君がいる明日 - main
モソハソA


――――プロローグ――――

 投げかけられた疑問符が羅列するパソコンの液晶モニター。
 オンライン表示である緑の明かりが消えてしまったアイコン。
 来るだろうなと警戒三秒、聞き慣れたオープニングテーマに設定してある着信音を奏でる端末に手を伸ばす。
 発信者名は、予想していた通りアーサーで。ごくりと唾を呑んでから通話に切り替える。
 初の通話に、僅かな緊張。
 ターゲットは無実のアルフレッドか、それとも怒り状態のモンスターより手強い相手か。
 さあいざ、尋常に勝負!

「ハイ! ア……」
『おい、テメエ……いいか、次の休み、必ず家に来い』

 返事を待たずして切れたドスの利いた声に、鼓膜から口元まであちらこちらがむずむずする。
 それは激しいデートのお誘い。
 ──などと思ってるのは、もちろん自分だけだと分かっている。
 何にせよ初のお宅訪問の誘いを受けたアルフレッドは、菊曰く大層鬱陶しく頭がハッピーセットだったらしい。

 なんだいそれ。ハッピーなセットって、それってすごくいいことじゃないか!

 まだまだ初めて尽くしの関係は、始まったばかりだ。








 待ちに待った週末の土曜日。天気は晴れ。
 アルフレッドは、授業の一限目に出席する日よりも早起きをして、いつもより長めにシャワーを浴びて身支度を整えた。
 そうして予定より一時間も早く家を出たはずなのに。
 ふと視界に入った洋菓子店で手土産を選んでいるうちに時間が過ぎて、電車に乗り遅れそうになって走る羽目になってしまう。
 汗くさくないだろうか、肩口に顔を寄せてすんと鼻を鳴らしてみたが、自分では分からない。
 箱の中のドーナツが片側に偏ってしまった気がして、ガサガサと左右に揺らした。
 乗り慣れていない電車に揺られながら、アルフレッドはそわそわと落ち着かない気持ちを持て余す。
 昨日は日付が変わる前にベッドへ潜り込んだが、なかなか寝付けなかった。
 遠足前の子供って、きっとこんな感じだ。そう自嘲するアルフレッドの口元は、楽しげに綻んでいた。



 アルフレッドが呼び出された理由は、アーサーの家のパソコンを直す為である。
 正確には、インターネットに繋がらなくなったパソコンが壊れていないか確認し、再び繋がるまで世話をする為。
 数日前、アーサーを口説き落とすことに成功した。
 無料でできるインターネットの通話ツールを、とうとう導入すると言ったのである。アルフレッドには、むしろ今まで使っていなかったことの方が驚きだ。毎日ゲームをして、実際に顔も合わせて、連絡先だって交換しているのに。
 初めて会った時、その場の勢いと押しに任せて交換した携帯電話の連絡先。メールでやりとりをしながら、なんとかダウンロードまでは成功して、と、ここまでで二時間かかった。チャットが出来るようになり、通話まで後一歩。
 簡単だから、便利だから、ゲームがもっと楽しくなるから、そうやってなんとか宥め賺して了承の原質を取り、あとはオーディオ機器を繋ぐだけのはずだった。
 だが、コードを差す穴がない、音が出ない、何も分からないと言うアーサーからなんとか言葉を引き出しながら説明していた最中、突然アーサーがオフラインになり、インターネットの接続も切れてしまったのだ。曰く「アルフレッドの所為でパソコンが壊れた」そんなバカな、何かおかしな事をしたんだろう、何をしたのか具体的に説明してくれ。そう言って聞いてくれる人なら、最初からここまで苦戦はしていない。
 そんな訳で、アルフレッドはアーサーの家の呼び鈴を押すに至ったのである。
 通話を渋り、会うのを渋り、野生動物の警戒を解くかの如く縮めてきた距離が、噛み付かれるように近付いた。
 教えられた住所と画像で送られた地図を頼りにやって来たアーサーの家は、駅から少し離れた、小さな庭付きの一軒家だった。アルフレッドの家からは、電車を乗り継ぎ、徒歩も含めてドアトゥドアで二時間ほど。
 肩に下げたメッセンジャーバッグには、ゲーム機と分厚い攻略本、さっき手土産に買ったドーナツの箱、家にあったスタンドマイクが入っている。最近新しいヘッドセットを買ったから使わなくなった物だ。他には財布と、あと何か持って来てたっけ。
 ブツッと音がして、機械越しに誰何を問うぶっきらぼうな声。カメラに向かって笑みを向ければ無言のままプツリと切れて、続いてドタバタと廊下を走る足音が外まで聞こえた。ガチャンと鍵が開けられて、勢いよく開かれる扉。
「アルフレッド!」
 歓迎の声に視線を合わせて、片手を軽く挙げる。
「ようこそなのですよ!」
 下げた目線の先で、両手に片方ずつ持ったルームシューズを床に並べているのは、自称紳士なんかよりよっぽど礼儀正しい小さなジェントルマン。
「ハイ、ピーター」
 この家の兄弟とアルフレッドが顔を合わせるのは、これで五回目だ。今日までの四回は、全てリアル集会所という、ゲームをする事に特化して作られたカフェスペースで。
 ピーターは「アルフレッドはプラチナなのですよ!」とグレードのすごさをアーサーに聞かせていたが、対するアーサーはよく分かっていないようだった。
 君が捕まえた男は相当な実力者なんだぞ、なんて台詞を言った日には、思い切り皮肉られるかそっぽ向かれて臍を曲げられるかのどちらかだろう。それが分かるくらいには、それなりに濃い四日間だった。
「アーサーは?」
「待ちくたびれてるから早くなのです!」
 爛々と輝く瞳で腕を引かれて悪い気はしない。慌てなくても大丈夫だと言いながら靴を履き替えて、促されるまま奥を目指した。
 そうしてお待ちかね、自称紳士の方はと言えば──
「よお、よく来たな」
 ほらこれだ。
 すっきりとシンプルな部屋の中央で両手を組んで仁王立ち。睨む視線は過保護に構う弟の存在もお構いなしにアルフレッドを射抜いている。紳士なんかじゃない、ってタイトルで、君の取扱説明書でも書いてみようか。
 顎でしゃくられる先にあるのは、随分と年季が入ったデスクトップ型のパソコンだった。ねえそれいつ買ったんだい、なんて聞くほど野暮じゃない。
「ぜってー直せよ」
「はいはい」
 弁償しろと言わないところは彼の慈悲か信頼か。アルフレッドはメッセンジャーバッグをフローリングの床へ降ろして、物言わない筐体へと近づいた。手で触れて、とりあえず配線の確認をしようと背面を覗き込もうとするアルフレッドの後ろから、ふさふさと二対の眉毛が更に覗き込もうとしている。
 はっきり言って狭いし暗い。その眉毛、近くに寄りすぎて移るなんてことないだろうね。そんな悪態を心の中で吐きながら、鼓動を早める胸を宥めすかした。
 アーサー曰く「壊れた」パソコンの原因はすぐに分かった。配線だ。抜けかけてる。こんな事だろうとは思ったけれど、まさか本当にたったこれだけとは。
 脱力しつつも念の為に一度抜いて、破損の有無を確認してからしっかり奥まで差し込み電源オン。インターネットに繋がる事をアーサーに確認して貰って(前回終了した時の状態で開かれたウィンドウがいかがわしいサイトだったのにはアルフレッドもピーターも冷ややかな白い目を送った)ついでにマイクの接続もしてあげるよと手を伸ばせば、渡されたのは携帯電話を購入する時にオマケでついてくるような小型のイヤホン。「これでもできるんだろ? 同僚から聞いた」って、ううんそう来たか。
 アルフレッドはバッグの中からスタンドマイクを取り出すと、机の上に乗せた。
「これ使いなよ、そっちよりよっぽどいいぞ」
 プライドを刺激してしまったのか、学生から物は貰えないと思われているのか、アーサーが押し黙る。アルフレッドは言葉を探した。
「俺はもう使ってないからさ」
「……本当にいいのか?」
「もちろんさ!」
 胡乱な言葉に、アルフレッドは笑顔で頷いた。
 このまま持っていたところで、ずっと仕舞い込まれるか捨ててしまうかのどちらかだろう。
 アルフレッドが繋いでやれば、アーサーは感嘆の声を上げて机の上に鎮座するスタンドマイクをしげしげと眺めた。
「どうやって使うんだ?」
「ついでに設定もやってしまおうか。この前ダウンロードしたやつあるだろ? そう、それ。ログインして」
「お、おう……」
 タイピングだけは慣れた様子で軽快な音を鳴らすアーサーが画面に表示させたのは、無料で通話やチャットが出来るツールだ。左側に表示されるリストには、一人しかいない。「ヒーロー☆ナンバーワン」アルフレッドの登録名だ。
「ちょっと貸して」
「ん」
 アーサーの手からマウスを攫ったアルフレッドは、見慣れた自分のアイコンをクリックした。すると右側に大きく表示された画面の中、受話器のマークをカーソルで示す。
「ここをクリックすると通話の発信ができるぞ。あとは相手が受ければ普通の電話と同じ、マイクに向かって喋るだけでオーケーだぞ。ミュートはここで簡単にできるから」
 マイク本体の横にある小さくて出っ張ったスイッチを押して見せる。押す度に明滅するオレンジの小さな明かりは、光っている時がミュートの状態だ。
 アーサーより低い位置から、机の上に手を乗せて同じようにアルフレッドの指を追う丸い瞳に視線を合わせる。アーサーが忘れても、ピーターが覚えていてくれるだろう。
「あ、あー……あー……──こ、こうか?」
「……うん、そうそうそんな感じ」
 ぱくぱくと開く唇がマイクにくっつきそう。顔を寄せすぎだ。そこまで口を近づけなくても声は届く。あれでは鼻息まで入ってしまうだろう。言おうか言うまいか迷った末に、アルフレッドは結局何も言わないことにした。一度マイクの向こう側で聞いてみてからでも遅くない。
 ふっと零れた笑みに二人分の視線を向けられても、アルフレッドは何でもないよと返した。
 ついでに酷い唸りを上げていたファンの掃除もしようとハードディスクを開ければ、最初はハラハラとしていた兄弟の緑の瞳と青い瞳が揃って丸く輝いて。
「おまえ、すげえのな」
 感心の声を上げるのはアーサーだ。ぽかんと開いた唇に、得意気になったアルフレッドがどうだと見返せば、きゅっと引き結ばれて。外せずにいた視線の先で、アーサーの唇がそわそわと開かれる。
「あ……あとな。お前、アレできるか?」
「ん?」
 パソコンとアルフレッドを交互に見ながら身振り手振りのジェスチャーを交える「アレ」はさっぱり伝わらない。もう少し詳しく、と、耳と注意を傾ける。
「あー……なんつったかな、パ、パーテーション……? それしとくとウィルスにやられても大丈夫なんだろ? パソコンの中でデータの保存先を分けて、初期化しても全部消えないとか聞いたんだが……」
「ああ、パーティションの分割ね。リカバリーする時に残るデータを作りたいのかい? できるぞ。やろうか?」
 アーサーの顔が、みるみる今日一番に輝いた。
「たのむ!」
 はいはいと肩を竦めて見せて、パソコンの前にいたアーサーと場所を代わる。
 椅子に座って画面へ向き直り、後ろでアーサーが「ピーター、向こうでちょっと遊んでろ」と人払いした理由を、パソコンの中に見た。
 こんな画像や動画ばかり漁るから、ウィルスを拾ってくるんだぞ。
 照れ臭そうにはにかむアーサーは、どこか誇らしげだった。
 ──くそっ。
 可愛いなんて、思ってない。



 あ。南方の壁にオトモ発見。
 手持ち無沙汰に見渡した部屋の中、ベッドの上。枕の傍で、キリッと凜々しい表情をした猫のぬいぐるみが壁に凭れていた。勇猛果敢に大型モンスターに挑む相棒は、猫を模した某狩猟ゲームのマスコット的キャラクターだ。ゲームカフェで同じ物が販売されているのを見た気がする。アーサーが自分で買ったんだろうか。
 扉が開いて、ふわりと鼻腔を掠めたいい匂いに振り返る。
 作業の途中でキッチンに向かったアーサーは、ピーターと紅茶の香りを連れて戻って来た。途端に覚える空腹に、ドーナツを買ってきた事を思い出す。
「お土産を持ってきたんだ。みんなで食べようよ」
「お、気が利くじゃねえか。なんだ?」
「ドーナツだぞ!」
 鞄と一緒に傍に置いていた袋の中から、カラフルなデザインの箱を取り出すと、子供の顔が嬉しそうに綻んだ。
「僕、お皿持って来るですよ!」
「一番でかい皿、分かるか? 戸棚の上から三段目だ!」
 ぱたぱたと走り去る背中にアーサーが声を張る。任せるですよとの応えが廊下に響いた。

 皿の上に山盛りのドーナツと、アーサーが淹れた紅茶を机に用意して。各々ゲーム機を携えれば準備はオーケー。
 いざ行かん、狩りの世界へ!
 今日の為だけに、攻撃力を保ちつつサポートスキルに特化したスーパースペシャルヒーロー装備を揃えたんだ!



「今のどうやったですか!? なんでアルフレッドはいっつも攻撃を避けられるのですか!?」
 場所をアーサーの部屋からダイニングキッチンへと移し、アーサーはキッチンで夕食の支度、アルフレッドはピーターを膝の上に乗せて、二人でひとつの画面を覗き込んでいた。
 ゆさゆさと腕を揺さ振られ、アルフレッドはゲーム機をしっかり持ち直しながら視線で画面を示す。
「モンスターの攻撃は基本的に予備動作があるんだ。攻撃を繰り出す前に……ほら、いま前足で二回地面を掻いただろ? こっちに向かってきたら、一拍置いてから右に転がって避けるんだ──来るぞ!」
「っ……あああっ!」
「惜しい!」
 大型モンスターの体当たりを避けきれなかったピーターのキャラクターが、吹っ飛ばされて地面に倒れる。悔しそうな声に、アルフレッドは小さな頭を撫でた。
「ちょっとタイミングが早かったね。いい線いってるぞ。ナイスファイト」
「次は絶対避けてやるですよー!」
 悔しげに足をバタつかせるピーターは、一旦モンスターに背を向けて逃走した。安全な場所で体力を回復してからの再チャレンジ。
 焦ってすぐに回避行動を取ると、向かって来るモンスターも軌道を変えて逆に避けられなくなってしまう。タイミングは、ほんの一呼吸引き付けてから。
「──……ッ!?」
「すごいじゃないか!」
 三回目で動きを見切ったピーターが、満面の笑顔で振り返る。手のひらをパチンと合わせると、ピーターはゲーム機を片手にひょいと膝の上から飛び降りてアーサーの傍まで駆けて行った。
「見るですよアーサー! 僕は強くなったのです!」
「うるせー、まだ向こうで遊んでろ」
 アーサーは正面を向いたまま、片手でぐしゃぐしゃとピーターの髪を掻き混ぜている。満更じゃない様子のピーターは、ゲーム機を片手に尚もアーサーの腰に張り付いてにこにこと見上げていた。
 エプロンをつけた背中に声をかける。
「アーサーも一緒にやろうよ、夕食はピザでも取ればいいじゃないか」
 アルフレッドがそう言った理由は、なにもピーターの為だけじゃない。もちろん自分の為でもない。
 さっきから、やけに焦げ臭いのだ。背後で遊んでいるのが気になって集中できないなら、デリバリーを頼めばいい。
 アルフレッドの声に振り返ったアーサーは、しわしわと眉間を潜めると、ふいとそっぽを向いて料理の続きを始めてしまった。
 まったく素直じゃないんだから。
 きっと材料だって用意してくれていただろうに、気分を悪くしてしまっただろうかとアルフレッドが思ったのは、しばらく経ってからだった。



「……できたぞ」
「お腹ぺこぺこなのですよ!」
 ぼそぼそと紡がれる呼び声の召集に食卓へ向かうと、料理と呼ぶにはなかなかの代物が並んでいた。
「──…………ワオ」
 気にした様子のないピーターに、アルフレッドも椅子を引いて席に着く。
 表面をこそげ落としたのか不格好なローストビーフ、溶けて原型を失いかけている豆と何かを煮たのであろうよく分からない物、こんがりを通り越してしまったポテトと思しき黒々とした集合体。
 視界への暴力を厭わない料理たちの中で、一品だけまとも……もとい、見目美味しそうな料理が乗っていた。
「これは成功してるじゃないか、美味しそうだぞ!」
 さっきまで子供の相手をしていた影響か、純粋に褒めてしまった気恥ずかしさで体温が上がる前に、アーサーが一層声を潜めて言った。
「……隣の家からの、差し入れで……キッシュだ。デザートに……タルトもある……」
 言葉を失うアルフレッドを尻目に、隣の席ではいただきますの元気な声。どうやら背後でゲームをする二人に気を取られて失敗した訳ではなく、これがこの家の日常風景、──なのだろうか。
 食卓とは、小さな戦場である。



「──もうこんな時間か。おい、ピーター。寝るならちゃんとベッド行け」
 食後の狩りも順調にこなしてしばらく。ソファにピーターを挟んで三人座っていた。こくりこくりと船をこぎ始めたピーターに、アーサーが言う。現在、時刻は二十二時。
「もっと遊びたいですよ……」
「わがまま言うヤツの夢には、悪いお化けが出てくるぞ」
 ピーターよりもびくりと肩の跳ねたアルフレッドに、アーサーからの怪訝な眼差しが刺さったが視線を逸らした。
 眠そうに目を擦っていたピーターが、小さな指先でアルフレッドの服を掴む。
「んー……アルフレッドは、明日もくるですか?」
「え?」
 アルフレッドとアーサーが思わず顔を見合わせる。
「そいつだって忙しいんだ。また今度、次は集会所でな」
 ひょいと片眉を上げたアーサーがピーターを窘めると、ピーターは兄に似た眉をしょんぼりと落としながらアルフレッドを見上げた。
「……明日は忙しいですか?」
「忙しくは、ないけど……ちょっと遠い、かな……?」
「もう来てくれないのですか?」
「えーと……そんなことはない、ぞ?」
 アルフレッドはアーサーとピーターの顔を交互に見比べた。明日の予定は特にない。むしろいいと言うならば距離など厭わない、大歓迎だ。が、アーサーはどうだろう。
「ならうちに泊まればいいですよ! アーサー……」
 妙案を思いついたというように笑顔を明るくしたピーターが甘えた声でアーサーを呼ぶ。今この場で誰が決定権を持っているか、分かってるんだろう。イエスの引き出し方も。案の定、さっきまで厳めしい兄の顔をしていたアーサーは困ったように頬を掻いた。
「つったってなあ……」
「俺は構わない、ぞ?」
 横からそっと差し出すのは、子供の希望を叶える言葉に乗せたアルフレッドの本心。アーサーは、望んでくれているだろうか。
「──ったく……」
 負けを認めるように両手を挙げて了承する声からは、本心が測れない。
「やったのですよ!」
 ハイタッチを求めて伸ばされる小さな手のひらに、アルフレッドは自分の手のひらをぱちんと合わせた。
「ほら、行くぞ」
 素直に立ち上がったピーターを連れて寝室へ向かったアーサーは、戻ってくると手に持っていた服をアルフレッドに投げて寄越した。
「お前が着れるサイズの服がねえ、それで我慢しろ」
「寒くないし、何も着なくても……」
「客人を全裸で寝かせる紳士がいるかよ」
 広げて見れば、少し腰回りが緩いハーフパンツとTシャツ。そして新品と思しき下着が入ったパッケージだった。
「これ君の?」
「ああ。シャワーはどうする?」
「借りてもいいかい?」
 朝は急いで走ったし、ピーターと一緒にはしゃいで汗をかいていた。
「こっちだ、案内する」
 アーサーの後を追ってリビングを後にする。
 連れられたのは、あちこちに子供の玩具が置いてあるバスルームだった。簡単な使い方の説明をしたアーサーの背中を見送って、しっとり汗ばんだシャツを脱ぎ落とす。
 初めて遊びに来た家でシャワーを借りて、泊まることになるなんて。一体誰が想像するだろう。
「あ。何かあったら、呼べば来る。ピーターが起きるからあんまデカイ声は出すなよ」
 ジーンズを下ろそうとしていた手を咄嗟に上げた。
「ッ──メ、メールするから!」
「そ、そうだな。っ気付かなかった訳じゃねえぞ!」
「はいはいピーターが起きるだろ!」
 片手でアーサーの背中を押してご退場願ったアルフレッドは、そわそわと落ち着かない気持ちを持て余したまま、カラスの行水もかくやという早さでシャワーを終えた。
 使ったタオルは言われた通り洗濯機の中へ入れて、借り物のTシャツに袖を通す。
「…………」
 案の定、二の腕の辺りがぴったりフィットどころか生地が悲鳴を上げていた。ハーフパンツも太腿から先まで上げるのに多少手間取り、腹周りには不安がある。決してアルフレッドが太っている訳ではなく、サイズが違う所為だと誰にでもなく釈明したい。
 バスルームを出てリビングへ戻ると、部屋を片付けていたアーサーはアルフレッドを指差して散々に笑った。
「べはははは! すっげえピチピチ!」
「それ以上笑うと怒るぞ!」
「悪い悪い。……さて、これからは大人の時間だな?」
「え……っ?」
 にやりと口角を上げたアーサーが、肩を回してコキコキと骨を鳴らす。たじろいだアルフレッドに構わず腕を引かれた。
「さっきの、俺にも教えろ」
「は?」
 アーサーがむっと眉間を寄せる。
「ピーターに教えてやってやってただろが。俺には出来ねえってのか?」
 アルフレッドは流した汗が再び噴き出すのを感じた。
 驚きを隠さないアルフレッドに、アーサーはふんと鼻を鳴らす。
「──それ、俺の膝に君を乗せろってこと?」



「なんで死にに行くんだい!」
「うるせえ! 俺は言われた通りやってる!」
 もたもたと動く指先に次の行動を示す声と、反論が行き交うリビング。時々「うるせえ」「君こそ」と罵り合いながら、ゲームをしていた。
 流石に膝に乗せろと言った訳ではなかったようで、あぐらを掻いたアルフレッドが膝を叩いた時は、真っ赤になったアーサーに怒られた。ソファの前のカーペットに座るアーサーの背後に足を広げて座り、時々手を添えながら指導する。
 菊から弓のレクチャーを受けていて良かった。内心胸を撫で下ろすアルフレッドに、アーサーは気付かない。
 調子を掴んで来たのか、ゲーム画面に夢中になっているアーサーの頭に顎を乗せてみた。のすっ。無反応。
 乗せた顎を左右に動かしたら、痛えバカと肘で突かれた。
 これはあれだ、弟が増えたと思われてる。確実に。何度か深呼吸をしたアルフレッドは、ぼそぼそと動きの鈍い唇を動かした。
「……あのさ」
「あん?」
「俺、君に告白したよね」
 あれから一度も話題に登っていないしその場の追求もなかったけれど。撤回もしていない。
「ああ、そういやそうだったな」
 どうやら覚えていてくれてはいたらしい。によによと歪む唇と緑の瞳が振り返る。
「女だと思ってたんだろ?」
 ──と、言われた言葉の意味を理解するのに、アルフレッドは瞬き三つの時間を要した。
「は?」
「会ったら男で残念だったな。勝手に勘違いしたのはそっちだ、俺は悪くねえぞ。いやしっかしアレは傑作だった」
 くつくつと楽しげに喉を震わせるアーサーは、全く、これっぽっちも、本気に取っていないようで。
 さしづめ、学生が間違えて先生のことを「お母さん」と呼んでしまう、その程度に思っているんだろう。
「っ……君ねえ……!」
 何か言ってやりたくて開いたアルフレッドの唇は、はくはくと開閉しただけに終わる。
 この関係を壊したくない。



 その後、集中力を欠いたアルフレッドのミスが目立った──とはアーサーは気づいてないに違いない──狩りは早めのお開きとなった。
 明日もできるしな、とはアーサーの言葉。なんてことない日常会話。その中に、自分がいる。繰り出された軽いジャブにアルフレッドは胸を衝かれた。これまでだって日課のようだった夜の逢瀬が、日常に溶け込んでいることを見せつけられて、堪らない。
 そんなアルフレッドの心境を置き去りに、アーサーは大きな欠伸を噛み殺した。二つ並んだ扉の前で立ち止まる。
「俺はピーターと寝る。お前は俺のベッド使え」
 扉を開けて促されたのは真っ暗に電気を落としたアーサーの部屋。
「君が使いなよ、俺はソファでいいぞ」
「なに遠慮してんだ? いいからとっとと寝ろ。人の好意は素直に受け取っとけ」
 足で膝の裏を押されるようにされて、部屋の中へと一歩踏み入る。
「ちょっと!」
「うちの朝食は八時だ、ちゃんと起きろよ。……窮屈だからって裸で寝るんじゃねーぞ」
 アルフレッドの頭から足元までを見たアーサーが、ぷくく、と笑いを堪えている。
「寝ないよ!」
 叫んだ拍子に肩の繊維がイヤな音を立てた。そちらを気にするより早く扉を閉めたアーサーと、ひとり取り残されたアルフレッド。耳に残る「おやすみ」の響きを、初めてゲームチャット以外の、生の声で聞いた。
 今夜も眠れそうにない。


 ──それからしばらく。



   



「──玉が、出ねえ……」
 アーサーはとうとうゲーム機から手を離すと、クッションにぱったりと顔を伏せた。
「もう一回行こうよ! いくらでも付き合うぞ!」
 ──随分楽しそうに言ってくれる。お前は勲章が欲しいだけだろ、もう知ってるんだからな。
 アーサーのぼやきは、嬉々として次の算段をしているアルフレッドには届かない。
 つい先日、菊という彼の友人に会った時にアーサーでも分かる実績の数々を褒めてから、どうにも火をつけてしまったらしい。
 皮肉の一つでも見舞ってやろうと顔を上げたものの、あまりに楽しそうな様子で毒気を抜かれてしまい、伏したまま頬杖をついた。
「もう十回はやったんじゃねえの、本当に出るのかよ」
「まだ六回だぞ!」
「さいですか」
 ゲーム画面を見ながらアルフレッドが言う。
 わざわざ確認してくれてありがとよ。
「大丈夫、次こそ出るんだぞ!」
 随分眩しい笑顔だなあと思う。アーサーの周りには今までいなかったタイプだ。元々友達が少ないだろうとは言うなかれ。
 最近よく顔を合わせるようになった、この大きな弟かつ大型犬のような青年に対しては、どうにも実情と剥離した穏やかで優しいイメージが強かった。完全にネットでの第一印象を引き摺っている。実際は騒がしいお子様だというのに。とんだ詐欺である。
 しかし、それが不快という訳ではない。
 脳天気なところはいかにも学生らしかったが、ふとした時に見る優しさや懐の広さは、年齢は関係なくひとりの人間として好ましく思う。
 それにしても毎週末やってくる訪問者は、他に遊び相手がいないんだろうか。
「お前、もしかして友達いねえのか?」
「失礼だな君は!」
 なら、意外と近くに住んでいるのだろう。
 思えばアルフレッドはこうしてよく遊びに来ているが、アーサーはアルフレッドの家を知らなかった。
 気付いてしまうとと、途端に不公平に感じてくる。
 ピーターがいる時は来て貰えるのが助かるが、そうでない時ぐらい、自分が行ってやってもいいかもしれない。
 今日、ピーターが年の近い友人たちと遊びに出るのは、前々から分かっていたことだった。
 一度そう思うと、すごくいい考えのような気がして。アーサーはむくりと起きて立ち上がる。
 もう、しばらくあのモンスターの姿は見たくないというのも、半分以上の本音だった。
「アーサー?」
 会社と家を往復するだけの生活、気晴らしで始めたゲーム、新しい出会い。アーサーは自分の中に、新しい風が吹くのを感じていた。
 何も知らずに呆けた顔で見上げる青い目を見下ろすと、つい笑みが込み上げる。
 多少帰りが遅くなっても、今日なら隣家に住むフランシスの帰りが早いから食事の支度は心配ない。作らせてやるか。
「なあ、今からお前んち行きてえんだけど」
「えっ……?」
 最近はアポも取らずに来るようになった大型犬を毎度受け入れてやってるんだ。断らせるつもりはなかった。
 もしも断るならば、しばらく来るなと言ってみようか。
 短い言葉を交わし合ったゲーム内での方が、今より少しだけ素直になれる気がするのである。




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