る。どうやら鉄パイプを投げつけられたらしい。
背中への痛みに顔を歪めるが、それでも動けないほどじゃない。立ちあがろうとしたところで、手を貸そうとする沢北と、ずいぶん近い距離まで縮められてしまった男たちを見て沢北の手を弾いた。

「え、」
「先にホテルにいけ」
「な、できるわけ――!」
「早くしろ!」

立ち上がった勢いそのままに沢北を押しやる。突き飛ばされた彼は、よろめきながらも前へ進み、同時に俺は誰かに肩をつかまれた。
相手はもうわかっている。無理やり振り返らせられると、拳が迫ってきていた。それを避けずに気づかれない程度にぶつかる角度を調整して殴られる。
後ろに反動を逃して、大袈裟に壁にぶち当たった。大きな音が鳴り、これで警察でも来てくれないかと内心で願う。
あ、沢北に警察をお願いすれば良かったか。そこまで頭が回らなかったな。
沢北の方を見ようと思ったが、周囲を囲まれて男たちの足によって視界が遮られる。見上げるとガタイのいい男――青年もいるか?――たちがおり、なんだか懐かしい気分になった。
昔はこういう時、反撃して互いに傷だらけになっていたが、今はそうは出来ないし、するつもりも無い。
なら今はどうすればいいかは分かりやすい。ただボコられて、抵抗せずに嵐が通り過ぎるのを待つ。明日も試合なので、致命的な怪我を負いそうな場所は避けつつ殴られる。多少の痛みは殴られている最中も、試合中も我慢できるから後はできるだけユニホームの下に隠れる場所を殴らせればいい。範囲が狭いが、やれない事はないだろう。
どれぐらいの時間、暴行されるか。誰かが警察を呼んでくれるなら早めに終わるだろうが、そうでないならタクシーでホテルに帰った沢北が監督に説明する時間がある。それでも十五分から三十分以内には来てもらえそうだ。それぐらいなら問題ない。
倒れていれば胸ぐらを掴まれ、明かりの少ない裏手に引きずられていく。

「おい、マツモトミノルってやつ知ってんだろ?」
「……」
「兄弟か? 今そいつはどこにいる」

目の前にいる、とは口が裂けても言えないため何か別の事を伝えなければいけない。
しかし、まさか俺を探していたのか。だから顔を凝視されていたのか。だが、最初から俺が標的だったなら沢北には悪いことをしてしまった。やはり着いてきてもらうべきじゃなかったか。
だが、どうして俺はこいつらに捜索されているのか。神奈川に住んでいたのは三年も前だし、国体のためにやってきてまだ四日しか経ってない。

「そんなやつは、知らない」
「嘘だな。ここいらでの目撃情報はあるんだ。マツモトが着てた服の特徴とも似てる。全く知らないってわけじゃねぇだろ」

国体の間、着衣していたのは基本的にジャージだ。白が特徴的な山王バスケ部指定のもの。上は灰色の自分のパーカーを今は着ているが、白ジャージは特徴的ではあるだろう。
恐らく、彼らのいうマツモトとは俺の事で確定だろうが……。
探している理由が判然としない。名前はギリギリ、中学の頃なら学校さえ分かればフルネームぐらいはかつても調べられただろう。
袋小路で一対多数。駅から少し遠くなってしまったな、一般人が通報してくれるのは望み薄か。

「さっさと吐けよ。あいつはどこにいんだ」
「……だから知らないって言ってるだろ。服とかも、偶然だ」
「は、どうだかな」

近づいてきた男に、怯えるように距離をとる。腕を掴まれ、振り上げた拳を見やる。
腹――。
硬い拳が腹に直撃し、うめき声とともにその場に蹲る。
ダメージが内蔵にいかないように腹に力を入れたが、それなりに痛みは来た。咳き込みつつ、腹を抑える。
まぁ、腹ならいい。顔はどうやっても見えてしまう。

「だ、から、知らねぇって……! それに、そんなやつ見つけてどうすんだよ……」
「どうする? そりゃあ見つけ出して息の根を止めてやんのさ。アイツにやられなかった不良なんざ、居ねぇからな」
「……」

三年も前に消えた不良相手によくやる。
しかし、残念ながら彼らに覚えはなかった。もしかしたら殴り倒した中に居たかもしれないが、記憶の中では埋もれて顔が判別できない。
そういうやつだったから、彼らも未だに根に持っているのかもしれないが。

「本当に知らないんだ。離してくれ、何も教えられることなんてねぇよ」
「……まぁ、あいつの舎弟だとしても、簡単に喋るとは思っちゃいねぇよ」

突き飛ばされるように放り投げられ、そこに顔を狙って拳が迫る。
顔はやめて欲しいが、避けても不自然だ。
顔に衝撃が走り、そのまま地面を転がる。さっきので唇が切れた。血の味がする。

「情報を吐くか……それともお前をボコッてりゃそのうちマツモトも来るか? どっちにしろ、ズタボロにしてやるよ」
「……」

他の仲間たちも近づいてくる。どこなら痛みが出にくいか、背中の方がまだいいかな。
怖がるように頭を抱えて背を向ける。次いで覚えた衝撃に、懐かしさを感じていた。

昔は痛みを感じた記憶もなかった。ただ肌の色が変わって、血が流れ、体がだるくなって。
殴られ蹴られとしていると、時間が遅く感じる。早く終わって欲しいと感じるほど長くなる。衝撃からくる痛みが、どんどんと鈍くなっていく感覚がした。

「口が硬ぇ奴だな」

舌打ちとともに、自分の体が誰かによって仰け反らされる。膝立ちになった先で、鉄パイプを手に持った男が目の前にいた。

「言わねぇと頭をかち割る。マツモトはどこにいる」

何度も何度も同じ質問。
時間は恐らくまだ。ユニホームの下に隠れない場所にもいくつか傷が出来てしまった。インナーを着ればギリギリ隠せるか出るかぐらいだろうか。
頭は直撃したら困るな、上手く当たっている振りをしながら避けなければ。怯えながら睨めつけるように、動きを凝視しつつ答える。

「だからッ、俺は無関係だって……!」

相手の顔が怒りに赤らむ。息を吸い込み、筋肉が動く。
来る――と身構えた瞬間、鉄パイプを持った男の背後にいた青年が一人、弾かれたように吹っ飛んで壁に激突した。
悲鳴と共に地面に倒れ伏して動かなくなったその姿を見て、周囲の男たちが騒つく。
この場に新しい暴力をぶつけたのは、髭を生やして長髪の男だった。

「テメェ、鉄男!」
「さっさと散れ、邪魔なんだよ」
「んだと……!」

鉄男を知っていたのか、口々に彼の名前を上げる男たち。
その光景を、まるでテレビ越しに見るような感覚で見つける。どうしてここに鉄男がいるのだろう。
相手にしない彼の態度に顔を赤くしているチンピラに対し、俺を殴ろうとしていた鉄パイプの男は怒りの表情を一転させ勝ち誇った笑みを見せた。

「鉄男、テメェが来るってことはビンゴってことらしいな」
「……俺だけじゃねぇみたいだぜ」

奥――通りに近い方で、誰かの悲鳴が聞こえた。
俺の動きを封じていた男の拘束が緩む。人混みを拳で引き倒した青年たちが、歩み出てくる姿を見た。

「セーギの味方。参上ってやつだぜ」
「こっち側に回ることになるなんてね」
「喧嘩しに来たんじゃねぇんだ、さっさと回収するぞ」

赤い頭をタオルを巻いて隠した花道と、タオルで顔を隠した宮城と三井。
目の前の光景が信じられなくて、手を掴まれていなければ目を擦っていたところだった。
どうしてここに彼らがいるんだろう。正義の味方? こっち側? 回収って何を。
呆然としていれば、男が鉄パイプを握る音が耳を掠める。
けれどそれより、雷のような声が耳を貫いた。

「松本さん!」

花道たちの背後から、駆け出してくる見送ったはずの後輩に、耳がキン、と遠くなる。
どうして? 危険だ、タクシーはどうした、お前が彼らを呼んだのか? こっちへ来るな。こっちを見るな。
さまざまな言葉が頭を駆け巡って反芻する。駆け出す沢北が、スローモーションに映る。
同時に映る光の反射。気づいた時には鉄パイプは振り上げられていて、目を見張る。

脳を揺さぶる鈍い音が轟き、頭がボールになったような感触を覚え、そのまま文字通りボールのように転がった。
ぐわりぐわりと脳が揺れる。立ち上がれない。力が入らない、頭が痺れている。脳が震えて、振動が止まない。
誰かの声が聞こえる、悲鳴かもしれない、笑い声かもしれない。誰のものか分からない。
かろうじて、直撃だけは避けられたから、大きな怪我にはならないだろうことだけは分かった。この数秒、脳が揺れても、立ち上がれなくとも死にはしない。
パイプがぶつかった場所から、何かが流れていく。暖かいが、すぐに冷たくなっていく。不愉快だった。
視界が暗い。どうにか動かなければと地面を這う。薄暗いが灯りはあったはずなのに、視界が遮られたように見えない。
視界に異常が出たかと目元を触ろうとしてみれば、転がった時にフードが頭に被っただけだった。

「――!」

誰かの泣き声がする。柄の悪い男たちが集まっているような状況で、誰が泣くというのだろう。
ああ、いや。知っている。一人だけ。泣き虫で、すぐに涙が出てしまう後輩のこと。
地面を映す視界の中で、白いジャージの足だけが見える。
ああ、来るなって。こっちへ来るな、俺を見るな。
震える腕で、体を持ち上げる、見上げた先で彼に拳が向いていた。
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