運命の出逢い編 -3-
「ただの苺だろ?」
「ただの苺じゃない!」
そう言葉を交わしたきり、肩を落として自室に引き上げた俺は、ベッドに身を投げてシーツに顔を埋めた。
去り際フランシスに放った自らの台詞を思い起こす。
(ただの苺じゃないなら、なんだって言うんだ)
うつ伏せの体勢に息苦しさを感じて身体を横向きに直すと、机の上、つい先程まで小さな彼が乗っていた皿が目に入った。
(……忘れよう)
大体にして今日のこの出来事は可笑しすぎる。
先ずは彼、アーサーだ。
苺の妖精?馬鹿馬鹿しい。
ベリ天?なんだいそれは。
今日の事は全て夢だったのだ。
……そう思いたいのに。
それでも、彼は実際に動いて、喋っていたのだ。
(その彼を、俺は……)
思わず自分の腹をさする。
あの、不遜な態度で、けれど笑うと幼いアーサーが食道を真っ逆様に落ちて胃液に溶かされる様を想像してしまい、再び視界が揺らめいた。
(なんだって言うんだ、一体……)
粗雑に目許を拭う。彼が居たのだという痕跡を見ていられなくて、机上から視線を外し、瞼を伏せた。
もし、例えば自分の人生が既に決められていて。
この出逢いも誰かに……そう、運命とやらの元に位置付けられたものだとしたら。
こんな別れの仕方も必然だったのだろうか。
そんな事を考えていると、彼は自分の運命の人だったのでは、だなんて可笑しな事までそう思えてくる。だってあんな衝撃を受けたのは、生まれてこのかた初めてだ。
あまり多くは見せて貰えなかった彼の笑顔ばかりが浮かんでは消えて行く。
(もっと微笑わせてあげたかったな……)
自分が彼にした事はと言えば、驚いて、質問して、最後には食べて。
なんだい自分の事ばかりじゃないか。
こんな短い間の出逢いと知っていたら、もっと……もっと他の。
「……アーサー……」
思わず声に出して呟いた彼の名は、静寂に包まれた部屋の中へと小さく消えた。
夢を、見た。
アーサーが居る。彼は小さな手を腰に当てて怒っていた。
当然だ、なんせ俺が――。
「……お前、なんで泣くんだよ」
「え……?」
「だから、何で泣いてんのかって訊いてんだ!」
「それは……だって俺は、君を……」
目の奥から何か熱いものが込み上げて来る。
ああもう、こんなの全く俺らしくない。
眉を怒らせて真っ直ぐ注がれる視線に耐え兼ね、俺は自分の足元を見ながら言葉を詰まらせ、一言「ごめん」と搾り出した。
「……んだよ、そんなに、泣くほど不味かったってのかよ……」
そうではない。
夢の中でも相変わらず噛み合わない会話に苦笑する。
アーサーはと彼を見れば、今度はアーサーの方が泣き出してしまいそうで、俺はゆるゆると左右に首を振った。
「突然飲み込んでしまったから、味なんて解らなかったよ」
彼の望む言葉は何だろう。そう思いながらなるべく穏やかに紡ぐと、アーサーはその特徴的な眉を歪めて「そうか」と一言呟いた。
そんな顔をさせたかった訳では無い。今度は無理矢理にだが笑顔を浮かべてみる。
きっとこれが今生の別れなのだ。
そして俺は、ヒーローではないか。
なら今自分がすべき事は、一つしかない。
「……君の事、味わえなくて本当に残念だよ。……だから……もし又、次に逢う事があれば、その時は君を美味しく頂いても良いかい?」
何だか卑猥だが致し方あるまい。
俯き加減だったアーサーは顔をぱっと上げて、漸く眉間の皺が取れた顔で、今日出逢ってから今迄で一番いい笑顔を見せてくれた。
「ああ、任せろ!」
可愛い。「お前は実に惜しい事をしたんだぞ」なんて無邪気に燥ぐ彼に手を伸ばして髪を撫でると、褪せた金糸は見た目に反してとても柔らかかった。
照れ隠しなのか、上目でむくれて見せる彼の頭を撫で続けながら、矢張り今日の事は忘れずに居ようと決める。
もし、こんな夢の中ではなく、もう少しだけでも同じ刻を過ごす事が出来ていたなら、何か変わって居たただろうか。
この、先程から胸の奥底を擽って止まない温かい気持ちに名前が付いただろうか。
――俺の意識は其処で途切れる。
次の日、俺は夏休みなのを良い事に朝から一歩も部屋を出ていなかった。
まだフランシスと顔を合わせる気になれないのだ。
ああ見えて意外と心配性な兄が、何度か様子を見に来て扉の向こうから声を掛けてくれるのを全て無視する。
暫くは所在無さげな物音が聞こえていたのだが、そんなフランシスも今し方、誰かと電話をしていたかと思えば「俺が出たら鍵掛けろよー」等と言い残して慌しく出掛けて行った。
デートの約束でも忘れていたのだろうか。けれど。
(その手には乗らないんだぞ)
フランシスの言葉で部屋を出るのが悔しくて、俺は寝返りを打って瞼を閉じた。
いつまでもこのままで居るつもりはない。もう少し……時間が欲しいだけ。
(大丈夫。彼とは昨日、ちゃんとお別れしたから)
最後に見た笑みを、瞼の裏に描く。
(……忘れたく、ないな……)
どれほど経っただろうか。
――ピンポーン
微睡みに身を委ねていると、不意に無機質なベルが鳴り響いた。
俺は当然のように無視をする。
ピンポー……ピンポピンポピンポピンポ──
遊んでいるのか何なのか、耳障りな呼び鈴は、しかし余計に俺のやる気を削ぐだけで終わる。
……と、漸くベルの音が止み諦めたかと人心地ついたのも束の間、足早に廊下を歩く音が聞こえて来た。
(……ちょっ、入ってきた!?)
浮かぶのはフランシスの悪友二人の顔。
けれど――。
「おい、鍵開いてんじゃねーか。物騒だな」
渋々ベッドの上で身を起こすと同時、無遠慮に開けられた扉の先に居たのは。
「アー、サー……? え……なん、で……」
ほぼ無意識に疑問を口にする俺に、アーサーは緑の布地をばさりと音立てて、しなやかに伸びた細い腕を組んだ。
眉間の皺は彼の標準装備なのだろうか、まじまじと見遣る俺の視線に仄かに頬を色付づかせながら険しい表情で口をへの字に曲げている。
「……お前が、泣くから……」
「え……?」
小さく落とされた声は聞き取り難い。俺はベッドを降りて歩み寄った。
僅かに視線の高さが下にあるエメラルドグリーンの瞳を夢か現かとまじまじ見詰め、思わずその体躯を両手でぎゅうぎゅうと抱き締める。
温かい。
腕の中で慌てて身を捩る体躯は其れでも無理に俺を振り解く事はせず、そのまま言葉を重ねた。
「お、お前が泣いたからだなぁ! 俺はストロベリーエンジェルになれなかったんだぞ! 美味しく食べられて初めて認められんだ。……本来はこのまま消えて行く所を、女王陛下が寛大な措置を取って下さって……」
――続く話を纏めるとこうだ。
昨夜俺の夢に出て来たのは、俺が望んだ幻想なんかではなくアーサー本人で。
俺が美味しく頂きたいと言ったから……いや、うん。言ったけどね?
まさか本当に頂かれに来るだなんて判ってたら、俺はあの時もっと別の言葉を選んでいた筈だ。
しかも……。
「『食べろ』って……だって今の君は人間じゃないのかい?」
目の前のアーサーは、俺よりは小柄だが何処からどう見ても人間で。
理由を訊くと、出逢ったあの時の姿――つまりは元通りの完璧な妖精には戻れないから、半分は妖精……半分は人間として自らの使命を果たしに来たらしい。
「……君、なんだか苺くさい……。それに何だいこの格好は。まさかこれで外を歩いて俺の家まで来たなんて言わないだろうね」
「そりゃ、元は苺の妖精だからな……。――あ? んだよ、昨日と同じ格好じゃねぇか」
ああ、ああ、もう。突っ込みが追い付かないじゃないか。
けれど、いい。今はもう何もかもがどうでもよくて、腕の中に在る温もりの事しか考えられない。
嗚呼……俺の運命の人。
こうなる事も最初から決まっていたんだろうか?
今分かるのは、俺は今、確かに嬉しいと感じている事だ。
それだけで……まあ、いっか。
――その夜。
フランシスは、デートではなく菊と連絡を取って昨日の苺農園へと出掛けていたようで、あの苺農園のロゴがプリントされたビニール袋を手に提げて帰宅した。
瑞々しい果実がパンパンに詰まっている。
見た事のない男……アーサーが俺の服を着て自分の家のように寛いでいる光景に驚いた様子だったけど、驚くのはまだ早いんだぞ。
「フランシス……昨日はごめんよ。つい、カッとなってしまって……」
「いや、昨日は俺も調子に乗ってさ……悪かった。お詫びと言っちゃーなんだけど、おにーさんがすんげー美味しそうなの選りすぐって来たからなー。何、食べたい?」
「その前に少し話があるんだけど……いいかい?」
俺はちらりとアーサーを見遣る。
「えーと、彼……アーサーっていうんだけど、行く所がなくてさ……暫くうちに置いても良いかな」
もちろん反対意見を認めるつもりはないんだぞ。
うーん、と首を傾斜させながら自慢の顎鬚を撫でて思案する様子のフランシス。
俺はアーサーを呼んだ。
この兄は可愛い子が大好きだ。アーサーは男だけど童顔だし、けど男だから同居にも問題無い……うん、無い無い。無いし。
「アーサー、彼は俺の……」
「……ああ、昨日の奴か」
俺の言葉は聴かずにアーサーが口の中で呟いた。思えばフランシスは初対面だけど、アーサーからすれば面識ありか。……しかも、あまり良い印象では無い筈だ。
俺は慌てて二人の間に割って入ろうとするが、「自己紹介すれば良いんだろ?」と先に視線で牽制される。……不安だ。
「俺は苺の妖精さんだ。宜しくしてやっても良いが、俺を食べても良いのはアルだけだからな」
ぴしり、と、空気が固まる。
嗚呼……前途は、多難だ。
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