-番外編- お馴染みのライバル
「ただいまー」
「アル! やっと帰って来たのか!」
パタパタと駆けてくるのは同居人のアーサー。
自称苺の妖精……なんだけど、俺にはそのいい歳をした男性が発言するには些か問題の有りすぎる言葉を、嘘だと笑い飛ばしてやる事が出来ない理由があった。
何故なら俺は、1ヵ月前……友人の菊と一緒に訪れた苺農園で、親指サイズしかない彼と不思議な出逢いを果たしているからだ。
それからもう一つ……。
「待ちくたびれたぞばかぁ!お前がいないと暇なんだよ!」
「うっ! ……アーサー重い、ちょっと退いてくれよ。制服に君の匂いが移るじゃないか」
「なっ!? 俺が臭いってのかよ!?」
「うん。すっごーく……苺臭いんだぞ」
「ばっ……ばかぁ! 苺の何が悪ぃんだよ!」
背中をポカポカと苺級の腕力で殴りながら後ろに続くアーサーを従えたまま、自分の部屋を目指す。
自称苺の妖精を笑い飛ばせないもう一つの理由は、彼が常に苺の香りを放っているからだ。
まだアーサーが同居し始めたばかりの頃、あまりにも強烈な苺臭がもたらす寝苦しい夜に堪えかね、一回俺自らの手でそりゃもう「溶ける溶ける!」だの「そんなに力入れたら潰れるだろばかぁ!」だのと泣き喚くアーサーを全身くまなく洗い尽くした事がある。
それでも、のぼせた彼を部屋に転がして団扇で扇ぐ最中にさえ苺の香りが漂って来るのだから、もう筋金入りとしか思えない。
俺はもう諦めたし、慣れた。
尤も、今日俺が苺臭いのはアーサーの所為ばかりじゃ無いんだけれど。
俺が着替え終わるのを、ソワソワと身体を揺らしながら待っていたアーサーの動きがピタリと止まって鼻を鳴らし始める。
「……なあアル、その鞄の中って……」
「ああ、気が付いたのかい? 流石はお仲間だね」
アーサーがぺたりと座り込んで膝を擦りながら近付いて来る目の前、俺が通学に使っている鞄のファスナーを開けた。
中から取り出したのは、見事真っ赤に熟れて美味しそうな……。
「……イ……チゴ……?」
「ああ、貰ったんだ。一緒に食べ……って、アーサーきみ! 何するんだい!?」
突然俺から鞄を引ったくって俺の目から隠すみたいにぎゅうぎゅうに抱き締めるアーサーを睨む。
負けじと俺を睨み返しながら、アーサーが叫んだ。
「俺という苺がありながら……!」
「……は?」
なんだって?
「おっ、俺がいながら他のヤツを食べるだと!?」
「……へ?」
「俺の事は食べようとしねークセに、よくも俺の前で、こんな……ッ!」
目の縁にじわじわと涙を滲ませるアーサーの怒りの矛先が、俺から苺へ移る。
さっき俺から奪った手の中の苺が入った容器をキッと鋭い目つきで見下ろしたアーサーは、そのまま……。
「あああーっ! 一緒に食べようと思ったのに!」
「うるへえ! ぶぁーか!」
容器の蓋を放り投げて、涙目のままヘタごと苺を貪るアーサー。まるで苺達の悲鳴が聴こえて来そうな食べっぷりだ。
そんなアーサーに遅れて掴み掛かった俺は、うつ伏せになって犬みたいに苺を喰い漁る首根っこを掴んで引きずり起こした。
「アァーサァー……!」
「うるせえっ! くそっ……! 離せよッ! アルなんかっ……アルなんか大っっ嫌いだーー!!」
「────って事があったんだ」
「あーそー。……それで何時もより苺120%なワケね」
仕事から帰って来たフランシスは、盛大な溜め息と共に散らかった部屋を見渡した。まあ部屋が散らかっているのはさておき。
アーサーがワイルドに食べ散らかした所為で飛び散った苺果汁や、全身もれなく苺なアーサーが流した涙の染みから香り立つ苺臭、そしてそんなアーサーの涙をたっぷり染み込んだ俺の部屋着が放つ苺の香りに、今我が家は満たされていた。
スーツのネクタイを引き抜きながらフランシスが言う。
「んー……けどそれはお前が悪いだろ」
「……何でさ」
アーサーを泣かせた時点で一応は謝って、泣き疲れて眠るまで取り敢えずは宥め賺かした俺としては、これ以上は謝れないし、そもそも俺は悪い事をしていない。
そう告げれば、フランシスは呆れた兄の顔から男の顔になった。
思わずグ、と息を呑む。
「例えばお前がホストだったとする」
「……分からない例えは止めてくれよ」
「まあ聞けって。いいか? 分かり易く例えるぞ。……まず、お前がずっと付いてて接客していた娘がいたとする。そりゃもう何とか指名を貰おうとあの手この手で躍起になる。なのに! その娘は俺を傍に置いたまま期待させておいて最後の最後には他の奴等と楽しそうに……! お前にあの惨めな気持ちが解るか!?」
「……。君、その子に何したんだい?」
尚も言い募るフランシスを振り切って、俺は自分の部屋へと戻った。
こんもりと膨らんでいる毛布の塊は、アーサーだ。
(……みじめ…か……)
後ろ手に扉を閉めると完全に暗闇になる室内。無音の空間に「すん」と鼻を鳴らす音が響いた。
フランシスが騒いでいたから、起きてしまったのかも知れない。
「アーサー?」
苺の気持ちもホストの気持ちも俺には分からないけれど。
例えば、もしアーサーが犬だったら。
しかも種を植えから芽が出て今日まで数えて生後数ヶ月のアーサーは一応仔犬……になるんだろうか。
兎に角そんな俺に懐いている仔犬がいたとして、俺が他の仔犬を構ったから拗ねて丸まって泣いているとしたら……。
あ、良心が痛んできたぞ。
そっと近付いたベッドの縁に腰を降ろして毛布の塊を撫でる。
「アーサー……」
続く言葉が出て来なくて言い淀むと、シーツの塊がもぞもぞと動いて眉間に皺の寄った不満げな相貌が顔を覗かせた。
「……なんだよバカァ」
目尻に溜まった雫が零れ落ちるのと、反射的に俺が手を伸ばしたのはほぼ同時だった。指先で熱い水滴を掬い取って自然な流れのように口許へ運ぶ。
「ん……甘い」
普通ならばしょっぱい筈の雫は、泣いて暴れてシーツに籠もって甘ったるく熟した芳醇な苺の味がした。
アーサーはと云えば、何か言いたげに唇をパクパクと開閉した後に固まってしまっている。
「……お、美味しい……よ」
言葉はするりと口を衝いて出た。
「なら、もっと喰えよ……ばかぁ」
泣いて掠れて熱を孕んだ声と共にずいと差し出された手を掴む。そうして恐る恐る運ぶのは、再び自分の口許。
「……ン………」
人差し指の第一関節の辺りを掴んで指先を銜える。口腔内を満たす苺の風味と、唾液に混じってじわりと染み広がる甘酸っぱさ。
(そう言えば、苺食べ損ねたんだよね……)
唾液を絡めて啜ると口の中で水音が響く。むず痒そうに睫毛を震わせる翠の双眸から視線を外し、目と鼻の先にある指先に落とす。
ちゅくちゅくと唾液が掻き混ぜられる音に、時折鼻から抜けるようにくぐもった互いの声が重なる。
(……噛んだら、どうなるのかな)
甘い苺。ただ口に含んでいるだけで満足出来る訳がない。
薄い爪の間を舌でなぞる。何度か往復させていると、アーサーが自由な方の手を俺の頬に添えてゆっくりと撫でた。
「なあ、アル……俺、美味いだろ? もっと食べても良いんだぜ? なあ……食べろよ、俺のこと……」
伏せ目がちの双眸、月明かりだけが照らす室内で、確かにアーサーの瞳が濡れている事が分かった。
緊張でか息の上がったアーサーの声が俺の鼓膜を震わせる。
柔らかい指の腹へ、気付けば前歯を宛がっていた。
其れがごく自然な流れであるようにアーサーと視線を合わせ、目と目で合図をする。
(……まずい、流されるな…俺……)
そう思っても、止まらなくて──。
そして次の瞬間、俺は……。
「おーい、お二人さーん。お兄さん特製の美味しい美味しいスイーツが出来ちゃったぞー。ほらほらほーら、ンな暗い所にいないで機嫌直し……あれ」
俺は、掴んでいたアーサーの手を思い切り放り投げた。
ゴッ
「ッい!!?」
「……あ」
「あっちゃあ……」
鈍い音を立ててベッドヘッドにぶつかったアーサーの手が、力無くシーツの上へ落ちる。
「……う、」
「ア、アーサー……ごめ……」
「うわぁぁぁあん! 痛むだろがバカバカバカァ! アルなんか、大っ大っ大っきらいだあー!」
アーサーがボロボロと流した涙は一晩中止まらなくて、翌日俺が学校で「アルは今日も苺のフレグランスだね」なんて言われたのは、また別の話だ。