君がいる明日 - main
あの日の事を覚えてますか 前編


 その日は、確かに色々とあったけど、こんなにも鮮明に覚えてるのは、きっと──。




  ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




「あったかいね、イギリちゅ」
「ああ、そうだな」
「おれが眠っても、ずっとこうしてなきゃダメなんだぞっ」
「ん。……あったかいな、本当に」
「イギリちゅ……泣いてるの? どこか痛いの?」

「違う、違うんだアメリカ。……これは……」




  * * *




「イギリちゅー!」

 目の前で兎と戯れていた天使が、俺に気付くと満面の笑みを浮かべて駆けて来る。
 もっと早くと急くように俺へ向かって伸ばされた小さな手は、俺に全幅の信頼を寄せてくれているようで。
 俺も砂地の上に片膝を着いて両腕を広げて待ち構え、飛び込んで来た俺の腰程もない小さな身体を全身で受け止める。
 壊れ物を扱うように抱き上げれば、俺の肩に手を着いて間近から視線を合わせて来る青い瞳。
 二人して同じタイミングでふっと笑い合って、くしくしと額を擦り付け合った。

 嗚呼、ずっとこうしていられたらどんなに良いか。

 可愛いアメリカ。
 俺が絶対に護ってやる。
 だから……二人ずっと、支え合って生きて行こう。




「イギリちゅ……もう帰るのかい?」

 泣き出しそうな空の蒼と視線を合わせる為に屈み込んで、柔らかな金糸を撫でる。

「まだ帰らないぞ。少し呼ばれて会議に出て来るだけだから……、今夜は一緒に寝ような」

「俺もイギリちゅと一緒に行きたいんだぞっ」

「うーん、お前はまだ小さいからなァ……もう少し大きくなってから、な? 良い子だから」

 アメリカは不満そうにきゅっと唇を引き結んでいたけど、ずっと掴んでいた俺のズボンから手を離して一歩下がる。
 行き場を失くした小さな手は自身の服を握り締め、下唇を噛んでうにゅうにゅと泣き出しそうに潤む瞳。
 何か声を掛けなくてはと口を開く前に、背後から俺を呼ぶ声が聞こえた。どうやら馬車が到着したらしい。

「アメリカ、すぐ帰ってくるからな?」

 最後にぽふ、と一撫でしてアメリカと暮らす家から外へ向かう。
 時折振り返り、微動だにしない小さな姿を見ては痛む良心を左胸の上から押さえた。

 そのまま門の外へ出ても、馬車に乗り込んでも、アメリカが見送りに来てくれる気配は無かった。
 思わず漏れた小さな溜め息に眉まで下がりつつ、大して座り心地の良くない座席の背凭れに深く背中を預けた時、不意に聞こえてきた小さな声。
 俺は弾かれたように窓を開けて身を乗り出した。
 今度ははっきりと、声だけではなく姿も見える。

「──イギリちゅ! ……っあ!」
「……っ!?」

 躓いて地面に顔から突っ込んだアメリカを置いて、馬車はどんどん進んでしまう。操者に言って止めて貰おう。そう思った刹那、アメリカは勢い良く身を起こし──。

「イギリちゅ!」

 俺の顔を見て、にこっと笑った。

「イギリちゅ……!」

 もう一度俺を呼ぶ声を聴きながら、俺はアメリカの姿が見えなくなるまでずっと窓から身を乗り出していた。




  ◇◇◇




「もう、イギリちゅってば…おれには危ないって言ってたのに……」

 気を取り直そうとアメリカが元気に出したつもりの声は、矢張り何処か寂しげだった。
 立ち上がると少し膝を擦り剥いていたけど、これくらいの怪我、どうって事ない。
 なのに、まるで自分の方が転んだみたいに泣き出しそうな顔をしていたイギリスに安心して欲しくて。
 言葉が思い付かないから、名を呼んで、精一杯の笑みを浮かべた。
 本当は泣き出してしまいそうだった事に、イギリス気付いてしまっただろうか。
 転んだ傷は全然平気だ。けれど。

「イギリちゅに、行ってらっしゃいって言えなかった……」

 他にも「気を付けてね」や、この前「早く帰って来ないと一緒に寝てあげないんだぞ!」と言った時は、イギリスは一瞬驚いたような顔をした後にとても嬉しそうな顔で「絶対に早く帰ってくるよ」と頭を撫でてくれた。
 自分だけではなく、イギリスも一緒に寝たくて堪らないのだ。
 今日も、拗ねたりしないで同じ事を言えば良かった。
 後悔と同時にじわりと目の奥から熱いものが込み上げる。
 ごしごしと目許を拭って肩を落としながら来た道を戻ると、玄関先から使用人達の声が聞こえて来た。

「大変だわ、カークランド卿がお忘れ物を……」

 イギリスが普段使っている名前に反応して、別に疚しい事など何もないのに思わず扉の陰に隠れてしまう。
 こっそりと窺い見た。
 此処からでは聞き取り難い声が途切れ途切れに届く。

「直ぐに追い掛け──……あら? …これは………だから……」

「……まあ。ふふ、なら帰って来た時に直ぐ………場所に……」

 どうやらイギリスが何か忘れ物をしたらしい。イギリスはよく忘れ物をするから其れは何ら不思議ではないけれど。
 いつもは忘れ物をしたら直ぐに届けに行くのに、大切な物が閉じられていると解るきっちりと紐の掛かった大きな封筒は、元の位置に戻されてしまった。
 瞬間、イギリスの困った顔が浮かんだアメリカは使用人の女性二人が去るのを待ってその場へ駆け寄る。

(……はやくこれを誰かに……ううん、おれが届けるんだっ)

 先程イギリスは、大きくなったら一緒に連れて行ってくれると言った。
 もっとイギリスと一緒にいたい。
 この忘れ物を一人で立派に届けて、もう子供ではない事を分かって貰おう。

(怒られるかな……)

 誰かに話したらきっと止められてしまう。
 だから行くなら、内緒でこの場を離れなければならない。
 もう、良い子だと頭を撫でてくれなくなってしまうだろうか。
 ──否、イギリスの傍にいる事が叶うなら、良い子ではイギリスの傍にいられないのなら。
 悪い子になったって構わない。

 アメリカは、手にした茶封筒を胸に抱えて駆け出した。

(まっててイギリちゅ! ヒーローがすぐに届けにいくんだぞっ!)




  ◇◇◇




 アメリカの姿が見えなくなっても、暫く窓の外から身を乗り出してアメリカがいるであろう方角を見ていた俺は、後ろ髪引かれる思いを振り切って革張りの長椅子へ腰を下ろした。
 可愛いアメリカ、転んでも泣かずに笑みを浮かべて見せた強いアメリカ。
 怪我は大丈夫だろうか。
 きっとアメリカは玄関付近でそわそわと俺を待っているだろう。帰ったらいつもの事だけど直ぐに抱き締めて、額にキスをしよう。
 そうして何処か擦り剥いていないか確かめて。
 夜は約束通り一緒に寝よう。きっと、小さな枕を抱えてやってくる筈だから。

 其処まで考えて、ふと今日持ってくる筈だったある物が無い事に気が付いた。
 忘れないように玄関の直ぐ横の棚に上げていた、何重にもなった茶色の紙封筒。

「……あー……チッ、フランスに自慢してやろうと思ったのによ」

 あの中には、可愛いアメリカを撮った写真が沢山入っていた。
 一枚たりともくれてやる気はないが、一枚一枚懇切丁寧にアメリカの可愛らしさを語ってやりたかったのに。
 嗚呼でも。

「忘れて来て正解かもな」

 今日は早く帰らなくては。
 アメリカが待っている。






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