君がいる明日 - main
とある秘書達の場合 後編


 ...英国人秘書の場合。


 ずんずんと歩調も荒く肩を怒らせて近付いて来るスーツ姿、その見慣れた少しクセのある金髪の青年に、ハワードは内心首を傾げた。こうして車の運転席に座り、連絡が来るのを今か今かと待っていた相手と、目の前の人物が重なる。
 ハワードの予想だと、自分の待ち人であり上司である祖国イギリスは、本日の会議相手であるアメリカ合衆国とこのあと食事に行く事になり、送迎はお役御免になると思っていたのだが。手の中のモバイルを確認しても、特に何の音沙汰もない。そうこうしている内に、後部座席のドアが乱暴に開かれ、シートに身を投げるような着座音が続いた。

「帰る、車を出してくれ」
「は、はい!」

 どうやら機嫌があまり宜しくないらしい。
 中途半端に振り向きかけた顔を即座に戻すと、ハワードはバックミラーの位置を直す素振りでそっと後ろの席を窺った。
 鏡越しに左右対称で映るのは、腕を組み苛立ちを隠さず眉間に深い皺を寄せたイギリス。

「くそっ、アイツ…っ!」

 独り言のように、苦々しく吐き出された短い言葉。
 アイツ、とは十中八九アメリカ合衆国その人の事だろう。二人の喧嘩はよく目にするので、揉め事は容易に想像が出来た。
 カーラジオをかけるべきか否か、逡巡した指をハンドルへ戻して、ゆっくりと車を発進させる。
 ちらちらと視線を送ってイギリスを気にかけていたら、その更に遥か後方、先程イギリスが出て来た入口からアメリカらしき人物が姿を覗かせた。

「……あっ……」

 思わず小さな声が漏れて。きょろきょろと周囲を見回し、誰か探しているのだろうその様子に。言うべきか言わざるべきか、迷った末に息を殺してミラーに映る青年から視線を外したのは、イギリスがひどく思い詰めた様子で俯いていたからだ。
 自分の仕事は、イギリスを早く家まで送り届けて、ゆっくり休ませる事にある。ハワードはキリリと眉を吊り上げ、固い決意と共にハンドルを握る力を強くした。


  ◇◇◇


「確か今日これからと、明日も予定は入ってなかったよな」
「はい、オフの予定ですね」
「そうか……。なるべく、このまま何も入れないでおいてくれ」
「分かりました」

 取り出した手帳でスケジュールの有無を確認したハワードは、余程の急を要する仕事以外は全て明後日以降に回そうと内心で決定を下す。ここが秘書の腕の見せ所、瞳の奥が闘志に燃えた。

「それじゃあな、お前も早く帰ってゆっくり休めよ」
「あっ……」

 いつもより少し下がった眉尻。薄く刷いた笑みに何か言葉を掛けたいと思うのに言葉が出て来ないハワードの目の前で、扉が閉まる。
 イギリスに向かって伸ばした右手だけが、宛てもなく取り残されて。

「……」

 閉まった扉の向こうから人の気配が遠ざかっても、ハワードは踵を返せずにいた。何か…そう、嫌な予感とも言える妙な胸騒ぎがするのだ。一度そう思ってしまえば、先程見たイギリスの思い詰めた様子も気がかりになってきて。そっと扉に手を着いた。

「…あっ…、…開いた……」

 どうやら施錠し忘れたらしい。
 不用心だと思う気持ちが半分と、導かれているような気になる残りの半分。生唾を嚥下し、ハワードはイギリスの邸宅へと足を踏み入れた。

「お、おじゃましまーす……」

 小さな声はイギリスまで届かない。手を伸ばせば触れられるような位置にいなければ聞こえない声は、誰に宛てた訳でもないものだ。
 足音を忍ばせる程にギシリと鳴る廊下。既に陽は傾き、電気の灯らない屋内は少し薄暗かった。一歩、また一歩と逸る気持ちを抑えて前へ進む。
 視界の先、扉が微かに開いている部屋は、家主であるイギリスが刺繍をしたり、時折ハワードもティータイムの相伴を受けるリビングだ。
 誰かと話す声が聞こえる。電話? 悪いと思いながらも、ハワードは扉の隙間からそっと室内の様子を窺った。

「くそっ、あの野郎……こうなったら本当に忘れてやる。フェアリー! 力を貸してくれ!」

 何もない空中に向かって語りかけるイギリス。
 何をするんだろう、そう思ってハワードが更に身を乗り出そうと扉に手を掛けたその時。

「イギリス!!」

 バタン!と扉を開ける大きな物音に次いで後ろから聞こえて来た声に、ハワードは驚きのあまり口から心臓が飛び出しかけた。つい今しがた顔を見たばかりの、アメリカ合衆国の声である。焦りに急かされるまま、一旦リビングの前を離れて別の部屋の身を潜めた。その間もズンズンと近付く足音が、少しばかり開けた扉の隙間から窺うハワードの目の前を通過する。ドキドキする胸を抑えて、耳を澄ませた。足音はそのままリビングへと入って行く。
 聞こえて来たのは、不機嫌そうなイギリスの声と、更に輪を掛けて不機嫌に違いないアメリカの声。

「……誰だ?」
「もうその冗談は止めてくれよ、わざわざ謝りに来てあげたんだぞ」

 やきもきと身を潜めるハワードに届く、二人の声。

「謝りに? お前、俺に謝るような事をしたのか?」
「……あのおかしなステッキはどこだい、先端に星が付いた」
「ブリタニアステッキのことか? 見ず知らずの奴に教えられるかよ」
「見ず知らずじゃないだろ!」

 警戒を含んだ刺のある声に対して、一際荒げられたアメリカの声。びくりと肩が勝手に反応すると同時、ハワードは内心首を傾げた。二枚舌と言われるイギリスだが、それはあくまで外交上での事。プライベートとなれば、素直ではない物言いとは裏腹に驚くほど感情を滲ませる声からは、今、嘘の気配も冗談の予兆も見えなかった。

「なんだい、普段は元保護者だ兄だって煩いクセに……。兄弟だって言うなら、俺の事を家族だと思ってるなら、そんな簡単に忘れないでくれよ!」

「お、おい!」
「ついて来ないでくれ!」
「…って俺んちなんだが……」

 ドカドカと床を踏み鳴らす音に続いて、バタバタと階段を駆け上がる音。細い隙間から視線を投じる角度を凝らして窺い見れば、取り残されたイギリスが立ち尽くしている様子が見えた。力なくだらりと下げられていた腕が、持ち上がって胸を押さえる。

「かぞく……?」

 ぽつりと、あるいは呆然と呟き落とされた声。染み入るようなその一言と、寄る辺ないトーンにハワードが意識を奪われた時、階上からガタガタと空き巣にでも押し入られたような物音が響いた。

「あっ、こら! 勝手に家捜ししてんじゃねえ!」

 一目散に二階へ向かうイギリスの姿が見えなくなったのを見計らい、ハワードもそろりと廊下に出る。

「んなとこにねぇよ! 勝手に触んな!」
「じゃあどこにあるのさ! 君の悪ふざけに付き合ってあげてるんだから、さっさと出しなよ!」

 賑やかとは付し難い喧騒に引き寄せられるように、ハワードは足音を忍ばせて階段を上がった。万が一乱闘騒ぎにでもなった際は、自分には身を挺してでもイギリスを守る義務がある。そう自分に言い聞かせて。
 恐らく、確実に、一撃ノックアウトも夢じゃないけれど。

「てめえ! さっきから言わせておけば、この不法侵入者が!!」

「俺は君の作るまっずいご飯をわざわざ食べに来てあげたんだぞ! むしろ感謝して欲しいぐらいさ!」

「俺んちでは、勝手に上がり込んで飯がまずいだの抜かす奴を客とは呼ばねえっ!」

 騒ぎの渦中である部屋の扉を視界に収め、中に飛び込むか否かタイミングを図りかねているハワードの足を止めたのは、近付いてくる二人分の足音。反射的にすぐ隣の部屋へ身を潜めると、更に近付く足音に背中を押されるように思わずクローゼットの中にまで身を滑り込ませた。
 内側からぱたんと扉を閉めたのと、二人がハワードのいる部屋に入って来たのはほぼ同時。ベッドの置かれたこの部屋は、寝室のようだ。
 なんで隠れたんだどうして同じ部屋にと後悔や焦りに駆られる反面、上手く隠れられた事に対して、よくやったハワード、流石スパイを祖父はもつだけの事はあると妙な高揚が沸く。
 兎にも角にもハワードは息を潜めた。ささやかな隙間から覗く目の前で、チェストの中身が豪快に漁られて行く。

「そこにもねぇって!」

 下から上に向かって順にチェストを引き出し、中身をバサバサと放るアメリカと、その肩を掴んで引き剥がそうとするイギリス。
 全ての引き出しを調べ終えた所で立ち上がったアメリカは、苛立ちを隠さない様子で室内を見渡した。
 その視界に、今まさにハワードが隠れているクローゼットが入った刹那に背中を伝った冷や汗は、恐怖以外の何物でもない。

「だったらどこに……まさか!」
「あ、おい!」

 ドタバタ、ガチャン。ハッとしたように一瞬だけ固まったアメリカが部屋を後にしても、イギリスに追い掛ける様子はなくて。捕まえようと伸ばしかけた手、一歩踏み出した足もそのままに、呆気に取られた様子で立ち尽くしている。
 家中に響くような階段を駆け降りる音に続いて乱暴に玄関を開け放つ音、最後に車が急発進するエンジン音の余韻を残して辺りが静かになった。

「……なんなんだよ、あいつ……家族だって?」

 小さな、とても小さな声で誰に言うでもなく零したイギリス。いつもはピンと背筋が伸ばされている姿勢からは力が抜け、さっきの騒動で手を払われでもしたのかゆるゆると右手の甲をさすっている。その手が持ち上がり、今度は左胸を押さえた。
 どこか、痛めたのだろうか。咄嗟に扉に手を掛けたハワードは……結局、出て行く事が出来なかった。
 俯き加減のその表情は、秘書として就任してから今までに一度も見たことのないもので。嬉しそうなとは言外に言い難い、少し切なげに眉を下げて湛えられた笑みに、ハワードは動けなかった。

 ――家族。
 現在、イギリスという国を形作る兄弟。スコットランド、ウェールズ、北アイルランド。彼らと仲睦まじくしている姿は見た事がなく、それは歴史書を紐解いてみても致し方ない事なのかもしれない。

(……アメリカさん、か)

 ハワード自身の目で見たアメリカは、イギリスの補佐に付いている時に遭遇する外交上の彼だけだ。
 祖父の手記には、WW2の折り、イタリアに拘束されたイギリスの救出作戦を単身軍用機を駆って参加したとあった。
 快活で自信に溢れ、イギリスの前では俄かに子供らしさも覗かせる元植民地、元弟。現、超大国。

 クローゼットの隙間から目を凝らして見詰める先のイギリスは、左胸に手を当てたまま、迷子の子どものように心許ない表情を俯かせている。
 ハワードには、矢張り出て行く事が出来なかった。


   ◇◇◇ ◇◇◇


 バタバタと、再び屋敷に荒々しい足音が響き渡ったのは、それから少しも経たない内だ。
 ぶちまけられたチェストの中身を片付けていたイギリスが顔を上げる。
 そんなイギリスを、ひっそりとクローゼットの中から見守っていたハワードの視界に飛び込んで来たのは。

「イギリス!!」

 扉を破る勢いで入室して来たアメリカの姿だった。手には、先端に星が付いたステッキが握られている。肩を大きく上下させて乱れた呼吸もそのままに、イギリスまで数歩の距離を駆け抜けるように近付くアメリカ。

「へっ? お前、なんでそれを……」

 目を白黒させるイギリスは、ステッキを受け取ろうとしてか手を伸ばすが。

「これでいいんだろ!?」

 声高に叫んだアメリカに、ひらりと避けられる。ハワードは息を呑み、クローゼットの内側から扉に手を掛けた。

「っ、忘れて欲しいなんて、嘘に決まってるじゃないか! 俺のこと、思い出してくれよ!」

 突然そんな言葉と共にアメリカがステッキを振りかぶった意図は、ハワードには分からなかった。それでもその声が、とても必死な事だけは分かる。扉に掛けた手は、そのままの状態で静止した。
 強引で勝手な奴なんだとイギリスが評していた世界一の大国、アメリカの必死な声を、ハワードは初めて聞いた。
 構えられたステッキはそのまま振り下ろされ、星の付いた先端が、イギリスの頭に当たる。

「ぎゃッ!」
「…イ、イギリス……? イギリス!?」

 ぱたんと倒れ伏した祖国を助け起こすのは自分だと……ハワードは、思わなかった。
 驚きはしたものの、イギリスの危機を察知したような焦りはない。ぽかんと口を開けて、一体何が起こったのかと目をぱちくりと瞬かせる。

「ねえちょっと! しっかりしてくれよイギリスーーー!!」

 目の前でオロオロとイギリスを抱き起こすアメリカの姿を、ハワードはそのまま口元にそっと笑みを乗せて見守った。


   ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


「──…あめりか……?」

 不意に聞こえた声に、うとうとしていたハワードの意識が覚醒する。
 もう慣れてしまった動作で、物音を立てぬよう素早く窺い見た先には。窓からの月明かりに照らされたシルエットが、ベッドの上でごそごそと動いている図。

「お前、なにやってんだよ……」

 台詞とは裏腹に穏やかな声。一匙の呆れを溶かしたような囁きは、夜の帳にぽつんと落ちて。
 暗闇に慣れた目に映るのは、ベッドの上に半身を起こしたイギリスと、そのベッドの傍まで引いた椅子に座って突っ伏すアメリカの背中。頭の辺りでゆらゆら揺らめいている影は、イギリスがアメリカの髪を撫でているのだろうか。規則正しい上下を繰り返していた肩が、ぴくりと動く。

「いぎりす…?」
「……な、なんだよ」
「俺のこと、思い出したのかい……?」
「お、俺が……お前のこと本当に忘れられる訳ないだろ。出来るなら、とっくにやってる」

 ――それを聞いたアメリカがどんな顔をしたのか、傾いた後頭部しか見えないハワードには分からなかった。ただ、イギリスの肩が跳ねて、驚いたのだろう事だけは知れる。

「ねっ眠いんだろ、お前、寝惚けてるぞ。……まだ朝までは時間があるから、」

 どちらから、いつの間にそうしていたのか。握り合った手が、雲の陰りが晴れた月夜の元に照らし出された。
 ぽすりと再びベッドに沈んだアメリカの肩が、ゆっくりと上下する。

「……アメリカ? もう寝たのか?」

 イギリスの声からは、もう昼間のような思い詰めた色は窺えない。
 どうやら無事に解決したようだ。一件落着と肩の力を抜いてほっと安堵したのも束の間。

「……誰だ」

 狭いクローゼットの中、ずっと立ちっぱなしだった足が何かに当たり、ガタンと物音を立てた。
 アメリカを起こさない為だろう潜められた、イギリスの硬い声。
 ハワードはそれに気が付きながらも、張り詰めていた緊張がすっかり抜けた気持ちのまま、勢いよくクローゼットの中から飛び出した。

「イギリスさん僕です! 秘書のハワードですー!」

 ・
 ・
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「あー……。なんかすっかり巻き込んじまったみたいで、悪かったな」

 場所をリビングへと移し、出された紅茶を啜りながらハワードは事のあらましを聞いた。
 曰く、記憶喪失の振りをしたものの後に引けなくなり、妖精に頼んで本当に消して貰っていたらしい。
 ただし、1日限りで。アメリカを忘れた自分が平気かどうか、試してみたかったと。
 ちらりと見やった視線を追えば、時計の針は昨日を終えて新しい1日を刻み始めていた。

「けどなあ、クローゼットの中にいるのはどうかと思うぞ」

 ばつが悪いのか、イギリスは紅茶を啜りながら、叱責よりも居心地の悪さを滲ませるちぐはぐに潜めた眉でハワードを睨め付けている。

「すいません……出るに出られなくなってしまって」

 イギリスが倒れた後、部屋にあるベッドに横たえて心許ない声でその名を呼んだ背中を思い出す。あの時ばかりは、イギリスの目が覚めたらアメリカの味方をしようと思ったりもして。なにやらイギリスも知らない超大国の弱みを握ってしまった気分になる。この事は、自分の胸に秘めておこう、今はまだ。
 ふっと漏れた笑みを誤魔化す為、ハワードはカップをソーサーへ戻して顔を上げた。

「でもお二人に気付かれないだなんて、僕、スパイになれるんじゃないでしょうか」
「……悪いこと言わないから止めとけ。今夜は泊まってくか?」
「いえ、帰ります。車もありますし、大丈夫ですよ」
「そうか」
「約束通り明日は仕事入れませんから、ゆっくり休んで下さいね。それじゃあ僕はこれで」

 アメリカが目を覚ました後の二人の事は気になるが、まさかクローゼットの中に舞い戻る訳にもいかない。

 兄弟水入らず、そう心の中で呟いて。

 外に停めていた車が、ステッキを取りに往復するアメリカの足代わりに使われて酷くボロボロになり果て、やっぱり泊めて下さいと屋敷に戻ったのはまた別の話。








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