-番外編- 初めてのクリスマス
「なぁなぁアル」
「なんだいアーサー」
テレビの画面を食い入るように観ていたアーサーが、興味津々と言った様子で振り返る。
「クリスマスって、何だ?」
見れば画面の中には、クリスマス仕様に飾られた店が各々の限定商品を売り込んでいた。好奇心で輝くエメラルドグリーンの双眸に、知らず口許が綻ぶ。
「ええと、クリスマスって言うのはね……」
得意気に身を乗り出したまま、暫し記憶を手繰る。
そもそもクリスマスって何だっけ。
脳裏をよぎるのは、飾り付けられたクリスマスツリーに、赤青緑と色とりどりに光り輝く街のイルミネーション。プレゼントを届けてくれるサンタクロース。
もう随分と昔に兄であるフランシスと過ごした普段と比べて豪華なディナーや、友人達と集まったお祭り騒ぎのパーティー。
それら自分が体験して来た記憶の中から、アーサーが好きそうなものを選んで聞かせる。
多くの言葉に、初めて耳にするのだろう眉を寄せて首を傾げたアーサーは、食べ物の話だけは食い付きが良くて。
其処でふっと、俺はある物の存在を思い出した。
「あっ! そう言えば……たしかここに」
「……アル?」
俺の嬉々とした空気が伝わったんだろう。
アーサーは待ちきれないのか、テレビから完全に視線を外して俺の傍まで来ると、早くとせがむように手元を覗き込む。
きっと喜ぶに違いない。アーサーの反応を想像して溢れる笑みを抑える事なく、俺はポストに投函されたチラシが山積みされた紙の束から、一冊のカタログを拾い上げた。アーサーと二人見えるように持ち直す。
「……なんだ? それ……」
「ブッシュ・ド・ノエル、チョコレートケーキさ」
「……上に乗ってるのも喰えるのか?」
「もちろんだぞ! この家はチョコレートで、こっちのサンタクロースは砂糖菓子。……えーと……この葉っぱは飾りだけど、あとはこの切り株もトナカイも雪だるまも、全部食べられるよ」
表紙を飾るブッシュ・ド・ノエルの写真を指しながら、添えられたコメントを斜め読みで説明する。
ページを捲れば二頁目に現れたのはお菓子の家。完成品と、飾り付けを自分達の手でするタイプの二種類があるらしく、左側のページには美味しそうなお菓子の家、右側にはお母さんと子供がマーブルチョコや生クリームの絞り袋を手に、クッキーで作られたお菓子の家を彩る写真が添えられていた。アーサーが感嘆の声を上げて目を輝かせる。
「おお! これもケーキなのか!?」
「それはケーキじゃないけど……、まだまだたくさんあるから、アーサーが好きなのを選びなよ」
俺の手からカタログを引ったくって真剣に見詰める姿に、思わず毛先がツンツン跳ねた頭を撫でてから俺は優しい気持ちで微笑った。
「特別な日には、特別なものを食べるんだぞ」
この台詞を初めて俺に言ったのはフランシスだ。
子供の頃の俺は、それだけで心躍って当日が待ち遠しくなったものだと思い出す。
初めてアーサーと過ごすクリスマス。
アーサーにとっては初めてのクリスマス。
俺の意識はこの時既にクリスマスにあった。
きっと今年のクリスマスは、最高にハッピーになると信じていた。
だから、気が付かなかったんだ。
順にページを捲っていたアーサーの笑みが、少しずつ消えていた事に。
「……、……とく……べつ……」
顔を俯かせたアーサーが零した、小さな小さな呟きに。
そして……。
「おいフランシス!」
「『フランシスお兄さん』でしょうが、もー。……で、なーに?」
「……お前に、頼みがある」
普段は自分からは極力近付かないようにしているフランシスに、アーサーが……とんでもない相談を持ち掛けていた事を──。
── クリスマス当日、夜 ──
「ただいまー」
結局あれからアーサーが欲しいケーキを教えてくれる事は無く、それどころか要らないとまで言われてしまったものの、俺は適当に見繕って買ってきた。
やっぱりクリスマスにはケーキがないと。
急に気が変わった原因は聞けないままだけど、アーサーだって最初はあんなに楽しそうに見てたんだ。実物を見ればきっと食べたくて我慢出来なくなるに違いない。
そう思いながら進む廊下に、ふと覚える違和感。
明かりだけが煌々と灯っているだけで、何時もは煩いテレビの音が聞こえない。訝しみながら手を掛けた居間へと続く扉の奥からは、アーサーとフランシスの声が聴こえた。
普段は犬猿の仲な二人が珍しい。
俺は多少悪いと思いながらも、好奇心で耳をそばだてた。
「……なぁ……もういいだろ?」
疲れの滲むフランシスの声。直ぐさま慌てたアーサーの声が続く。
「まだだ……っ! もっとっ……、ちゃんとやれよっ!」
「お前ねぇ……あ、んじゃココ、入れてもいーい?」
「ばっばかぁ! 汚いからやめろっ! やめ……っ!」
いよいよ以て扉に耳を押し当てる。
フランシスの声は、俺に猥談を仕掛けて来る時を彷彿とさせるような、低いものへと様子を変えていた。
「イイじゃんイイじゃん、アルフレッドも喜ぶって……な?」
「……うう……、……アル……」
諦めたような、祈るようなアーサーの声。
俺が黙って聴いていられたのは其処までだった。握った拳がわなわなと震え出す。
「アーサー!」
扉を壊す勢いで開け放って飛び込んだ先に見たものは、机の上に四つん這いになって生クリームにまみれるアーサーで。
俺は一時間並んで買ったケーキの入った箱を落とした。
「あ、アルっ?」
「なんだアルフレッド、もう帰って来たのか?」
アーサーは頭に白いぼんぼりが付いた赤い帽子を被り、その身体は生クリームに塗れながらも艶めかしいラインが服を着ていないと物語る。
現実逃避で固まったのは一瞬で、俺はカッと音が聞こえそうなほど両目を見開いた。
「フランシス!!」
中腰で振り返ったままの体勢でいたフランシスが、によりと相貌を歪める。
「はは! よいクリスマスを! アデュー!」
「待ちなよフラッ……ああもう!」
予め俺が帰宅すれば逃走するつもりだったのだろう。スーツにエプロン姿でアーサーのお尻を覗き込んでいたフランシスは、俺が追うより早く窓の向こうに消えていた。去り際にヒラヒラと靴を持った手を振られる。
俺は怒りに任せて追い掛けようとした脚を何とか思い留め、代わりにフランシスが放ったエプロンを宙で受け止めてグシャリと握り潰した。
開け放たれた窓を閉め、歯噛みしながら鍵を掛けてカーテンも引いてからアーサーを振り返る。
「アーサー! ……大丈夫かい? フランシスは一体なんだってこんな事……」
「俺が頼んだんだ」
「……え?」
……なんだって?
「っ……食べようと……だろ……」
「……は?」
俺の理解が追い付くより先に、アーサーが矢継ぎ早に捲くし立てる。
「俺以外の苺を……食べようとしただろっ!」
「えっ?」
床のケーキ箱を睨んだアーサーが、次いで俺を睨む。
部屋に飛び込んだ際に取り落としてしまった其れは、四角い箱が垂直に落下した状態のまま、冷たい床の上に静かに鎮座していた。
俺はケーキ箱を一瞥した視線をアーサーへ戻すと、生クリームだらけの身体に手を伸ばす。
「とにかく先にシャワーを、」
料理全般を得意としているフランシスが施した、繊細なデコレーションと言う名の生クリーム塗れな肩を掴んだ。
「……っ!」
と同時にアーサーの身体がビクリと震え、見る間に目尻が涙で濡れて。
キッと睨み上げて来るエメラルドグリーンに、俺は訳が分からず成す術も無い。
「アーサー……」
「ッ……そいつも流すなら……、俺も諦める……けどそいつを喰うならっ、俺はぜってー動かねえぞ! アル!!」
「ええっ!?」
机の縁を強く掴んで震える生クリーム塗れのアーサー。
サンタクロースを模した白いぼんぼり帽子の先が、くたりと垂れる。
「アーサー、ホントにどうし……」
「特別な日に……っ食べるんだろ!?」
「…………うん?」
俺から視線を外してアーサーが睨み据える紙面。見れば机の上に開いて置かれている其れは、あの日二人で見たクリスマスケーキのカタログだった。
見開きを使ってアピールされているのは、ケーキの定番。イチゴと生クリームのデコレーションケーキ。
金で縁取られた大きな文字で『特別な日に特別な人と──』の見出しが踊っている。
なるほどよくよく見ればカタログの写真とアーサーの肩や背中に施された生クリームのデコレーションは、そっくりだった。
違いと言えば、大粒で真っ赤に熟れた正真正銘の苺が乗っているか、いないのかの差だ。
因みに大粒苺が乗ってない自称ケーキの方は、たっぷりと塗りたくられた生クリームの下が、どんな苺も敵わない特大の人型サイズである訳だから、本人的には問題ないのだろう。たぶん。
「…………」
俺は一瞬意識が遠退く程の眩暈を堪え、フランシスには殺意に似た何かを覚えた。
矜持を折ってまでフランシスにアーサーが好きそうなお勧めのケーキショップを訊いたのは、つい最近の事だ。
快く承諾して少し離れた高級洋菓子店を勧めてくれた時に、フランシスが見せた満面の笑みを思い出す。
してやられた、完璧に。
「……ア、アル……おい? っなんだよ! そんなに……そんなに……っ、俺以外の苺を……っ」
固まった俺を見るアーサーの顔がくしゃりと歪む。その今にも涙が零れてしまいそうに震える姿は、俺を大いに焦らせた。
クリームが溶けないようにだろう、低く設定されてコートを着ていても寒さを覚える温度にも心配が募る。そして何よりも俺を急かすのは、こんな事でアーサーを泣かせたくないと云う気持ちだった。
「……分かった、いただくよ」
「アル……!」
俺はエアコンのリモコンを操作して室温を上げると、コートを脱いでアーサーの直ぐ傍まで寄った。
途端に得意げな笑みで急かすアーサーに眉を下げた苦笑を返し、手始めに肩のクリームを指で掬って舐める。
「…………」
うん、生クリームだ。実に生クリームだ。
仄かに苺が香る生クリームは、けれど只の生クリームだった。
ケーキも甘い物も大好きだけど、正直これはキツい。
「……アーサー、ちょっと指貸して」
何口目かでギブアップした俺は、言うなり四つん這いのアーサーの手を取った。
不思議そうに見上げながらも協力してくれたアーサーが、片手を机から宙へ浮かせる。
「なんだ?」
「……うん、これならまだ……」
アーサーの指で生クリームを掬った俺は、指ごと口に含んだ。
咀嚼するように唾液をまぶせば、苺の味が濃くなった生クリームはフルーツの酸味と混ざり合い、さっきより食べやすくなる。
「なあ、アル……むずむずする。早く……」
アーサーの体温と暖まり始めた室温とで溶け出したクリームは、徐々に身体を伝って垂れていた。流石に机に落ちたクリームまで食べろとは言われないだろう、苺風味の生クリーム完食はもう直ぐだ。
俺はアーサーの身体をひっくり返して机の上へ仰向けに寝かせ、汚れるのも構わず身を乗り出して覆い被さった。
掃除の類は全部フランシスにやらせればいい。
「アーサー、寒くないか…い……、……」
アーサーの胸元を見た俺は、先ずは自分の目を疑った。
ご丁寧にも胸の辺りにチョコレートのデコペンシルで書かれているのは、若干溶け掛けてはいるが『アルフレッドへ』の文字。
「平気だ、……アル?」
悪びれずに見上げるアーサーに、実際悪気が無い事は分かっている。悪いのはフランシスだ、そうフランシス。
……でも俺は、そろそろ怒っていいんじゃないだろうか。いいや怒るべきだ。
「……アーサー……俺はね、怒ってるんだ」
「アル……? な……ッン!」
俺に問い返そうとしたアーサーのキョトンとした顔が艶っぽく歪み、固い机の上で背がしなる。
「……だからさ、」
アーサーの体温で溶けて柔らかくなったチョコレート。伸ばした舌を強く押し付けて舐め取った。
「お仕置き、だよ」
脇腹の生クリームを擽るように掬い取り、反対の乳首へ撫で付ける。ぬるぬると塗り込んで完成した白と茶のマーブルへと噛み付いた。
「ぁっ!」
アーサーの顔が見る間に赤くなって、本当に苺みたいになる。僅かに気持ちが収まった俺は黙ってアーサーを見下ろし、次の言葉を待った。
「ある……」
アーサーが無抵抗に投げ出されていた両手を徐に持ち上げ、生クリームに濡れた指先で俺の頬を撫でる。
「なぁ、うまい……だろ?」
蕩けたエメラルドグリーンと絡んだ視線が外せない。
「……アル……めりーくりすます」
アーサーは、それはもう綺麗に微笑ってみせた。
俺は咄嗟に身を引こうとしたが、寸での所で手首を掴まれて叶わない。
「ッ……君ねえ……!」
ああ、もう。
今の俺の状態を一言で言い表すなら、ノックダウン、だ。
ひどいじゃないか、俺が何をしたって言うんだ。誰も彼もが俺より上手で泣きたくなる。
逃げる事も二の句を告ぐ事も出来ず、視線だけがアーサーを捉えたまま逸らす事が出来ない。
「……これが……クリスマス……」
恍惚と天井を見上げたアーサーが、微かに呼吸を乱した荒い息を吐いた。
頬を滑ってぱたりと落ちたアーサーの左手が机の上を探り、その手から生クリームの絞り袋を渡された俺は、無言で受け取るしかなくて。
「来年は……、お前がしてくれよな」
無垢な笑みに返せる言葉はなく、俺は泣きたい気持ちを堪え…ただただ深く、頷いた。