初めてのシャワー編 -1-
薄暗い廊下に歩調の早い自分の足音が響く。微かに聞こえるテレビの音が、徐々に大きくなっていた。
カラスの行水もかくもと云う早さでシャワーを済ませた俺は、居間へと続く扉を開ける。
其処には、杞憂に反して何事も無く、部屋を出た時と変わらぬ姿があった。
「シャワー空いたから、君も浴びて来なよ」
肩に掛けたタオルで髪を拭きながら、テレビ画面へ釘付けな背中に声を掛ける。
「……しゃわー……?」
不思議そうに首を傾げて振り返り、明らかに言葉の意味を理解していない彼を見て……何となく、悪い予感はしていたんだ。
「……えーっと……、脱いだ服はその籠の中に入れて。タオルは此処にあるの、好きに使っていいから」
「……ああ……」
狭い脱衣所に男二人。一体どこに見所があると言うのか、さっきから俺の後ろでキョロキョロしているのはアーサー。自称、苺の妖精だ。
普通なら、立派な成人男性のなりをした彼がそんな事を言った所で、10人中10人が病院に行けと言うだろう。平凡な学生でしかない俺だって、出来るならそうでありたかった。
つまり、半信半疑ながらも否定し切れない俺には、普通ではない理由がある。
「それで、こっちがシャンプー、そっちがボディーソープね。他のは……まあいいや、使いたいのがあったら勝手に……」
ズボンの裾を捲って浴室に足を踏み入れた俺は、ズラリと並んだボトルの中から二本だけ引っ張り出して説明をした。
他のは、この家の家主兼兄であるフランシスが使っている物で、俺には良く分からない。以前、興味本位でトリートメントと印字されたボトルを使ってみた所、翌朝鏡を見た時にいつも元気な俺のチャームポイントである前髪の一房がぺったんこになっていて悲鳴を上げたものだ。
俺は返事のないアーサーを振り返った。
「アーサー、ちゃんと聞いてるのかい? って、なんでもう脱いでるんだい!」
俺が貸していた、彼にはブカブカのTシャツは既に洗濯籠へ入れられていて、足の甲まで隠れていたスウェットは、ウエストの紐を解くと同時にパサリと床へ落ちた。
「? お前が脱いだ服を籠に入れろって言ったんだろ?」
そのまま下着に指を掛けて何の躊躇いも羞恥も無くずり下ろすと、スウェットと一緒くたに籠の中へ放り込んでしまう。ふわりと香る苺の匂い。
しっかりするんだアルフレッド、絶句している場合じゃない。
「そうだけど……ああもう! とにかく俺は戻るから、何かあったら呼んでくれよ!」
叫ぶように言い捨てて、足早に彼の前を通り抜けようとすると、ドアノブに手を掛ける前に服の裾を掴まれた。
「アル」
「…なんだい」
早速呼び止める声に、視線を合わせず応える。いやいやいや。
しっかりするんだアルフレッド、完全にペースを呑まれているじゃないか。俺の方が恥ずかしがる理由なんて何処にも無い筈だ。そうだろう?
ちらりと視線を投じたアーサーは、扉を開け放ったままの浴室内と俺の顔とを見比べて、困惑気味に首を傾げていた。
「俺は服を脱いで、あと此処で何をすればいいんだ?」
……彼はアーサー、自称苺の妖精。
そして俺は、つい先日まで掌に乗るサイズだった彼を知っている。不本意にもそんな彼を丸呑みしてしまった夜、こっそり泣いた日の事だって……ああ昨日のように覚えているさ。
「……オーケィ、君はもう黙って、その椅子に座ってなよ」
「ん?椅子?この穴が空いてるヤツか? なぁアル、なんでこの椅子はケツの所に穴が空いてるんだ? ……アル?」
人間と同じサイズになって再び俺の目の前に現れた彼は、曰く改めて俺に食べられる為に神様に頼んでやって来た……らしい。
そんな目の前の現実を、俺は……とても、とても……持て余していた。
半ば強引に座らせて尚しきりに水が溜まらないようにする穴を気にする彼の肩を掴み、問答無用で背中を向けさせる。
アルフレッド、これは試練だ。誰が何の為に俺へ課した試練なのか分からないけれど、とにかく試練なんだ。試練は、乗り越えなければいけない。何故なら俺は、ヒーローだから。
俺は自分にそう言い聞かせた。
「あちっ、熱い! 溶ける……っ!」
「まだ熱いのかい? もう充分ぬるいよ」
「熱い! こんな場所でジャムにするつもりか!? ……おっ、俺があそこから流れてったら……どうするつもりだ!」
わなわなと震えるアーサーの指が差すのは、何の変哲もない排水溝。
確かに、もし彼が一粒の苺だとして、熱湯でグツグツ煮立てたらその可能性も無きにしも非ずかもしれない。少し前の、小さいサイズの彼でも危なかったかもしれない。
けれど今俺の目の前にいるのは、ガシガシとシャンプーしても平気な、童顔で眉の太い成人男性だ。
一瞬前につい想像してしまった、ギャアと排水溝に流されて行くアーサーの姿を脳裏から追い出す。
「流れて行ったりなんかしないから、平気さ。不安なら俺に掴まるといいよ」
暴れるアーサーを押さえ付けたり彼の頭にシャンプーを施したりで、もう俺はパンツまでびしょびしょだ。
何度目かの温度調節をし、自分の掌で確認してからアーサーの肩にシャワーを当てる。
「これでどうだい?」
「人事みたいに言いやがって……俺はお前の苺なんだぞ、もっと大切にしろよな……ったく……」
「はいはい」
アーサーは音を立てて鼻を啜ると後ろ手に腕を伸ばし、俺のズボンを掴んだ。控え目な指先の重みがその存在を伝える。
文句を言いつつも大人しくしている所を見ると、どうやら合格点ではあるらしい。
「よし、じゃあ次はシャンプーを流すから、上向いて……目を閉じて」
「ん、こ……こうか?」
額に手を添えて、前髪を後ろに撫で付けるようにしながら顎を反らさせる。シャワーのお湯を当てつつ、泡だらけの髪を手櫛で梳いて。
固く瞑られた双眼に、引き結ばれた唇。不覚にも感じる可愛さに、小さく笑みが漏れた。
「オーケー、もう目を開けていいよ。次は身体を洗おうか」
一旦シャワーを止めて、壁にかかったスポンジを手に取る。
フルフルと頭を振って水気を飛ばすアーサーの飛沫を受けながら、ボディーソープを垂らしてくしゃくしゃと泡立てた。
自分で洗う時は適当に済ますその作業を、泡がふわふわになるまで繰り返す。何だか楽しくなってきた。思えば誰かの世話を焼いて風呂に入れるなんて経験、初めてかもしれない。
しかし目元を擦っていたアーサーは、目を開けて俺の手の中のスポンジを見るなり、ヒッと声にならない悲鳴を上げた。
「なっ、ななっ、おいまさかそれで擦るつもりか!? 優しく手で洗えよ!」
今にも噛みつきそうな勢いで涙目のアーサーと、手の中でくしゅくしゅと形を変えるソフトスポンジを見比べる。
「あのねぇアーサー、これくらい……」
「おっ俺が傷物になったら、お前だって困るだろう!?」
宥めようと口を開いた俺は、上半身を捻って縋るように見上げてくるアーサーの胸元がやけに視界に入ってしまい、息を呑む羽目になった。小さく尖る、淡い赤。
あの苺農園に行った日に聞いた、菊の言葉が蘇る。
『アルフレッドさん、知っていますか?苺は「母」の漢字が「乳房」を表している事から「乳首のような実がなる草」と解釈する説もあるそうですよ。尤も、有名なのは「多くの子株を産み出す草」の方ですが。花言葉の中にも、「幸福な家庭」とあります。……他の花言葉ですか?ええと確か……、尊重と愛情、貴方は私を喜ばせる、無邪気、甘い香り、誘惑……』
何でもないと自分に言い聞かせた所で、スポンジを奪おうと手を伸ばすアーサーがぺたぺたと触れてくる距離の近さが、一度気になった事でやけに意識してしまう。
それすら気の所為だと誤魔化す為にも、俺は早急に折れてやる事にした。アーサーの肩に手を置いて、前を向かせる。
「わ、分かった、分かったから……」
何かが危なかった……ような気がする。いくら思春期だからって、若さ故の過ちはよくない。うん。俺は至ってノーマルだ。
「……ちょっと手、出して。代わりに前は自分で洗ってくれよ」
まだ少し警戒しているアーサーの掌の上でスポンジを握り、泡を落とす。同じように自分の手にも泡を取ると、両手を合わせてから首や肩を撫でた。
アーサーも擽ったいと笑いながら、自分で胸やお腹を撫でている。
掌から直接伝わるアーサーの肌は俺よりも少し体温が低くて、すべすべしていた。
アルフレッド、みんなのヒーロー、君は一体何処を見てる?濃厚すぎる苺の香りも、身を捩る度に揺れるお尻も、別に俺の視線を誘ってなんかいない。
その前に、彼は、男だ。……苺に性別が関係あるのだろうか。
「…………」
「ぷっ、ふひゃっ……アル、擽ってぇ……ッん、目に何か入った……」
少しぼんやりとしていた俺は反応が遅れた。
「……アーサー! 泡の付いた手で擦ったら……!」
「いッ、……ってぇぇぇえ!!」
べあああ!と仰け反る身体を支えようとした手が泡で滑り、狭い浴室に大きな音が響く。
アーサーが思い切り身を引いた事で、重心のズレた椅子がひっくり返ったのだ。当然椅子に座っていたアーサーは投げ出された形で強かに床のタイルへ尻を打つ結果となる。
「ああもう! ほら、暴れないでくれよっ……擦らないで。今シャワーで流すから……」
「……アル……うう、……目が……ケツが……うっ、うう……」
俺は尚も目を擦ろうとするアーサーの両手を捕らえて片手に彼の手首を纏め持つと、反対の手をシャワーへと伸ばした。
床に尻餅を付いたまま両手の自由を奪われたアーサーが、俯き加減に唸りながらのろのろと身を起こす。
「アーサー、大丈夫かい?」
「ケツが割れそうに痛ぇ……ジンジンする……割れちまったかも……」
「元からだから安心しなよ」
俺が彼のお尻を覗き込もうと屈んだ、その時だった。バタバタと近付いて来る忙しない足音。
「おいアルフレッド! 今の音はどうした……!?」
「うう……俺、傷物になっちまった……」
ひやりと差し込む冷気は、勢いよく開け放たれた扉の向こうから。一瞬にして固まる場の空気の中、唯一状況を分かっていないアーサーがぐすっと鼻を啜る音だけが響く。
恐る恐る振り返ると、其処には信じられないものを見るように目を見開いたフランシスが、肩を震わせて立っていた。
もし俺がフランシスの立場だったら、きっとこう考えただろう。
浴室で啜り泣く相手の両手を纏め上げて、喩え伸ばす指の先にあるのがシャワーのコックであろうと背後から腕を廻し、あまつさえ尻を覗き込む。
そんなフランシスが目の前に現れたらだ、きっと俺ならば、身内から犯罪者を出してなるものかとフランシスを湯の張られていない浴室に沈め、颯爽と相手を救出した事だろう。
だがフランシスは、暫し唖然とした後に手だけ動かして、静かに浴室の扉を閉めた。
「……フランシス、君が何を考えたのかは分かるよ。けど先に言っておく、それは、誤解だ」
「アルフレッド……あ、ああ……そ、そうだよな……お兄さんはお前を信じ……」
「アル……! ち、血が……!」
アーサーの悲鳴にも似た声を聞いた浴室の曇りガラスに映るフランシスの形をしたシルエットが、両手で顔を覆いながらバタバタと走り去って行く。
誰も居なくなった扉の向こうからアーサーに視線を移すと、彼はあわあわと慌てふためきながら俺の足元を指差していた。よく見ると、バランスを崩してひっくり返った椅子がぶつかりでもしたのか、俺の足の甲には小さな傷ができ、薄らと血が滲んでいた。痛みはない。
「……ああ……アーサー……これくらい平気さ……何ともないよ……は、はは…………」
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