- ナノ -



リョウタ――まだ俺が神奈川にいて、恥ずかしながら不良をしていた時に一時期一緒に過ごしていた少年。
きっかけはたちの悪そうな学生――同じ学校だったのだろうか――に絡まれているのを無理やり助けたことだった。あの時の俺は喧嘩の理由を欲しがってあちこち歩き回っていたから、そういった弱いものいじめは格好の的だったのだ。
学生をある程度のして、歯ごたえの無さに失望しながらその時は去った。
だが、その後に彼から声をかけられたのだ。

『ま、待って』

緩いパーマのかかった髪に片耳につけられたピアス。バスケットボールを持った少年が、恐る恐る俺に声をかけてきた。

『俺……、宮城リョータ、あんたは?』
『……松本』
『あの、前は、助けてくれて……』
『……それだけならもう行く』
『ま、ちがっ、貸しを作るのは嫌だから……!』

――だから、助けてくれた代わりに、バスケ教えてやる……!

そこからだ、俺がバスケというものに触れ始めたのは。
しかし、まさか、あの時の少年が、彼だったとは――。
本当に頭の記憶領域機能してないんじゃないだろうか。壊れてる? SSD取り替えた方がいい? HDの方かな? どっちでもいいが不良品であるのは確かっぽい。不良だったからってか、ははは誰が上手いことをいえと。

「マツさん?」
「……ああ、ぼーっとしてた」
「え、あんたでもぼーっとすることあるんだ」

面白いものでも見つけたかのように笑みを浮かべる宮城に、年相応らしさを見つけて胸がホッコリしてしまう。ホッコリしている場合では無いのだが。
宮城にかつての不良であるとバレ、誤魔化しようもないと――だって国体で会うしな――今は公園のベンチに腰を下ろしていた。
宮城は「でも、昔も案外ぼーっとしてたかも」と懐かしそうに口にする。え、そんなにボンヤリしてたか?

「……宮城、俺の――」

昔のことは秘密にしてくれないか。そう口にしようとした所で、隣からの声に遮られた。

「えッ」
「……どうしたんだ?」
「あー、いや、あんた俺の苗字覚えてたんだって。昔はさ、俺のことはリョウタリョウタって呼んでたじゃん」

そう、昔俺は宮城の名前を間違って覚えていた。リョータ、と伸ばすのだと分からずリョウタという名前だと認識していたのだ。
けど、それは昔の話だ。今は覚えているに決まっている。何せインターハイで戦い、負けた相手なのだ。
……なんだろう。この違和感は。

「……宮城、俺の名前はなんだ?」
「は? いや、それどこぞの不良思い出すからやめて欲しいんすけど……。えっと、マツ……山? いや、川……だったっけ……」

これは……。
いや、そんな馬鹿な……。
だが、有り得る。だって四年前だ。しかも関わっていたのはほんの一、二ヶ月程度。俺だって忘れていた――いや、俺のは不良品だからだが――つまり、宮城が忘れていても、『俺』と結び付けられなくても無理は無い。今はフードを被っているから、周囲が暗いこともあって顔の上半分は彼から見えていないだろう。顔で判断したのでないのなら、彼が何を持って俺を「マツ」だと判断したのかは定かではないが――。
宮城は、マツという不良を松本稔だと思っていない――?

「もういい」
「なんすか、教えてくれたの一回だけだったデショ。なんていうんすか、名前」
「松、谷」
「谷? もっとこう、分かりやすかったような」
「マツでいい」
「……ちゃんと教えてくださいよ」
「いいだろ。俺はマツで、お前はリョウタって事で」

むしろ、そうであってくれ。
俺を山王の松本と認識していないのだったら、そのままでいて欲しい。そもそも俺が神奈川にいるのは国体の間だけ、もう一週間もいないのだ。彼とこうして二人きりであうのもこれが最後だろう。なぜならもう俺は外を走るつもりは無いからだ。自分の記憶が信頼できなさすぎてもう外に出るのも怖い。
宮城は少し黙ったあとに、ちぇ、と口をとがらせて身を引いた。ふぅ、どうにか聞き入れてくれたみたいだ。

「じゃあ、連絡先教えてくださいよ」
「……なんでだよ」
「あんた、何年ぶりだと思ってんすか。連絡先ぐらい交換しないと、あんたまたどっか消えちまうでしょ」
「……消えたのはそっちだった気がするが」

ぼんやりとする記憶の中、残っているのはバスケを教わっていた光景と、少年の不器用な笑顔と、誰もいないコートだった。
あのコートが俺たちの集合場所になっていた。教えるからちゃんと来い、という少年に暇を持て余していた俺は律儀にも欠かさずやって来ていた。
それがある日消えた。少年が姿を表さなくなったから。
俺もコートに行く理由がなくなり、そこを訪れることはなくなった。
宮城は押し黙ると、髪を大雑把に撫でる。

「それは、すんません」
「別に気にしちゃいない」
「でしょーネ。けど、なんか……顔合わせづらくなっちまって」

気まずくなったその原因。それが、今の俺なら分かる。
記憶を全て思い出した俺なら、彼が俺に会いたく無くなった訳が。
彼が来なくなる前に、とある会話をした。バスケの話ばかりで世間話などとんとしなかったが、なぜだか思い浮かんだそれを何も考えずに口にした。

『兄貴でもいるのか』

それは、彼と関わった中での、ただの雰囲気の話だった。もしかしたら、忘れていた記憶が香ってきたのかもしれないが、深い意味はなかった。
けれど、その少年にはとても深く苦しい意味だったのだろう。
彼がなんと答えたかは覚えていない。ただ、その日はいつもより早く切り上げていて、それ以降、彼が姿を現すことはなかった。
隣の青年は、もう一度頭をかいて、ボサボサになった髪をそのままに何かを言おうとした。

「バスケ」
「……へ?」
「面白かったよ」
「……そんなふうには見えなかったっすけど」
「今思えばって話だ。だから、それで貸し借りはなしだ」
「……なんすかそれ」

宮城はそう言って少し腰を丸めた。
言いたくないことを無理をして言わなくたっていい。俺は隠し事ばかりだし、俺と宮城はただ昔に少し関わっていただけだ。そんな相手に、大事なことを話す必要もない。
一方的に知っている罪悪感はあるが、本人の口から言うのは大きな負担だ。
俺たちはマツとリョウタでいい。その距離感のままでいい。――色んな意味で、と注釈が付いてしまうのが申し訳ないが。

「なんか、変わった気がしたんすけど、やっぱ変わんないっすね」
「そうか?」
「距離をつめられそうでつめられないとことか。連絡先、教えるつもりないんでしょ?」
「……」
「いいっすよ別に。ただ、」

頬をかく宮城は何か躊躇っているようで、しかしこちらを向いて言い切った。

「神奈川の国体バスケに俺出るんで、見に来てよ」
「……国体」
「あー、国民体育大会、だっけ。明日からバスケやるんすよ。俺一応出るんで、まぁちょっとしか出ないかもだけど。牧もいるし」
「……」
「あ、時間。えーっと、確か……」

そう言って空で試合の時間を伝える宮城に、内心で全て知っていると返した。神奈川の試合は山王も見に行くつもりだった。インターハイ準優勝だった海南の選手もいるのだ。既に予定に入っている。
答え合わせのようなそれを聞き終わって、宮城がこちらに改めて向き直った。

「一試合ぐらい見に来れるでしょ。勝つんで、見に来て」
「……俺に拒否権はないのか?」
「だって名前も連絡先も教えてくんねーんだもん。いいっしょ、それぐらい」

真っ直ぐに俺を見つめる青年は、あの時の迷子のような少年ではもうなかった。
見に来て、か。

「……わかった」
「! ほんと?」
「ああ。必ず試合は見る」
「ッ、約束だかんね」
「ああ」

頷けば、彼は不器用にはにかんで、それから照れたように顔を背けてしまった。

「あーっと、俺もう帰らねぇと! 彩ちゃん心配しちゃうだろうし」
「そうか、気をつけて帰れよ」
「え? はは、なんだ。やっぱあんた、ちょっと丸くなってんじゃん」

そう言うと、宮城は「じゃ!」と言ってその場から走り出した。しかし思い出したように振り向いたかと思えば後ろ歩きになり、「約束絶対守れよな!」と釘を刺す。

「分かってる」
「ん」

返事なのか独り言なのか分からない言葉で区切り、今度こそ走り去っていった。
後ろ姿が見えなくなるまで眺め、足音まで完全に無くなってから、ぐったりとベンチに脱力した。

「……こんなことになるとは」

過去の知り合い、二人目。しかも今回も湘北の選手。そして宮城の場合は俺イコール松本だと気づいていない。
試合は見る、どの試合も全部。むしろその対戦相手になるかもしれない。
嘘は言っていない。しかし彼はどう思うだろうか。人も多く入る会場だ、いない人物を探すなど出来ないだろう。それでも心は痛む。

「……とりあえず、帰るか」

時計台の時間は十時五十分。
ショートカットを全速力で走ってもホテルに着くのはギリギリ十一時か。
軽く柔軟をして気合を入れる。

「勝たないことには最後まで見れないからな」

勝たなければならない理由が増えた。
これがいいのか悪いのか分からないが、今は時間と、宮城と帰り途中に鉢合わせしないことだけを考えよう。
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