- ナノ -


拾参


対戦相手の解析も終わり、監督からの指導も受けてそろそろ解散という時に、皆が集まっていた大部屋にホテルスタッフが訪れた。

「打ち合わせ中に申し訳ありません。ホテルに『孫に会わせて欲しい』というご年配の女性が来られていまして。お約束をされていた方はいらっしゃいますか?」

恐縮しながらそう告げてきたスタッフに、監督が該当者がいるかどうかそれぞれに視線を向けるが、皆覚えはなく手を挙げるものはいなかった。
こうした大会中に家族がやってくることはなくはないが、こんな夜遅くに来たのは初めてだ。

「バスケをしているとのことだったので、こちらだと思ったのですが……」
「お孫さんの名前は言っていなかったんですか?」
「はぁ、ただ会いたいとしか教えていただけず」

疲労を浮かべるスタッフに、色々と調べ回ったのだろうというのが伺えて少し同情する。
なかなか頑固そうな老婦人のようだ。監督が髭を触りながら、次いで質問をした。

「その方のお名前は?」
「梅北様という方で」
「梅北?」
「どうした松本」

出てきた苗字に思わず声が出て、監督とスタッフの視線がこちらへ向く。
それに慌てて説明をするために口を開いた。

「すみません。母方の苗字が梅北だったので」
「なら松本のお婆さまなんじゃないのか?」
「けど、連絡ももらってないですし、それに……」

思わず声を上げてしまったが、母方の祖母が俺に会いにくるわけがないのだ。
確かに母方の両親の家は神奈川にあった。だから元の家も神奈川にあったのだ。神奈川県内で少し遠くても、母方の両親に会いに行ける距離に家を建てたと聞いたことがある。母方の祖父が心配性だったのだと父が言っていた。
だが、それでも会いにくるはずがない。連絡をもらっていない、ということももちろんある。だが、それよりも――。

「俺は会ったことがないので」
「……そうか。だがもしもの可能性もある。一度顔を見せて、違うならそれでいい。会議はもう終わる。行ってそのまま部屋に帰っていいぞ」
「は、はい」

テキパキと指示を受け、体に染み付いた癖で返事をしてしまった。
言ったからには行かなくてはと、安堵の表情を浮かべているスタッフの元へ行く。
こちらです、と案内される後ろをついていくが、おそらく俺のことではないと思うので少し申し訳ない。
ホテルのフロントまで案内され、置かれていたソファに座っている一人の老婦人を見つける。
背の低い、灰色の髪の老婦人だった。手押し車――確かシルバーカーと呼ばれている――がそばに置かれている。
その姿を見て、なぜだか不思議な懐かしさを感じた。彼女ではないのに、彼女に似ている人を知っている気がする。
スタッフが老婦人の近くへ行き、事情を説明したのか彼女の視線がこちらを向く。

「……稔ちゃんかい?」
「ッ、あ、は、はい」
「ああ……やっぱり父さん似だねぇ」

皺が刻まれた面持ちが、少しだけ柔らかく解ける。垂れた瞼の下に隠れた眼が、確かに優しく光ったのを見て、どくりと心臓が音を立てた。
もしかして、本当に俺の祖母なのだろうか。
そうだ。似ていると思っていたのは――遺影の奥の母だった。背の小ささや丸い面持ち、そして何より雰囲気が似ていた。

「突然すまないねぇ」
「い、いえ……」
「あんたの父さんから連絡をもらってね。神奈川でバスケの大会に息子が出るから、よかったら観に行ってくれって」
「父さんが、ですか」
「ああ。自分は仕事で行けないけど、きっと息子も喜ぶからってねぇ」

喜ぶ――喜んで、いいのだろうか。これは。
なんと返していいかわからず、俯いていれば彼女は話を続けた。

「それで今日の試合を見てね、ちょっと話をしたくなっちゃったんだよ」
「そう、だったんですか」
「ごめんねぇ。もう、あたしは帰るから」

そう祖母は手押し車を支えに立ち上がる。介助しようかと思ったが、していい立場なのかどうかも分からずに途方に暮れた。
どうして今、こうして顔を合わせてくれたのだろう。
今まで、父との会話で話題にも出なかった人たちだった。俺の人生の中で、顔を見たことはなかったし、そして俺からも会いたいと思ったことはなかった。きっと、この人たちは俺の顔を見たいなどと思っていないと考えていたから。

「お帰りですか? タクシーを呼びましょうか」
「いいよぉ、歩って帰るから」
「歩いて?」

声を掛けるスタッフへ返した言葉に、思わず疑問が飛び出た。
それに立ち上がった祖母はゆっくりと頷いた。

「電車で来ててね、ここから駅まで二十分ぐらいだから」
「えっ、一人で来たんですか?」
「そうだよぉ」
「……危ない、と思いますよ。ここらへん、治安が悪いって……」
「平気よぉ、何十年住んでると思ってんの」

祖母は堂々と、そして強めにそう言い切った。その物言いに、スタッフが孫の名前を聞いても答えなかったと言っていたのを思い出す。そういえば頑固そうな人だった。
しかし、もう外は月が見るほど暮れていて、栄えていてそれなりに明るいと言っても限度がある。治安も悪いし、一人で歩いている老婦人など格好の的にしか思えない。
スタッフも同じ考えなのか、タクシーを呼びますよ。と何度か提案するが、それを「いいよ」「気にしないで」「無駄遣いだから」などと聞く耳を持とうとしていなかった。

「あ、あのっ」
「なんだい。稔ちゃん」
「……ちょっと、待っててもらえますか。十分ぐらいで戻るので」
「ああ、それはいいけど……」
「スタッフさん、十分だけお願いします」

そうスタッフに頼み、早歩きで会議をしていた大部屋に戻る。
扉を開けると、会議は終わっていたのか部員は数人しかいなかったが、目的の監督がいたため一直線に近づいた。

「違ったのか?」
「いえ、祖母でした」
「そうか。しかし帰ってくるのが早かったな」
「……はい。それで、許可をいただきたくて」
「許可?」
「祖母が駅からここまで徒歩できたらしく、徒歩で帰ると譲らなくて。見送りをしてもいいでしょうか」

内容を伝えると、監督の眉が片方寄った。それもそうだろう、治安が悪いから外に出るなと口にしたのは監督自身だ。
監督は髭を撫でた後に提案をした。

「タクシーは?」
「金が勿体無いと」
「なら私が乗せていこう」
「……乗ってくれたらいいんですが」

正直素直に乗ってくれるか分からない。この地域に慣れているからと言われてしまったらなんと返していいものか。
俺の反応に察したのか、監督はもう片方の眉を寄せた。谷のできた眉間にそろそろ戻らないと十分が過ぎてしまうと焦り出した時、ひょいと隣に人が現れた。

「じゃあ俺も一緒に行きますよ」
「一緒に?」
「はい。俺と松本さん、二人いれば大丈夫でしょ」

ね。とアーモンド型の目を光らせて同意を求めてきたのは沢北だった。
まだ残っているメンバーの中にいたらしい。確かに一人より二人の方が安全かもしれないが、俺のわがままに付き合わせるのは気が進まない。それに治安が悪いことには変わりないのだ。変に絡まれたり嫌な思いをすることもあるかもしれない。

「いや、俺は……」
「松本」
「あ、はい」
「念の為確認するが。私が拒否した場合どうするつもりだ?」

監督に遮られた先の質問に、言葉に詰まる。どうする、と言われれば――どうすることもできない。
ここで監督を説得して、監督の時間を取るわけにも行かないし、祖母が痺れを切らして行ってしまえば意味がない。
なので――監督の目を盗んで送り届けるしかない。
どうやらその考えを、監督はわかっていたらしい。答えに困っていれば、はぁ、と深めのため息を吐かれた。

「意外と、言い出したら聞かないからな」
「す、すみません」
「……沢北。一緒に行きなさい。ただし、二人とも道草は厳禁だ。それから、帰りはタクシーで帰ってきなさい。戻ったらフロントで私に連絡を取って、代金は私が払う。分かったな?」

監督の言葉に、沢北が元気に「分かりました!」と声を上げる。
だが、なんと返事をすればいいか迷う。行かせてくれるのは有り難い、タクシーの件も。けれど沢北も一緒に行くのは。
口を開こうとしたところで、沢北に手を取られる。

「ほら、行きましょ! おばあちゃん待たせちゃ悪いですよ!」

その言葉に、引っ張られる手につられるように歩き出す。
背後に回った監督に「すみません、ありがとうございます!」と礼をして、途中で上着だけを取りにそれぞれの部屋に行き、そのまま二人でフロントへと歩いていった。

フロントでは祖母がちゃんと待っていてくれて、ひとまず安心した。
座っている祖母になんと伝えようかと考えて、これならと話し出す。

「俺たちも駅まで行きます」
「え? もしかして見送りかい? 悪いよ、忙しいんだろ、戻ってお休みよ」
「いや、俺たちも駅に用があって。せっかくなので一緒に行こうかと」
「そうなのかい?」
「え、あ、はい! ちょっと駅の……店に用があって!」
「あらぁ、そうなのかい……。じゃあ、駅まで一緒に行こうかね」

祖母は少しだけ首を傾げつつも了承してくれた。話を合わせてくれた沢北にアイコンタクトで礼を言いつつ、立ち上がった祖母の隣に寄り添う。
付き添っていてくれたスタッフの人に「もう大丈夫です。ありがとうございました」と頭を下げて、そのまま三人でホテルの玄関へと向かった。
手押し車を支えにして歩く祖母の速度はゆっくりで、沢北と二人揃ってギクシャクとしてしまう。

「もう随分と寒くなったねぇ」
「そうですね。寒くないですか?」
「あたしは平気だよ」

外に出て、段差などに注意しながら進んでいく。予想通り、街灯や店の明かりでそこまで暗くはないが、人通りもある。
仕事帰りのサラリーマンやOLがいると思えば、高校生らしき青年や、二十代ぐらいのストリート系ファッションの若者もいる。場所によっては客引きやホストなんかもいて、確かに治安が良いとはいえないと思う。
以前走った時は繁華街から距離のある場所を通ったからここまでではなかったが、やはり駅の近くは物が多い。

「あの、聞いても良いっすか?」
「どうした?」
「なんで松本さん、おばあちゃんに敬語なんすか?」
「……年上の人には敬語で喋るタイプなんだよ」

まぁ、確かに祖母に敬語というのは珍しいかもしれない。家庭によるだろうが、沢北にとっては違和感だったようだ。
そうはいっても、俺も彼女と話すのは初めてだったから、なんとも説明がしづらい。だからこそ、誰でもおおよそ納得できる理由を言った。
しかしそれに反応したのは祖母だった。

「敬語なんて要らないわよ、稔ちゃん」
「え……」
「ふふ……話しづらいわよねぇ」

そう、祖母は小さく笑って、それから少し顔を上向けた。
人工的な光の奥に、星々がうっすらとだけ見え、月が丸く光っている。

「……突然来て、びっくりしたわよね」
「いえ……」
「今までもね、時々連絡はもらってたのよ。あなたの父さんから」
「そう、なんですか?」
「ええ。大きな大会に出場したとか、よかったら御二方で観にきませんかって。足は用意するからって」

そんなことをしていたのか。
父は気遣い屋で、マメな人だから母方の両親にそうして連絡をしていたのだろう。娘の息子の成長が見れる機会だから。
けれど、彼らは今まで来たことはなかった。父からそういった話は聞いたことがないし、誘っていたことも初めて聞いた。
祖母はゆるりと首を振って、ゆっくり進みながら言う。

「けど行ったことはなかったのよね。お父さんが、行かないって言うから」

お父さん――多分、祖父のことだろう。それは、そうだと思う。行きたくないだろう、見たくもないはずだ。

「……どうして、今回は」

見たくもないはずだった。けれど、祖母はやってきた。それも、こうして夜に会いにまで。
祖母が抱いている感情がわからずに混乱する。口走った言葉に、祖母はしっかりと応えた。

「お父さんがね、ちょっと前に亡くなってね」

彼女は一度目を閉じて、瞼を開けて続けた。

「色々整理をあなたの父さんにも手伝ってもらってね。あらかた片付いたし、近いから観に行こうって」

語られた言葉に、しばし絶句する。
何を、言えばいいんだろう。
ご愁傷様です? 残念です? 観に来てくれて嬉しい? 寂しいですね? ――全て、意味のないゴミに見える。
足を動かせているのか不安になったが、祖母との距離が離れていなかったから、進んでいるのだろう。
どういう気持ちでこれを、彼女は言っているんだろう。

「本当はね、ずっと観に行きたかったのよ。でも、お父さんだけ置いて行くのも可哀想だし。気持ちは分からなくもなかったから」
「……そう、なんですね」
「ええ。ああいうことがあって……。稔ちゃんの成長をというより、あなたのお父さんに言われたことをするのがってことだけど」
「父さんは悪くありません」

ピリリと電流を流されたような感覚に、いつの間にか声が出ていた。
ハッキリと発せられた自分の言葉に、しまったと思いながらも、ただひたすらにそれは事実だった。
母方の両親は、父を悪く思っているのだろうか。父は何も悪くない。何一つ。
悪いのは――母を、死に追いやったのは、

「そうねぇ。誰も悪くないわ」
「……」
「ただ、意地を張ってたの。起こったことが受け入れられなくて……。そのまま死んでしまった。だから、あたしは意地を張らないことにしたの」

祖母が振り向いて俺の腕を軽く触った。シワのある、柔らかな肌だった。
引き寄せられるように、いつの間にか止まっていた足を動かした。沢北の心配そうな面持ちが見えて、しっかりと足を踏みしめる。
そのまま、無言で駅までゆっくりと歩いた。


祖母が切符を買う間、少し離れて沢北と共に待つ。
小さな後ろ姿を眺めていれば、沢北の視線を感じて目線を向けた。

「……松本さんのその顔って、悲しい時の顔なんですね」
「……また変な顔してたか?」
「いや……。でも、笑ってほしいなとは、思いますけど」

珍しくまごつく沢北に言われたことを考える。
悲しい時の顔。どんな顔をしているのか、自分では分からない。ただ面白みない表情をしているのだろうとは思う。
泣きそうなほどに顔を歪めたり、唇を噛んだり、そう言った顔はしていない。
そもそも、今が悲しいのかも、ハッキリそうだと言い切れない。怒りのような、やるせなさのような、感情が絡み合って、言い表せなかった。
俺のせいで、父に肩身の狭い思いをさせていた。俺のせいで祖父は父を恨んだまま逝ってしまった。

「あの」
「どうした」
「おばあちゃん、喜んでましたね」
「……」
「松本さんと会えて、喜んでましたよ。試合見れたのも、顔見れたのも、話せたのも、駅まで一緒に来れたのも。多分、すごい嬉しかったと思います。俺」

沢北がそう言い募るのを、不思議な気持ちで眺めていた。
嬉しかった、か。確かに、不愉快そうな表情はしていなかった。そもそも、顔を見たくなかったら会いには来なかっただろう。
沢北の、いう通りなんだろうなと思う。
いいや、きっと彼のいう通りだ。祖母は俺に、孫に、母の息子に会いたかったんだ。

祖母が切符を買い終わり、改札まで見送りをする。

「じゃあね、気をつけて帰るんだよ」

そう言って背を向ける祖母に、何かが詰まったような喉をどうにか動かして、声を掛ける。

「おばあちゃん。今度は、俺から会いに行ってもいいかな」

祖母は、立ち止まってゆっくりと振り返る。穏やかな瞳が俺を見て、優しく微笑んだ。

「ええ、お父さんにも会いに来てちょうだい」
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