女の子が、立っていた。
少し暖かくなった、春の初めの昼下がり。病室から抜け出して向かった屋上には、先客がいた。
フェンスに寄りかかって街を見下ろす彼女は、何故か俺の知らない世界を見ているような気がした。立海の制服に身を包んだ彼女の、神秘的なその横顔を俺は眺めるだけで、声を掛けることは出来なかった。
「幸村部長!ここにいたんスか!!」
「?あ、やあみんな。」
気付けば、背後にはテニス部のレギュラー達が立っていた。今日はミーティングだけの日か。おかしいな、まだそんなに時間は経っていないはずなのに。
「やあ、じゃないだろう、精市。」
「看護師の方が探していらっしゃいましたよ、一体どれくらいここにいたんです?」
「俺達まで探し回ってしまったぜよ。」
時計を見ると午後5時。3時間近くここに立っていたことになる。
「今日は気分が良くてね、少し散歩してたんだ。」
「そうか…、そろそろ部屋に戻ろう。まだ少し肌寒い、体に障る。」
「いや…。もう少し、ここに居たいんだ。」
俺たちが話している間も、彼女はそこにいて、一度もこちらに顔を向けることなく、街を見下ろしていた。
「じゃあ、またな幸村くん。」
「また来るからな。」
「うん、またね。」
日が落ちてしばらく経った頃、みんなは帰って行った。一緒に俺は部屋まで戻った。彼女は、まだそこにいた。
暗闇に包まれた部屋は寂しい。ベッドに横になって、窓の外を眺めながら、彼女のことを考えた。
一体、何が楽しくて何を見ていたんだろう。どうして一人であんなところにいたんだろう。明日も会いに行ってみようか、あそこにいるだろうか。暗くなってしまっていたけれど、無事に帰れただろうか。どうして俺はこんなに彼女が気になっているのだろか。
次の日から、俺の彼女観察は始まった。
昼過ぎくらいに行くと、彼女は必ずそこにいた。毎日、毎日、飽きもせずそこにいて、街を見下ろす。彼女は時々、鳥や虫に話しかけ、歌ったり、何かから逃げたり、何か呟いたりしている。きっと、そんな彼女を見た人は、頭のおかしなやつだと思うのだろう。彼女はたぶん、俺のことに気付いていない。目が合うことも、話しかけてくることも一度もなかった。そして、いつも必ず一人だった。…少し、寂しそうに見えた。俺は不思議と、そんな彼女を見ていることに飽きなかった。初めて見た日と同じように、彼女を見ていると知らない間に時間がたって、テニス部のレギュラーが来た日も屋上で過ごすことが多くなった。彼女は俺たちの話を聞いているだろうか。こっちへ来て一緒に話す日がくればいいとずっと思っていた。
何故か少し、彼女は俺と似ているような気がした。そして、知りたいと思った。彼女の名前も、顔も、知らない。横顔と、雰囲気しか知らない。彼女の顔を、見ている世界を、知りたくて俺は、
「何しているの?」
声を掛けた。もう、春は過ぎ去っていた。太陽は輝いて、夏が迫ってきている。
『っ!?君、私が見え…、いや。……何してると思う?』
「俺には分からない。でも、知りたくなった。いつもここで、一人で何を見ているのか。」
『そう…、もっと早く声を掛けてくれても良かったのに。』
「俺がいたことに、気付いていたのかい?」
『気付いていたよ、毎日熱心にここへ通ってるからね。君こそ、一体何をしていたの?』
「君を見ていたんだ。君の見ている世界を、いつか見てみたくてね。でも、君は俺に話しかけるどころか、気付いてさえくれていないと思った。」
『そう…、私の見ている世界、か。きっと君には、うわぁ!!』
「え?うわぁ!!!」
彼女は突然声をあげて後ずさった。彼女の見ている先には、異形の物。それは恐らく、幽霊だとか妖怪だとかいうもの。
「君にも、あれが見えるの?」
『え!?あ、あぁ。見えるよ。』
病院生活が長くなってしまったせいだろう。生と死の狭間にある病院、という場所は特別な力がある。いつの間にか、俺は幽霊や妖怪というものが見えるようになった。
彼女がいつも逃げたり、話したりしていたのは、そういう異形のものだった。だからこそ、俺は彼女に興味をもったのかも知れない。同じものを見ることができるからこそ。
それからも、毎日屋上に通った。ほんの少しだけ他愛ない話をして、街を見下ろした。彼女の隣から見たって、きっと彼女と同じものは見れていない。でも、不思議とこの空間が好きだった。まるで、俺たちしか世界にいないような。
彼女は決して、自分のことを話さなかった。知りたくて話しかけたのに、名前以外は何度聞いても教えてくれなかった。名前さん、というらしい。どうしてここにいるの、という質問も、なんとなく、とかはぐらかされた。テニス部が来たときも、相変わらずフェンスに寄りかかったままで、こちらには決して近づかなかった。それについても、明確な回答は得られなかった。
その代わり俺は、自分のことを話した。学校のこと、部活のこと、病気のことも。それはときに愚痴だったり、不安だったり。彼女はただ、時々相槌をしながら聞いてくれた。俺のことを話したら、彼女も自分のことを話してくれるんじゃないかと思っていた。
「名前さんは、寂しくないの?」
『ん?寂しい、か…。どうだろうね、今は幸村くんがいるからさ。』
「ふふ、ありがとう。」
『幸村くんは、寂しいの?』
「いや、俺も名前さんがいるからね。仲間には毎日は会えないけど。」
『そうか…、それは良かった。それなら、私がここにいる意味になるよ。』
「ん?」
名前さんは、たまに違う表情をする。俺はそれが寂しい表情なんだと思っていた。でも、どうやら違ったらしい。名前さんの言った言葉は、よく意味が分からなかったけど、そのときまたあの表情をした。
「明日、手術なんだ。だから、暫くは来れないな、きっと。」
『そっか…、大丈夫。また会えるよ。』
「うん、そしたら今度は、名前さんの話も聞かせてほしいな。」
『はは、うーん、考えておくよ。』
手術前日。最後の名前さんとの会話。また上手くはぐらかされた。でも、また会えるから。そう、会えるならそれだけでいいと思っていたんだ。
「幸村!」「幸村!」「幸村くん!」「精市!」「幸村部長!」「幸村!」「幸村くん!」
目覚めたとき、最初に見たのは、仲間たちだった。あぁ、生きてる。帰ってきた。またこれで、テニスができる。自然と涙が溢れてきて、でもみんなで笑った。よかった、よかったと、みんなが俺の生還を喜んでくれた。
それからは、リハビリの日々だった。辛かったけど、テニスが出来なくなるより、ずっとましだと思った。どうしても、全国にはコートに立ちたかったから、医者に止められてもずっと続けた。でも、うまく歩けないから屋上には行くことが出来なかった。そしてそのまま、退院した。
テニスコートに、俺の居場所に帰ってきた。授業、部活、日常の何気無い活動が嬉しくて仕方なかった。そしてふと、彼女のことを思い出した。彼女は、どこにいるんだろう。
「ねぇ、柳。」
「なんだ、精市。体調が優れないのか?」
「いや、平気だよ。俺が病院の屋上にいたとき、フェンスに寄り掛かって外を見ていた立海の制服の女の子がいただろ?彼女、何組か知らない?」
「いや…。そんな女生徒、俺は見ていないが…。」
「そうか、じゃあ真田たちにも聞いてみようかな。」
「待て、精市。弦一郎たちも、そんなことは言ってなかった。恐らく誰も、その女生徒に気付いていなかっただろう。」
「…何が言いたい。」
冷や汗が流れる。だって、そんなはずない。俺は彼女と話をしたし、だって、だって。
「大体、立海の生徒ならその時間は授業があるはずだ。彼女は、もしかすると、お前の言っていた…」
「柳!!今日の部活は任せたと、真田に伝えてくれ!!」
「…了解した。」
…彼女は、幽霊とか妖怪だったかもしれない?そんなまさか。
急いで病院に向かった。動かない体がもどかしい。早く、早く名前さんに会いたい。違うと言ってほしい。会えば、わかるはずなんだ。
「名前さん!」
「名前さん!いないの!?」
「名前さん!名前さん!」
どんなに呼んでも、彼女は出て来てくれなかった。…いや、やっぱり俺が見えなくなったのかも知れない。入院していた時にはいつも見えていた、異形もモノたちも全然見えなくなってしまった。部屋にも、屋上にも、窓の外にも、いたるところにいた幽霊も妖怪も、何も。
「今度会ったら、君のこと聞かせてくれるんだろ?」
「大会も見に来てくれるって、約束したじゃないか。」
今なら、あの時の表情も言葉の意味も分かる気がする。寂しいからじゃなかった。俺がいつか見えなくなってしまうから、今が楽しいから、寂しくなる未来を知っていたから。本当に寂しかったのは俺。だから、立海の制服を着ていた。俺が話しかけやすいように。
彼女は何人、こうして見送って来たんだろう。出逢った人は、何人ここから出ることが出来たんだろう。
「…ありがとう。」
もう、見ることは出来ないけど。声も届いてるか分からないけど。彼女とここで過ごした時間があったから、俺は今生きてるよ。もうテニスができないって言われたあの日、ここから飛び降りてやろうかと思ったんだ。
大人になったら、忘れてしまうかもしれないけど、俺と彼女とそれから異形のものと。不思議な出会いと、時間があったことは確かだから。
どうかまた、彼女が寂しくない日がやってきますように。
気付いたのは昼下がり
(俺の世界から消えた彼女と、彼女の世界から消えた俺)